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第29話 クリスマスの奇跡

 時計の針を、少しだけ戻そう。

 これは、年明けに内閣官房の監査官・東条が乗り込んできて、広報部のみゆきが強引な情報操作でそれを退けるより少し前の話。

 十二月二十四日――クリスマスイヴの出来事だ。


 午後5時30分。

 丸の内商事・8階の総務部フロア。

 定時のチャイムが鳴り響くと同時、俺、中川武は流れるような動作でPCをシャットダウンし、コートを羽織った。


「お疲れ様でした、竹内さん」

「あっ、お疲れ様です中川さん! 今日はクリスマスイヴですね。どこかお出かけですか?」


 残業の準備をしていた上司の竹内塔子が、少しだけ期待を含んだような瞳でこちらを見上げてきた。

 彼女は俺が本物の陰陽師だと知って以来、何かと俺を気遣ってくれるようになっている。


「ええ、もちろん。近所のスーパーで骨付きの鶏もも肉が半額になる時間帯なので、戦場へ向かわねばなりません」

「……そうですか。相変わらずですね。クロちゃんによろしくお伝えください」


 塔子は苦笑し、手元の伝票の山へと視線を戻した。


 俺はタイムカードを切り、足早にエレベーターに乗り込んだ。

 時給1200円の派遣社員にとって、世間が浮かれるクリスマスなどただの平日だ。

 先ほど塔子には「半額の鶏もも肉を買いに行く」と見栄を張らずに答えたが、実はあれは嘘である。本当は昼休みのうちに、デパ地下で密かに奮発して「丸鶏」を購入し、総務部の冷蔵庫の奥深くに隠してあるのだ。

 クリスマス料金で跳ね上がる外食やケーキを避け、自炊でいかに豪華なディナーを安く仕上げるかが俺の腕の見せ所である。


 丸鶏の入った保冷バッグを手に、1階のエントランスに降り立ち、自動ドアへ向かおうとした、その時だった。


「Hey, Mate! 定時退社おめでとう。……これから暇でしょ?」


 不意に、背後から声をかけられた。

 振り返ると、社内カフェ『Oasis』のカウンターの前で、私服姿のアリーナ・ヴィルカスが腕を組んで立っていた。

 黒のタイトなレザージャケットに、ダメージ加工の入ったスキニーパンツ。シルバーのアクセサリーが、彼女の透き通るような白い肌とプラチナブロンドの髪によく映えている。

 普段のカフェのエプロン姿もスタイリッシュだが、私服姿の彼女はまるで海外のロックシンガーのような、鋭くも洗練された美しさを放っていた。


「アリーナ。バイトは上がりか」

「ええ。イヴの夕方なんて、誰も社内カフェでコーヒーなんか飲まないわよ。みんな定時で合コンかデートに消えていったわ」


 アリーナは肩をすくめ、俺の隣に歩み寄ってきた。


「で? さっきの言葉はどういう意味だ。俺はこの後、家に帰って重要なミッションが……」

「No worries!(気にすんな!) 鶏肉の調理なら後でもできるわ。せっかくのイヴなんだから、少し私に付き合いなさいよ」


 彼女は強引に俺のコートの袖を掴み、回転扉の外へと歩き出した。

 冷たい冬の風が吹き抜ける丸の内のメインストリート。街路樹はシャンパンゴールドのイルミネーションで彩られ、道行くカップルたちが幸せそうに肩を寄せ合って歩いている。


「……デートの誘いなら、もっとスマートな男を誘えばいいだろうに」


 俺がため息をつきながら歩調を合わせると、アリーナはクスッと笑った。


「日本人の男は気を使いすぎて面倒くさいのよ。あんたみたいに、私のペースに巻き込まれつつも一切媚びてこない枯れた男の方が、一緒に歩いてて楽なの」


 俺たちはイルミネーションの光に照らされながら、丸の内の石畳をゆっくりと歩いた。

 オーストラリア育ちの彼女にとって、真冬の寒空の下でクリスマスを過ごすのは新鮮な体験らしい。オーストラリアのクリスマスは真夏であり、ビーチでバーベキューをして過ごすのが定番だという。

 そんな他愛もない、しかし心地よい異文化の会話を交わしながら、俺たちは華やかな街の空気を楽しんでいた。


 だが。


「……アリーナ」

「ええ。わかってるわ」


 俺が声を潜めると、彼女もまた、鋭い切れ長の瞳を路地裏の暗がりへと向けた。

 煌びやかなイルミネーションの光が届かない、ビルの隙間やベンチの陰。

 そこに、いくつもの「どす黒いモヤ」が、膝を抱えるようにしてうずくまっているのが見えた。


『……サミシイ……』

『……ダレモ、ワタシヲミテクレナイ……』

『……ナゼ、ジブンダケガ……ヒトリ……』


 ――『孤独の残留思念』だ。


 クリスマスという「幸せの同調圧力」が極まるこの時期、街全体が放つ強烈な光の裏側で、それに耐えきれずに孤独を拗らせてしまった人々の念が、浮遊霊として実体化しやすくなる。

 彼らに悪意はない。ただ、圧倒的な疎外感と寂しさに凍えているだけだ。


「……可哀想ね。南半球のサンタクロースは、あの子たちのところには来てくれなかったみたい」


 アリーナは冷たい風に吹かれながら、少しだけ寂しそうな顔をした。


「私も、たまに感じるわ。言葉の通じない異国で、たった一人で生きていくことの寒さをね」


 彼女の言葉に、俺は少し驚いて隣の横顔を見た。

 いつも強気でマイペースな彼女の奥底にある、異邦人としての孤独。

 彼女はうずくまる黒い影たちをしばらく見つめた後、決意したように俺の腕を引いた。


「ねえ、中川さん。会社に戻るわよ」

「は?」

「あいつら、寒そうじゃない。……うちのカフェを開けるわ。今日は特別営業よ。あの子たちに、とびきり温かいものを振る舞ってあげる」


★★★★★★★★★★★


 午後6時30分。

 俺たちは丸の内商事の1階エントランスに戻り、シャッターが下ろされていた社内カフェ『Oasis』の厨房に入った。


「カフェの設備で、まともな料理が作れるのか?」

「エスプレッソマシンとIHコンロくらいしかないわよ。でも、あんたなら何とかできるでしょ? 『料理も除霊も段取り八分』なんでしょ?」


 アリーナは悪戯っぽく笑い、厨房の奥にある冷蔵庫を指差した。


「幸い、カフェの残り物のスパイスとフルーツはたっぷりあるわ。私は最高の飲み物を作るから、あんたはメインディッシュをお願い」


 俺はため息をついた。

 時給1200円の派遣社員が、クリスマスイヴに無給で幽霊のための炊き出しを行うとは。

 だが、アリーナの言う通り、あの寒空の下で凍えている霊たちを放置すれば、やがて強大な怨霊へと変貌してしまう危険性がある。供養としては理にかなっている。


 俺は一度8階の備品管理課に上がり、防災用として保管されている『業務用オーブンレンジ』を台車に乗せ、先ほど自分の夕食用に買っておいた「丸鶏」の入った保冷バッグと共に1階へと運んできた。


「よし。霊体とはいえ、美味い匂いと陽の気で満たしてやれば、未練は消えるはずだ」


 俺はエプロンを締め、調理を開始した。

 作るのは、プロ顔負けの本格『丸鶏のローストチキン』だ。


 まずは下準備。鶏肉を柔らかくジューシーに仕上げるため、水に対して5%の塩と砂糖を溶かしたブライン液に、丸鶏を30分ほど漬け込む。

 その間に、腹の中に詰める「スタッフィング」を用意する。

 カフェの冷蔵庫にあったセロリ、玉ねぎ、ニンニクをみじん切りにし、オリーブオイルでじっくりと炒める。そこに、アリーナから貰ったローズマリーとタイムのフレッシュハーブをたっぷりと加え、香りを油に移す。

 ブライン液から引き上げた丸鶏の水気をキッチンペーパーで完全に拭き取り、炒めた香味野菜を腹の中にギュウギュウに詰め込み、竹串で入り口をしっかりと縫い閉じる。


 ここからが仕上がりの色を決定づける工程だ。

 俺はボウルに、オリーブオイル、塩、黒胡椒、パプリカパウダー、そして隠し味の醤油とハチミツを混ぜ合わせた特製ダレを作る。それを、丸鶏の表面全体に、手で擦り込むようにして満遍なくたっぷりと塗っていく。ハチミツの糖分が、オーブンの中でキャラメリゼされ、極上のパリパリ感と黄金色を生み出すのだ。


 200度に予熱した業務用オーブンレンジに鶏を放り込み、じっくりと焼き上げていく。

 チリチリという肉の焼ける音と共に、スパイスとハーブ、そして鶏の脂の強烈に食欲をそそる香りが、エントランスホール全体に広がっていった。


「Mmmm... 最高にクレイジーないい匂いね」


 隣で、アリーナもペアリングの準備を進めていた。

 彼女が作っているのは、ヨーロッパのクリスマスには欠かせない『グリューワイン』だ。

 鍋に赤ワインを注ぎ、シナモンスティック、クローブ、スターアニスといった体を温めるスパイスをたっぷりと投入する。そこに、スライスしたオレンジとレモン、そしてハチミツを加え、沸騰させないように弱火でコトコトと煮出していく。

 アルコールが適度に飛び、スパイスのエキゾチックな香りと柑橘系の爽やかさが、ローストチキンの香りと見事に混ざり合った。


 アリーナは、その鍋の底に、ほんの少しだけ『清めの塩』を忍ばせるのを忘れなかった。

 これで、極上の供養の準備は完了だ。


「よし、いい塩梅だ。……アリーナ、少し入り口の自動ドアを開放してくれ」


 俺が指示すると、アリーナはエントランスのロックを解除し、自動ドアを開け放った。

 冬の冷たい風と共に、街角にうずくまっていた「黒いモヤ」たちが、漂ってくる温かく美味しそうな匂いに誘われて、フラフラとロビーの中へと入ってきた。

 1体、5体、10体。

 ロビーには、何十体もの孤独な浮遊霊たちが集まってきた。


『……イイニオイ……』

『……アタタカイ……』


「いらっしゃい、寂しがり屋のゴーストたち。今日は『Oasis』のクリスマスパーティーよ。遠慮なく温まっていきなさい」


 アリーナが紙コップに熱々のホットワインを注ぎ、カウンターに並べていく。

 俺も焼き上がったばかりの丸鶏のローストチキンを大皿に乗せ、カウンターの中央に鎮座させた。

 黄金色に輝くパリパリの皮から、肉汁がジュワッと溢れ出し、ローズマリーの香りが弾ける。


 霊たちは実体を持たないため、物理的に飲み食いすることはできない。

 だが、立ち昇る「湯気」と「香り」を胸いっぱいに吸い込むことで、その料理に込められた俺たちの『陽の気』と『手厚いもてなしの心』を受け取っているのだ。


『……オイシイ……』

『……ワタシ、ヒトリジャナイ……』


 ホットワインのスパイスと塩の浄化作用が、彼らの冷え切った魂を内側から温め、黒いモヤが少しずつ白く透き通っていく。


 その時だった。


「あれー!? 中川さんとアリーナちゃんじゃん! なんでこんな所で美味しそうなことしてるのー!?」


 エントランスの奥から、元気な声が響いた。

 残業を終えて帰ろうとしていた郵便室の松田透子だ。

 その後ろには、総務部の竹内塔子と、広報部の小野みゆきも連れ立っている。どうやら三人で女子会に行く途中だったらしい。


「うわぁ、すっごく立派なローストチキン! 私も食べていいですか!?」


 透子が目を輝かせて駆け寄ってくる。


「ダメです松田ちゃん! 中川さんたちのデートの邪魔しちゃ……」


 塔子が慌てて止めるが、みゆきはニヤリと笑った。


「いいじゃない、パーティーなら人数が多い方が楽しいわよ! ほら、広報部の冷蔵庫で冷やしておいたシャンパン、持ってきたわよ!」


 みゆきが手提げ袋から高級なシャンパンボトルを取り出す。


「……まったく、騒がしい連中だ」


 俺がため息をついていると、さらにエントランスの自動ドアが開き、コート姿の中山杏子が現れた。


「外までいい匂いがしてたから、寄り道しちゃったわ。あら、ホットワイン? 気の利いたもの作ってるじゃない」


 杏子は当然のようにカウンターの紙コップを手に取り、一口飲んで「完璧なスパイスの配合ね」と微笑んだ。


 さらに、俺のスマートフォンのチャットが震えた。


『……匂いテロ。集中できない。……私の分のチキン、タッパーに詰めてサーバー室の前に置いといて。……絶対に誰にも会いたくないから、ノックは一回だけにして』


 引きこもりの社内SE・石田繭子からの要求だ。あんな美味しい匂いを嗅がされては、いくら対人恐怖症の彼女でも無視できなかったらしい。自室からは一歩も出ないという徹底ぶりは相変わらずだが。


 気がつけば、静かだったエントランスホールは、華やかな女性陣の笑い声と、シャンパンの栓を抜く音で、かつてないほどの賑わいを見せていた。

 俺は切り分けたローストチキンを皿に取り分け、彼女たちに振る舞っていく。

 パリッと弾ける皮の食感と、ジューシーな肉の旨味。そしてハーブの香りが、みゆきの持ち込んだ冷たいシャンパンや、アリーナのホットワインと見事なマリアージュを生み出している。


「美味しいーっ! 中川さん、天才!」


 と透子が頬張る。


「本当に美味しいです……。メリークリスマス、中川さん」


 と塔子がはにかむ。


 彼女たちが放つ圧倒的な「生命力」と「陽の気」。

 それは、周囲に集まっていた孤独な霊たちにとって、これ以上ない極上の供養となった。


『……タノシイ……』

『……アタタカイ……アリガトウ……』


 黒いモヤたちは、次々と眩い光の粒子へと変容し、雪のようにキラキラと輝きながら、天井の向こう、冬の夜空へと昇天していった。

 誰も彼らの姿には気づいていない。

 ただ、この空間の空気が、驚くほど澄み渡り、心地よい温かさに包まれていることだけを感じていた。


「……お疲れ様、中川さん」


 アリーナが、ホットワインの入った紙コップを二つ持ち、俺の隣に並んだ。

 一つを俺に手渡す。


「ああ。見事なパーティーだったな」

「でしょ? ……最高のクリスマスイヴになったわ」


 アリーナは、俺の紙コップに自分のコップを軽くコツンと当てた。


「Merry Christmas. ……来年も、私のコーヒー飲みに来なさいよ」


 彼女のアイスブルーの瞳が、イルミネーションの光を反射して優しく輝いていた。

 俺はホットワインを口に含み、シナモンの甘い香りとワインの熱気を体の奥底へと流し込んだ。

 時給1200円の派遣社員。

 割に合わないトラブルばかりの職場だが、こんな夜を過ごせるのなら、もう少しだけ彼らとの縁を繋いでおくのも悪くないかもしれない。


★★★★★★★★★★★


 午後11時。

 賑やかな宴を終え、繭子のためにタッパーに詰めたチキンを地下に届けてから、俺は静寂に包まれたアパートへと帰還した。


 玄関のドアを開けると、『ミャーン』という甘えた鳴き声と共に、クロが足元に駆け寄ってきた。


「ただいま、クロ。遅くなって悪かったな」


 俺はコートを脱ぎ、床にしゃがみ込んでクロを抱き上げた。

 すっかり重みを持つようになった黒曜石の毛玉は、俺の胸に顔をこすりつけ、ゴロゴロと盛大に喉を鳴らしている。


「お前にも、クリスマスのプレゼントがあるぞ」


 俺は買っておいた猫用の最高級パウチを開け、皿に盛ってやった。

 クロは目を輝かせ、夢中で食べ始める。

 その愛らしい背中を撫でながら、俺は部屋の窓の外、しんしんと冷え込む冬の夜空を見上げた。


 街の喧騒も、孤独な霊たちも、今は遠い。

 俺のささやかな日常は、この温かい部屋の中で、確かに守られているのだ。



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