第30話 大晦日の除夜の鐘
十二月三十一日。大晦日。
一年というサイクルの中で、社会全体が最も静まり返り、あるいは最も慌ただしく立ち働く、特別な節目の一日だ。
朝。俺は、暖房の効いたアパートのリビングで、マグカップのコーヒーをすすりながら窓の外を眺めていた。
足元では、黒猫のクロが香箱座りをして、俺の足首にぴたりと身を寄せている。艶やかな黒曜石のような毛並みは、窓から差し込む冬の朝日に照らされて美しく輝いている。
「今年も今日で終わりだな、クロ。……お前がうちに来てから、色々と騒がしい一年だった」
俺がクロの喉元を優しく撫でてやると、クロは目を細め、『ゴロゴロ……』と深いモーター音を鳴らして答えた。すっかりこの部屋の主としての落ち着きと風格を備えている。
今日は会社も年末年始の休業に入っている。時給1200円の派遣社員である俺にとって、カレンダー通りの休日は絶対的な権利だ。
「さて、年越しの準備といくか。今日はお前のために、奮発して極上の真鯛の切り身を買ってきてやるからな」
俺はコートを羽織り、マフラーを巻きつけて、底冷えのする冬の街へと足を踏み出した。
★★★★★★★★★★★
午前11時。上野・アメ横。
年末の買い出し客でごった返す商店街は、すれ違うのも困難なほどの狂乱状態にあった。
カニ、数の子、蒲鉾、そして威勢の良い店員たちの怒号にも似た客引きの声。
俺は分厚い人混みをかき分けながら、目当ての食材を探して歩いていた。
「あーっ! 中川さーん! こっちです、こっち!」
人混みの向こうから、ポンポン付きのニット帽を被った少女が、大きく両手を振ってアピールしていた。
丸の内商事の郵便室のアルバイト、松田透子だ。
彼女は冬休みを利用して、今日は俺の「買い出しの荷物持ち」として同行を志願してきたのだ。もっとも、その真の目的は俺への奉仕などではなく、アメ横の食べ歩きグルメを奢ってもらうことにあるのは明白だった。
「遅いぞ、松田。それに、お前はすでに右手に巨大なケバブを握っているじゃないか」
「へへっ、待ちきれなくて自腹で買っちゃいました! でも、これから食べる小籠包とタピオカドリンクと、あと海鮮焼きの串は中川さんのおごりですからね! クリスマスのチキン、すごく美味しかったから、今日はいっぱい手伝いますよ!」
透子はケバブを大口で頬張りながら、悪びれる様子もなく宣言した。
そのあふれんばかりの食欲と生命力は、この年末の殺伐とした人混みの中でも全く色褪せない。
俺は呆れながらも、彼女を先導して商店街の奥へと進んだ。
俺の目的は、今夜の「年越し蕎麦」に乗せるための、最高級の合鴨肉と、太くて立派な下仁田ネギを手に入れることだ。
透子にいくつか荷物を持たせ、無事にすべての食材とクロのための真鯛の切り身を確保することができた。
「あー、食べた食べた! さすがにお腹いっぱいです。中川さん、ごちそうさまでした!」
午後4時。買い出しを終え、上野駅に向かう道すがら、透子が満足げに腹をさすった。
「お前の胃袋はブラックホールか。……まあいい、荷物持ちの時給代わりだ」
俺が重いエコバッグを持ち直した、その時だった。
「……ん?」
透子が突然足を止め、丸の内の方角をじっと見つめた。
彼女の表情から、先ほどまでの能天気な笑顔が消え去っている。
「どうした、松田」
「なんか……あっちの方から、すっごい嫌な感じがするんですよね。空気が重たいっていうか、ドロドロしたものが吹き溜まってるような……」
透子の言葉に、俺は眉をひそめた。
彼女は霊感こそゼロだが、強力な『霊寄せビーコン』としての直感は、時に俺の霊視よりも早く異常を察知する。
俺は目を細め、霊力を網膜に集中させた。
遠く離れた、丸の内商事の本社ビルの上空。
そこから、まるで黒い竜巻のような凄まじい瘴気が、空に向かって渦を巻きながら立ち昇っているのが見えた。
「……なるほど。そういう時期か」
俺は舌打ちをした。
年末。会社が休業に入り、人間たちが完全にいなくなった無人のオフィスビル。
そこには、今年一年間の業務で蓄積された「負の念」だけが取り残される。
顧客からの理不尽なクレーム、電話口での罵声、謝罪を強要された社員たちの屈屈した感情。それらの『煩悩』が、人がいなくなったことで抑えを失い、一気に実体化して暴走を始めようとしているのだ。
このまま放置すれば、年明けの始業日に大惨事が起きる。
「松田。特別ボーナスを出す。少しだけ、会社の『大掃除』に付き合え」
「ええっ!? せっかくの冬休みの大晦日なのに、会社に行くんですか!? 絶対嫌ですよ!」
「お前のその強烈な生命力が囮として必要なんだ。文句を言うなら、さっき食ったケバブと小籠包の代金を耳を揃えて返せ」
「うぅ……悪魔……時給泥棒……」
俺は半泣きの透子を引き連れて、タクシーで丸の内へと急行した。
★★★★★★★★★★★
午後5時30分。
静まり返った丸の内商事のビルは、非常用照明だけが薄暗く点灯する、巨大な墓標のようだった。
俺と透子は、カスタマーサポート部門と総務部が同居する8階フロアへと足を踏み入れた。
「ひぃっ……! な、なんですかこれ、すっごい寒いです……!」
透子が俺のコートの裾をぎゅっと掴み、ガタガタと震えている。
無理もない。
フロア全体に、コールセンターの保留音のような不気味な電子音が、幾重にも重なって鳴り響いている。
そして空中のあちこちに、受話器の形をしたドス黒いモヤが、無数に渦巻いていた。
『……誠意を見せろ!』
『……上の者を出せ! 謝れ!』
『……訴えてやるぞ!』
――『108のクレーム怨霊』だ。
今年一年、このフロアで処理され、溜め込まれ続けた顧客の怒りと、社員のストレスが具現化したもの。その数は優に100を超えている。
「松田。お前はフロアの中央に立っていろ。何が来ても絶対に動くな」
「えええっ!? む、無理ですよ、食べられちゃいますよ!」
「大丈夫だ。お前の強烈な『陽の気』に引き寄せられて、奴らは一直線にお前に向かってくる。そこを俺が処理する」
俺は透子をフロアの中央に押し出し、自分は近くのデスクから『ある備品』を二つ取り出した。
一つは、受付カウンターに置いてある、上から叩いて「チーン」と鳴らす銀色の『卓上ベル』。
もう一つは、日付の入った『処理済』の赤い事務用スタンプだ。
『……オマエカ……ワシヲ、クレーマーアツカイシタノハ……!』
『……アヤマレェェェ!!』
透子の放つ生命力の匂いに釣られ、無数のクレーム怨霊たちが一斉に彼女に向かって襲いかかってきた。
黒い濁流のような怨念が、透子を飲み込もうと迫る。
「ひぃぃぃぃっ!!」
透子が目を固く閉じ、しゃがみ込んだ。
その直前。
俺は透子の前に立ち塞がり、左手に持った卓上ベルに清浄な霊力を流し込んで、強く叩いた。
チィィィィィンッ……!!
澄み切ったベルの音が、霊的な波動となってフロアに響き渡る。
それは、陰陽道における「神楽鈴」の代用だ。
清らかな高音が、襲い来る怨霊たちの動きを強制的に、一瞬だけピタリと停止させた。
「結界展開。――除夜の鐘」
俺は右手に握った『処理済』の赤スタンプに、ありったけの浄化の火行の気を込めた。
スタンプの印面が、溶岩のような熱を帯びて真っ赤に発光する。
そして、動きの止まったクレーム怨霊の「額」に相当する部分めがけて、流れるような連撃でスタンプを叩き込んでいった。
ダンッ! ダンッ! ダンッ!!
「ご意見、承りました!」
「貴重なフィードバック、感謝いたします!」
「担当部署に申し伝えておきます!」
スタンプが押されるたび、怨霊たちは『ギャアアアッ!?』という悲鳴と共に、浄化の赤い炎に包まれて瞬時に昇華していく。
チーン! というベルの音で動きを止め、ダンッ! とスタンプで処理する。
そのリズミカルな反復作業は、まさに108の煩悩を一つ一つ祓っていく「大晦日の除夜の鐘」そのものだった。
10体、30体、50体。
俺の腕は機械のように正確に、怨霊たちを処理していく。
そして、ついに最後の一体。
フロア中の瘴気を集め、最も巨大に膨れ上がった『最悪のクレーマー怨霊』が、天井まで届くほどの巨体を揺らして俺を見下ろした。
『……土下座シロォォォォ!! 俺ハ神様ダゾォォォォ!!』
鼓膜が破れそうなほどの怒号と共に、黒いヘドロの塊が俺と透子を押し潰そうと落下してくる。
「神様でも、営業時間外の対応はいたしかねます」
俺は108回目のベルを、限界まで霊力を込めて力強く鳴らした。
キィィィィィィィィィィンッ!!!
空間が割れるような清浄な音が、巨大なクレーマー怨霊の輪郭を大きくブレさせた。
俺は床を蹴って跳躍し、空中で怨霊の眉間めがけて、最大の呪力を込めたスタンプを全力で叩き込む。
「悪霊退散。――本年の営業は、終了いたしました!」
ドォォォォンッ!!!
スタンプから放たれた爆発的な浄化の炎が、巨大な怨霊を内側から焼き尽くした。
断末魔の叫びを上げる隙すら与えず、怨念の塊は真っ白な灰となって空中に四散し、完全に消え去った。
フロアに、完全な静寂が戻った。
息苦しかった空気は嘘のように澄み渡り、チリ一つない清浄な空間へと戻っている。
「……終わったぞ、松田」
俺がスタンプを机に置き、息を吐き出すと、透子が恐る恐る目を開けた。
「あ、あれ……? 黒いモヤモヤ、全部消えた……?」
「ああ。今年一年分の厄落としは完了だ。これで、年明けからまた平和に業務が再開できる」
「……中川さん、もしかして、わざわざ会社の大掃除をするために来たんですか?」
透子が少しだけ感心したような目で俺を見る。
「勘違いするな。年明け早々、怨霊のせいで残業させられるのを未然に防いだだけだ。すべては俺の定時退社のためだ」
俺がいつものようにドライに答えると、透子は「ふふっ」と笑った。
――ゴォォォ……ン。
その時。
オフィスの窓の外から、遠くの寺が撞く大晦日の『夕暮れの鐘』の音が微かに響いてきたのが聞こえた。
本物の除夜の鐘にはまだ随分と早いが、俺たちにとっては、先ほど鳴らした108回の卓上ベルこそが、今年一年の厄を落とす『除夜の鐘』だった。
俺と透子は、オフィスの窓辺に歩み寄り、冷たいガラス越しに東京の夜景を見下ろした。
イルミネーションの光が、冬の澄んだ空気の中でチカチカと瞬いている。
「……中川さん。今年は、色々とありがとうございました。美味しいご飯も、たくさん奢ってもらったし」
透子が、珍しく真面目な、少しだけ大人びた横顔で俺を見た。
「来年も、お前のその『霊寄せ体質』のせいで俺の残業が増えないことだけを祈るよ」
「ひどい! 最後の最後にそれですか! ……でも」
透子はニシシと笑い、俺に向かって深々とお辞儀をした。
「来年も、よろしくお願いしますね。中川さん!」
その屈託のない笑顔に、俺は思わず小さく息を吐いてから、「……ああ、よろしく頼む」と短く答えた。
★★★★★★★★★★★
午後9時。
透子を駅まで送り届け、俺はアパートへと帰還した。
玄関を開けると、クロが『ミャン!』と駆け寄り、俺の足にすりすりと頭をこすりつけてくる。
「ただいま、クロ。待たせたな。……今年最後の、特上の晩餐にしよう」
俺はコートを脱ぎ、キッチンに立った。
クロには、アメ横で買ってきた新鮮な真鯛の切り身をサッと茹で、ほぐして皿に盛ってやった。クロは歓喜の声を上げてガツガツと食べ始める。
そして俺の夕食は、大晦日を締めくくる極上の『鴨南蛮蕎麦』だ。
最高級の合鴨肉の皮目に細かく格子状の切れ目を入れ、フライパンに油を引かずに皮目からじっくりと焼き上げる。香ばしい鴨の脂がジュワッと引き出されたところで、太めにぶつ切りにした下仁田ネギを投入し、鴨の脂をたっぷりと吸わせながら、表面にこんがりと焦げ目がつくまで焼き付ける。
別の鍋で、鰹と昆布から引いた濃厚な出汁に、濃口醤油、みりん、そして少しの砂糖を加えてツユを作る。そこに焼いた鴨肉とネギを加え、サッと煮立てて旨味をツユに完全に移すのだ。
別茹でした蕎麦を一度氷水でキュッと締め、丼に盛り付けてから、熱々の鴨汁をなみなみと注ぎ込む。
さらに、この鴨南蛮に合わせる最強のペアリングを用意する。
冷蔵庫から取り出したのは、キリッとした辛口の『純米吟醸酒』。
これを徳利に入れ、湯煎でじんわりと温め、米のふくよかな香りが最も引き立つ『人肌燗』に仕上げた。
「……いただきます」
ダイニングテーブルに座り、まずは熱々の蕎麦をすする。
「……美味い」
鰹出汁の香りに、鴨から溶け出した強烈な野性味のある脂のコクが合わさり、とてつもない旨味の波が押し寄せてくる。
分厚い鴨肉を噛み締めると、肉汁がジュワッと溢れ出し、焦げ目のついた下仁田ネギのトロトロの甘みがそれを優しく包み込んだ。
口の中が鴨の濃厚な脂で満たされた瞬間、お猪口に注いだ純米吟醸の熱燗をクイッと呷る。
温かいアルコールが、喉から胃へと染み渡っていく。
熱燗のふくよかな米の旨味が、鴨の脂の重さをスッキリと洗い流しつつ、口の中に信じられないほど深いコクの余韻を残していった。
温かい蕎麦と、温かい酒のマリアージュ。
冷え切った冬の夜に、これ以上の贅沢はない。
『ミャオォ……』
真鯛を平らげたクロが、満足げに口の周りをペロペロと舐めながら、俺の膝の上に飛び乗ってきた。
そして、いつものように俺の太ももに顔を埋め、ゴロゴロと喉を鳴らし始める。
俺はクロの温かい背中を撫でながら、熱燗のお猪口を傾けた。
今年も色々なことがあった。
だが、時給1200円の派遣社員の日常は、この小さな家族と、自分で作る美味い飯があれば、十分に豊かで満たされている。
遠くから、また一つ、鐘の音が聞こえた気がした。
俺は静かに目を閉じ、新しい年が、平和で、そして定時退社できる一年であることを祈りながら、熱燗の温もりに深く身を委ねた。




