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第31話 地下倉庫の封印解除

 二月上旬。

 暦の上では立春を迎えたとはいえ、東京の街はまだまだ容赦のない凍てつくような寒波に包まれていた。


 午前6時30分。

 俺は、アパートのベッドの中で、幸せと息苦しさの狭間で目を覚ました。

 息苦しい原因は明白だった。

 俺の顔のすぐ横、首筋にぴったりとくっつくようにして、黒い毛玉――愛猫のクロが丸くなっていたのだ。


 すっかりこの部屋の主となったクロだが、この厳しい冬の寒さには抗えないらしい。

 夜中に俺が眠りについた後、器用に羽毛布団の隙間から潜り込み、俺の左腕を自らの前足でギュッとホールドして「腕枕」の状態で眠っているのである。

 クロの規則正しい寝息が俺の首元にかかり、柔らかな黒曜石のような毛並みからは、お日様とミルクを混ぜたような温かい匂いが漂ってくる。


「……おい、クロ。そろそろ起きる時間だぞ」


 俺が小声で囁き、そっと左腕を抜こうとすると、クロは目を閉じたまま『ミャァン!』と抗議の声を上げ、さらに力強く俺の腕を抱きしめてきた。

 その上、俺の胸元に顔をぐいぐいと押し付け、「絶対に行かせない」とばかりにゴロゴロと盛大なモーター音を鳴らし始めるのだ。


(……可愛いすぎるだろ、こいつ)


 こんな絶対的な癒やしの結界を見せつけられて、誰が極寒のブラック企業に出勤したいと思うだろうか。

 有給休暇という魅惑的な四文字が脳内を駆け巡るが、俺は時給1200円の派遣社員だ。この温かい布団と、クロが毎日食べる無添加の高級キャットフード代を稼ぐためには、労働という名の現実に向かわねばならない。


「お前は一日中、ここで寝てていいんだからな。……留守番、頼むぞ」


 俺は断腸の思いでクロのホールドを解き、冷え切った部屋のフローリングへと足を踏み出した。

 この時の俺は、これから向かう職場が「単なるブラック企業」から、文字通りの「魔宮」へと変貌を遂げようとしていることなど、知る由もなかった。


★★★★★★★★★★★


 午前9時。丸の内商事・8階の総務部フロア。

 オフィスには、外の寒さとは別のベクトルの、ピリピリとした凍てつくような緊張感が漂っていた。


「……おはようございます、中川さん」


 隣の席の竹内塔子が、いつになく強張った顔で挨拶をしてきた。


「おはようございます、竹内さん。今朝もフロアの空気が重いですね」


 理由は明白だった。

 1月下旬に開かれた臨時取締役会において、丸の内商事のトップが交代したのだ。

 秋の株主総会で業績の下方修正を発表して以来、経営陣への風当たりは強まる一方だった。広報の小野みゆきがAI事業の構想をぶち上げてその場は凌いだものの、根本的な業績不振の責任を取る形で前社長は辞任。

 代わりに、外資系コンサルティングファームから「コストカッター」の異名を持つ新社長・新庄が送り込まれてきたのである。


 新社長の経営方針は徹底した「合理化」と「無駄の排除」だった。

 ペーパーレス化の強行、フリーアドレス制の導入、そして――社内資産の極限までの有効活用。


「中川さん……実は、今日の午後から、地下倉庫の改修工事が入るんです」


 塔子が周囲を気にしながら、声を潜めて言った。


「地下倉庫? まさか、あの第3倉庫や、さらに奥の区画ですか?」

「はい……。新庄社長が、『都心の一等地に無駄なデッドスペースを放置しておくのは経営の怠慢だ』って。地下の開かずの扉を全部こじ開けて、トランクルームとして外部に貸し出す事業を始めるらしくて」


 俺は思わず、持っていたボールペンを強く握りしめた。


「……業者が入るんですか?」

「はい。古い南京錠とか、なんかお札みたいなのが貼ってある不気味な扉もあるからって、専門の解体業者がバーナーやボルトカッターで強行突破するそうです。……なんだか、すごく嫌な予感がするんですけど」


 霊感ゼロの塔子ですら、本能的な危機感を覚えている。


 無理もない。

 かつて俺とみゆきが足を踏み入れた「第3倉庫」には、没企画の怨霊が巣食っていた。俺が自前の南京錠で封印し直した場所だ。

 さらにその奥。以前、松田透子が引きずり込まれそうになった「地下4階」という異空間に繋がる淀み。

 丸の内商事の地下には、創業以来50年間にわたって蓄積された「負の歴史」と「創業者の怨念」が、何重もの物理的・霊的な封印によって押し込められているのだ。


 それを、霊的な知識を一切持たない合理主義の人間が、物理的な手段だけでこじ開けようとしている。


「……竹内さん。今日の午後は、絶対に地下に近づかないでください。他の社員にも、理由をつけて上の階に留まらせるように」

「えっ? は、はい……わかりました」


 俺のただならぬ気配に、塔子は青ざめながら頷いた。

 だが、時すでに遅し、だったのかもしれない。


★★★★★★★★★★★


 午後2時15分。

 突如として、ビル全体を大きく揺るがすような、低い地鳴りが響き渡った。


 ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!


「きゃあっ!?」

「地震か!?」


 フロア中の社員たちが悲鳴を上げ、デスクの下に潜り込む。

 だが、揺れはすぐに収まった。代わりに、フロアの蛍光灯が一斉にジジジッと明滅を始め、空調の吹き出し口から、鼻をつくような酷い「カビと腐乱臭」が混じった冷気が噴き出してきた。


 俺は自席から立ち上がり、霊力を目に集中させた。


 ――最悪だ。


 床を突き抜け、足元のOAフロアの隙間から、ドス黒い瘴気が間欠泉のように噴き出している。

 これまでの低級霊の比ではない。空間の物理法則そのものを歪めるほどの、圧倒的な質量の「呪い」だ。


 ジリリリリリリッ!

 俺のデスクの内線電話が鳴った。受話器を取る。


「はい、中川です」

『中川さんっ! 今すぐ降りてきなさい!』


 電話の主は、産業医の中山杏子だった。彼女の声には、普段の冷静さが微塵もなかった。


『地下で作業していた解体業者の男たちが、パニック状態で保健室に逃げ込んできたわ! 幻覚を見て暴れ回ってるの! それに……ここの空気清浄機が、さっきから異常な数値を叩き出して狂ったように鳴ってるわ! ただ事じゃない瘴気よ!』


「先生、そのまま保健室の鍵を閉めて、結界を保ってください! 絶対に外に出ないでくださいよ!」


 俺が電話を切った直後、今度はスマートフォンにチャットの着信が入った。

 地下のサーバー室に引きこもっている社内SE、石田繭子からだ。


『……中川さん。異常事態。……外部ネットワークへの接続が、完全に遮断された。物理的な切断じゃない。……空間ごと切り取られてる』

『石田、お前は無事か?』

『……私は「繭」の中にいるから大丈夫。でも、監視カメラの映像がおかしいの。……サーバー室の扉の外が、見たこともない石積みの通路になってる』


 俺は息を呑んだ。

 地下の封印が解かれたことで、丸の内商事のビル全体が、現世の物理空間から切り離されてしまったのだ。


「な、中川さんっ! 外が! 外が……!」


 窓際で外を見ていた若手社員が、腰を抜かして尻餅をついた。

 俺と塔子が窓に駆け寄る。


 本来なら、窓の外には東京駅や丸の内の近代的な高層ビル群が見えるはずだ。

 しかし、ガラスの向こう側に広がっていたのは、太陽の光すら届かない「真っ黒な霧」の壁だった。

 上も、下も、隣のビルも、道路も見えない。

 分厚い闇の帳が、この本社ビルをすっぽりと覆い尽くし、外界から完全に隔離してしまっている。


「……空間異界化。……社長の合理化は、開けてはならないパンドラの箱を開けてしまったようですね」


 俺は窓ガラスに手を当てながら、低く唸った。


「え……? 異界化って、どういう……?」


 塔子が震える声で尋ねる。


「文字通りです。このビルは今、東京の丸の内ではなく、地下から溢れ出した何十年分もの『怨念と呪い』が支配する、独立した霊的空間に飲み込まれました。……入り口も出口も、もう存在しません」


 俺の言葉を裏付けるように、総務部の入り口のドアが、バァンッ! と勢いよく開いた。


「た、大変です! エレベーターが動きません! それに、非常階段の扉を開けたら……下の階がなくて、底なしの暗闇が広がってたんです!」


 様子を見に行っていた社員が、泣き叫びながら報告してきた。


 フロアは完全なパニックに陥った。

 スマホの電波は圏外。ネットも繋がらない。外に出る手段はすべて絶たれた。


「中川さぁぁん!」


 今度は、フロアの入り口から郵便室の松田透子が台車を放り出して駆け寄ってきた。

 彼女はたまたま、総務部へ社内便を届けに来ていたところだった。


「私、廊下に出ようとしたら、急に『真っ赤な鳥居が続くトンネル』みたいになっちゃってて……! 怖くて走って戻ってきたんです!」


 強力な霊媒体質である透子にとって、この異界化した空間は、文字通り化け物だらけのテーマパークに放り込まれたようなものだ。


「……竹内さん、松田。俺のそばから離れないでください」


 俺は決意を固め、首元のネクタイをゆっくりと引き抜いた。

 そして、そのネクタイを右手に固く巻き付け、『封魔の鞭』の形に整える。


「中川さん……どうするんですか?」


 塔子が俺の腕にすがりつくようにして尋ねた。


「この異常事態を解決するには、元凶である地下の『大穴』を塞ぐしかありません。……つまり、この異界と化したビルのダンジョンを、最下層まで攻略するということです」


 俺はポケットから、束になった「付箋」を取り出し、霊力を流し込んだ。

 赤、青、黄、白の付箋が、俺の手の中で淡い光を放ち始める。

 俺の全身から立ち昇る青白い「清浄な気」が、周囲に漂う黒い瘴気をジリジリと弾き返していく。


「……定時退社を至上命題とする俺にとって、これは到底受け入れがたい状況です。ですが……」


 俺は、恐怖に震えながらも俺を信じて見つめてくる塔子と透子、そして地下や別のフロアで孤立しているであろう仲間たちの顔を思い浮かべた。


「……この魔窟に俺の同僚たちを取り残して帰るわけにはいきません。ここから先は、時給の計算ができない残業です」


 俺は右手のネクタイを強く握り締め、フロアの出口――禍々しい瘴気が渦巻く、未知の迷宮へと変化した廊下に向かって鋭い視線を向けた。


 丸の内商事・本社ビル防衛戦。

 いや、異界ダンジョン攻略戦が、今まさに幕を開けたのだ。


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