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第28話 広報部の逆襲

 1月下旬。

 一年で最も冷え込みが厳しくなる「大寒」の時期。東京の空は重苦しい鉛色に沈み、高層ビルの間を吹き抜けるビル風は、まるで目に見えない刃物のように鋭く行き交う人々の頬を切り裂いていた。

 街路樹は完全に葉を落として寒々しく立ち尽くし、分厚いコートとマフラーで重武装したビジネスパーソンたちは、誰もが下を向いて足早に歩を急いでいる。


 午後2時。丸の内商事、8階の総務部フロア。

 暖房がしっかりと効いているはずの室内でも、窓際に近い俺の席には微かな冷気が忍び込んできていた。

 俺は、自席のパソコンモニターを無表情で見つめ、キーボードに乗せた指を完全に止めていた。

 画面の中央にポップアップ表示されているのは、社外の特殊なドメイン――厳重な暗号化通信を経て届いた一通のメールだ。


『内閣官房・産業保安監査室より通達。中川武、貴殿の派遣ライセンス一時停止、および本庁における再教育プログラムの開始日程について――』


 それは、この間抜き打ち監査でこの丸の内商事にやってきた元同僚、東条圭一からの正式な通達だった。

 あの時、東条が不用意に放った規律の霊圧が原因で、正月ボケの社員たちのストレスが暴走し『規律反発の縛霊』が発生した。俺はそれを、備品の大型ホッチキスと裏紙の束を使った独自の術『封綴』で瞬時に鎮めた。

 東条はその場では俺の手際を認め、「異常なし」と報告書に記載して引き下がったように見えた。

 しかし、やはり彼は「本庁のやり方に従わない異端児」を野放しにしておくつもりはなかったらしい。東条の背後にいる上層部が、俺の危険性を重く見て、ついに実力行使に出たのだ。


 このメールの指示する日程通りに本庁へ出頭すれば、俺は間違いなくそのまま拘束される。

 外部の情報を遮断された閉鎖施設で、国の歯車として従順に働くための「再教育」という名の洗脳プログラムを受けさせられるだろう。

 そしてそれは同時に、この丸の内商事での「時給1200円の派遣社員」という立場が、強制的に終了することを意味していた。


(……やはり、面倒なことになったな。この通達を無視し続ければ、次は間違いなく強制執行の部隊が送り込まれてくる)


 俺はマウスから手を離し、深く、重いため息をついた。

 安倍晴明の末裔という血筋を持ち、A級レベルの霊力を有している以上、国の機関の監視の目から完全に逃れ切ることは極めて難しい。

 そろそろ、この平穏な日常も潮時かもしれない。竹内さんの「私が中川さんを守ります」という青臭い覚悟には少し心を動かされたが、一般人が国家権力に立ち向かえるわけがないのだ。


 俺がマウスを操作し、派遣元の担当営業に『次回の契約更新の辞退』を伝えるメールを打とうとした、その時だった。


「――ちょっと中川さん。なに辛気臭い顔して、派遣会社へのメールなんて打ってるのよ」


 背後から、華やかな香水の匂いと共に、凛とした声が降ってきた。

 振り返ると、広報部のエース・小野みゆきが、腕を組んで俺を見下ろしていた。

 体にフィットしたワインレッドのニットに、黒のタイトスカート。首元には大ぶりのゴールドのネックレスが輝いている。冬の寒さを微塵も感じさせない、圧倒的な自信が彼女の全身から発光するように放たれていた。


「小野さん……。いや、少し個人的な身の振り方を考えていまして」

「ふーん。例の『内閣官房の監査官』とかいうお堅いお役人が、貴方を不当に連れ出そうとしてる件でしょ?」


 みゆきの言葉に、俺は思わず目を見開いた。

 東条の素性や、彼が俺を連行しようとしている目的は、あの場にいた塔子と俺しか知らないはずだ。


「なぜ、それを?」

「甘いわね。この会社の情報ネットワーク、特に女子社員たちの井戸端会議や給湯室での極秘情報をすべて束ねている広報部を舐めないでちょうだい。それに……」


 みゆきは自分のスマートフォンを取り出し、画面を俺の目の前に突きつけた。

 表示されているのは、日本最大のSNSプラットフォームのリアルタイム・トレンド画面だ。


「これ、見てみなさい」


 俺は画面に並ぶハッシュタグを目で追った。

 『#丸の内商事への不当介入』

 『#お役所仕事のパワハラ音声』

 『#民間企業の優秀な人材を守れ』

 『#内閣官房の横暴』


 これらの言葉が、トレンドの上位1位から4位までを独占し、数万件というすさまじい勢いでリポストされ続けている。


「……これは、一体どういうことです?」

「私の『お仕事』よ」


 みゆきは艶やかに微笑み、俺の隣の空いているパイプ椅子に優雅に腰を下ろした。


「先日の臨時株主総会で、私、投資家界隈のインフルエンサーや、経済系のネットメディアの編集長たちと太いパイプを作ったのよ。彼らに少しだけ『魅力的なリーク』をしてあげたの。……国の天下り機関が、我が社の業績V字回復の立役者である優秀なスタッフを、理不尽な難癖をつけて引き抜こうとしているってね」

「引き抜こうって……俺はただの備品管理の派遣社員ですよ」

「世間の大衆は『事実』より『ストーリー』を好むのよ。巨大な権力が、民間企業で泥水すすって頑張る一市民を弾圧しようとしている。これほどネットの正義感とルサンチマンを刺激する構図はないわ。あっという間に火がついたわよ」


 みゆきはスマホの画面をスワイプし、一つの動画ファイルを再生した。

 それは、この間東条が監査に訪れた日の、1階エントランスの監視カメラの映像……に、絶妙な「音声」が合成されたものだった。


『……素人が口を出すな。これは我々が処理する問題だ』

『……退けと言っている』


 東条の冷酷で高圧的な声。

 そこに、あの時フロアで発生した「規律反発の縛霊」が上げていた悲鳴――『ギャアアアッ!』『クルシイィィ!』『ヤメテェェ!』という声が、まるで「東条のパワハラに怯えて泣き叫ぶ若手社員たちの声」のように巧妙に編集され、被せられていたのだ。

 映像自体はエントランスを歩く東条の姿だが、音声のせいで、彼が社員を恫喝しているようにしか見えない。


「……っ!? 小野さん、この音声は……!」

「サーバー室の石田さんにちょっとお願いして、ノイズを『最適化』してもらったの。どう? これを聞いたら、誰だって『国の役人が民間企業に乗り込んできて、とんでもないパワハラをしている』って思うでしょ?」


 俺は絶句した。

 確かに、霊的な背景を一切知らない一般人がこれを聞けば、完全に東条が悪質なパワハラ官僚に見える。

 これをSNSで拡散させ、インフルエンサーに火をつけさせたのか。


「国の機関――特に『裏』の特殊な仕事を請け負っている部署なんて、絶対に表沙汰にできない秘密の塊でしょ? そんな連中が一番恐れるのは、得体の知れない怪異なんかじゃないわ。世論の炎上と、マスコミや野党議員からの国会での追及よ」


 みゆきは長い脚を組み替え、勝利を確信した女王のように妖しく微笑んだ。


「今頃、あの東条とかいう男の上司の電話は、クレームとマスコミからの問い合わせで鳴りっぱなしよ。炎上が完全に収まるまで、いや、世間がこの件を忘れるまで、彼らは絶対に丸の内商事には手出しできないわ。自分たちの組織の存続に関わるもの」

「……」


 俺が彼女の恐るべき手腕に何も言えずにいると、再びPCのメールソフトが新着を知らせる通知音を鳴らした。

 差出人は、先ほどと同じ東条圭一だ。


『件名:通達の保留について

 先ほどの再教育プログラムの件だが、当室を取り巻く「外部環境の急激な悪化」により、一時的に計画を凍結する。貴殿への接触は当面見合わせる。……中川、お前、まさか一般人を巻き込んで何を――』


 メールはそこで途切れていた。

 事実上の、内閣官房・産業保安監査室からの白旗宣言だった。

 呪術も、付箋も、LANケーブルの結界も一切使わず、ただ「情報という名の波」をコントロールしただけで、国家権力の強引な圧力を完全に跳ね除けてしまったのだ。


「……恐ろしい女だ」


 俺は思わず、本音を口から漏らしていた。


「あら、広報としては最高の褒め言葉ね」


 みゆきは立ち上がり、俺の肩をポンと軽く叩いた。


「言ったでしょ? 『私の広報力があれば、貴方の秘密を守ってあげることもできる』って。……これで私に、一生頭が上がらないわね、中川さん?」

「……ええ。完全な敗北です。お見事でした、小野さん」

「ふふっ。じゃあ、次の社内報の巻頭インタビュー、必ず協力しなさいよ。逃がさないから」


 みゆきはカツカツとヒールを鳴らし、颯爽と総務部フロアを出ていった。

 俺は残されたPCの画面を見つめる。

 派遣会社へのメール作成画面を静かに閉じ、保存せずにゴミ箱に入れた。


 どうやら俺は、この会社にいる人間たちを少し侮っていたらしい。

 塔子も、繭子も、そしてこのみゆきも。彼らはただの「霊に怯える非力な一般人」ではない。それぞれが、それぞれの得意分野という強力な武器を持って、この理不尽な現代社会を泥臭く戦い抜いているのだ。

 そんな彼女たちが、総力を挙げて俺という一人の派遣社員の居場所を守ってくれた。


(……まあ、悪くないか。もう少しだけ、この会社にいてやるのも)


 強大な権力の脅威が去り、憑き物が落ちたように肩が軽くなるのを感じながら、俺は本来の「時給1200円の備品管理」の業務へと、穏やかな気持ちで戻ることができた。


★★★★★★★★★★★


 午後6時。

 無事に定時退社をキメてアパートに帰還すると、ドアを開けた瞬間に『ニャァ』という野太くも愛らしい声が響いた。

 我が家の同居人、黒猫のクロだ。

 厳しい寒さに備えてすっかり冬毛に生え変わり、一回りモフモフに丸みを帯びたクロが、のっそりとした足取りで玄関の三和土まで出迎えてくれた。


「ただいま、クロ。今日は一段と冷えるな」


 俺が革靴を脱いでリビングに入ると、クロは俺の足に一度だけスリスリと頭をこすりつけた後、真っ先に石油ストーブの真ん前――温風が一番よく当たる特等席に陣取り、ペターッと香箱座りをした。

 目を細め、ストーブの熱を全身で受け止めている。すっかりこの部屋の絶対的な主としての貫禄が板についている。


「さて。外は極寒で震えるような寒さだが、暖房がガンガンに効いた部屋で過ごすなら、あえて真逆のベクトルを攻めるのも一興だな」


 俺はスーツを脱いでエプロンを締め、キッチンに立った。

 今夜作るのは、タイの屋台料理の定番であり、強烈な酸味と辛味が特徴のサラダ――『ソムタム』だ。


 昨日の休日に、上野のアメ横にあるアジア食材専門店で、新鮮な青パパイヤと本場の調味料を仕入れておいたのだ。

 まずは主役の青パパイヤの皮を剥き、専用のギザギザがついたピーラーを使って、シャキシャキとした食感がしっかりと残るようにやや太めの千切りにしていく。白い果肉から、青々とした独特の香りが立ち上る。


 次に、タイ料理の要となる「クロック」と呼ばれる木製の深いすり鉢と、「サーク」と呼ばれる長いすりこぎ棒を用意する。これがなければ、食材の組織を叩き潰して味を馴染ませる本物のソムタムは作れない。


 鉢の中に、皮を剥いたニンニク二片と、強烈な辛味を持つタイの小さな生唐辛子を数本入れ、すりこぎでトントンと叩き潰す。

 ニンニクの刺激的な香りと、唐辛子の目に染みるようなカプサイシン成分が空気中に放たれる。

 そこに、香ばしく乾煎りした干しエビと、ローストピーナッツをひとつかみ加え、さらに叩いて粗めに砕いていく。

 旨味と香りのベースができたところで、インゲンマメを適当な長さに折って入れ、軽く叩いて繊維を潰し、味を染み込みやすくする。半分に切ったプチトマトも加え、果汁を押し出すように軽く叩く。


 そして、先ほど千切りにしたたっぷりの青パパイヤを鉢に投入する。

 ここからは「叩く」のではなく、すりこぎで軽く突きながら、大きなスプーンで全体を下から上へとひっくり返すように「和える」作業だ。


 味付けの決め手となるのは、上質なナンプラー、絞りたてのフレッシュなライム果汁、そしてコクのある深い甘みをもたらすパームシュガーだ。

 これらを鉢に加え、パパイヤの繊維一本一本にしっかりと味が染み込むまで、リズミカルに叩き和えていく。


「……よし。香りが完璧に一体化した」


 出来上がったソムタムを、白い平皿に高く山盛りに盛り付ける。

 青々としたパパイヤに、トマトの赤、インゲンの緑、ピーナッツの茶色が鮮やかなコントラストを描いている。


 だが、この強烈な辛味と酸味を迎え撃つには、強力な「癒やし」のペアリングが必要不可欠だ。

 俺はブレンダーを取り出した。

 合わせるのは、南国カクテルの王様――『ピニャ・コラーダ』だ。


 ブレンダーに、上質なホワイトラムをたっぷりと注ぎ、濃厚なココナッツクリーム、100%のパイナップルジュース、そしてたっぷりのクラッシュアイスを入れる。

 スイッチを入れ、ガリガリッ! と氷を粉砕しながら、全体が滑らかなフローズン状になるまで一気に撹拌する。

 大ぶりのグラスに注ぎ、パイナップルの葉とチェリーを飾れば、まるで雪のように真っ白で冷たい、トロピカルカクテルの完成だ。


「いただきます」


 ダイニングテーブルに座り、まずはフォークでソムタムをすくい、一口食べる。


「……辛っ! だが、美味い」


 口に入れた瞬間、青パパイヤのザクッとした心地よい歯ごたえと共に、生唐辛子の鋭い辛味が舌を容赦なく突き刺す。

 しかし直後に、干しエビの濃厚な海鮮の旨味、ピーナッツの香ばしさ、パームシュガーの丸い甘み、そしてライムの爽やかな酸味が複雑に絡み合い、後を引く奥深い味わいへと変化していく。

 暖房の効いた冬の部屋で食べるこの強烈な刺激は、体の内側から一気に熱を呼び起こし、額にうっすらと汗をにじませる。


 口の中が火事を起こしそうになった瞬間、ピニャ・コラーダのグラスを手に取り、冷たいフローズンをストローで吸い込む。


 ココナッツの濃厚でまろやかな甘みと、パイナップルのフルーティーな酸味が、ソムタムの暴力的な辛さを優しく、そして劇的に包み込んで中和していく。

 ラムのアルコール感が体を芯からリラックスさせ、まるで極寒の東京から常夏のビーチへと瞬間移動したかのような錯覚に陥った。

 辛酸っぱいサラダと、甘く冷たいカクテルの無限ループ。痛風とは別のベクトルで体を蝕みそうな、悪魔的なマリアージュだ。


『ミャッ!』


 不意に、隣の椅子に飛び乗ってきたクロが、テーブルの上の干しエビの匂いに反応して身を乗り出してきた。


「ダメだ。お前には唐辛子が入っているから毒だぞ」


 俺はクロの鼻先を指で軽く押し返し、代わりに猫用のおやつを小皿に出してやった。

 クロはすぐにそちらに夢中になり、ペロペロと一心不乱に舐め始めた。


 みゆきの暗躍によって、俺は陰陽庁からの追及を一時的に躱すことができた。

 彼女の手段は少し強引で恐ろしかったが、結果として、俺はこの部屋でクロと一緒に過ごすこの至福の時間を守り抜いたのだ。


 国の権力だろうが、強大な怨霊だろうが関係ない。

 時給1200円の派遣社員は、自分の定時と、このささやかで贅沢な日常を、使えるあらゆる手段を使って死守するだけだ。


 俺は冷たいピニャ・コラーダを喉に流し込みながら、暖房の熱気とスパイスの余韻に深く体を預けた。



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