第25話 竹内塔子の覚悟
十二月中旬。
街中がクリスマスソングとイルミネーションの光に浮かれる季節。だが、丸の内を吹き抜けるビル風は容赦なく冷たく、行き交うビジネスパーソンたちの肩をすくめさせている。
月曜日の朝。
俺は、アパートの玄関でマフラーを巻きながら、リビングに視線を向けた。
窓際に設置したキャットタワー。その中段にあるお椀型のハンモックの中で、愛猫のクロが丸くなって眠っている。
今やこのハンモックに収まりきらなくなったクロは、黒い毛玉の一部をはみ出させながら、スヤスヤと平和な寝息を立てていた。
「行ってくるぞ」
俺が小声で告げると、クロは目を閉じたまま、黒いしっぽの先だけをパタパタと振って返事をした。
その可愛らしい仕草に少しだけ口角を緩め、俺は凍てつく冬の街へと出勤した。
★★★★★★★★★★★
午前9時。
丸の内商事・8階の総務部フロア。
俺が自席に着き、いつものようにPCを立ち上げていると、隣のデスクから妙に重い空気が漂ってきた。
「……おはようございます、中川さん」
直属の上司である竹内塔子が、沈んだ声で挨拶をしてきた。
いつもなら「おはようございます! 今日も寒いですね!」と、総務の白百合らしい明るい笑顔を向けてくるはずだが、今日の彼女は違う。
顔色が悪く、俺の目を真っ直ぐに見ようとしない。手元のキーボードを見つめたまま、何かを深く思い悩んでいるような様子だった。
「おはようございます、竹内さん。……体調でも悪いんですか? 昨日の休日出勤の疲れが残っているなら、中山先生のところで休んできてもいいですよ」
昨日の日曜日。地下の「開かずの空間」に引きずり込まれた松田透子を、俺が助け出した一件だ。
あの時、塔子はエントランスでパニックになりながら待機していた。俺は「松田は貧血で倒れていただけだ」と誤魔化したが、あんな得体の知れない現象を目の当たりにしたのだ。その時の極度の緊張が今になってトラウマのようにフラッシュバックしているのかもしれない。
「……いえ。体調は大丈夫です。ただ」
塔子はそこで言葉を切ると、意を決したように顔を上げ、俺を見た。
「……中川さん。今日のお昼休み、少しだけお時間いただけますか? 屋上で、お話ししたいことがあります」
彼女の大きな瞳には、いつもの頼りなさはない。強い、揺るぎない光が宿っていた。
俺は少しだけ眉をひそめ、「……わかりました」と短く答えた。
★★★★★★★★★★★
午後0時15分。
本社ビルの屋上は、凍えるような寒風が吹き荒れていた。
喫煙所があるだけの殺風景な空間には、この寒さのせいか、俺と塔子の二人しかいない。
塔子は薄手のコートを羽織り、寒そうに身を縮めながら、フェンスの前に立っていた。
「……で、お話しとはなんでしょうか。こんな寒いところで長話をしていると、風邪を引きますよ」
俺が少し距離を置いて尋ねると、塔子は俺の方へ向き直った。
「中川さん。……私、知ってしまったんです」
「何をですか」
「昨日の夜、どうしても中川さんのことが気になって……以前この会社にいらっしゃった、福徳商事の結城さんに連絡を取ってみたんです。あの人なら、昨日みたいな不思議なことに詳しいんじゃないかと思って」
ピクリ、と俺の指先が動いた。
結城明。数週間前、この会社に視察に訪れ、巨大な怨霊を呼び起こして逃げ帰った、あのエリート気取りの男か。
あいつ、去り際に「また後日ご連絡します」と塔子に言い残していたな。
「……結城さんが、何か言っていましたか」
「はい。最初は鼻で笑われました。でも、私が『中川さんが地下から松田ちゃんを助け出した』と伝えたら……結城さんは、すごく悔しそうな、忌々しそうな声で教えてくれたんです」
塔子は一歩、俺に近づいた。
「中川さんは、ただの派遣社員なんかじゃないって。……昔、国の機関で『天才』と呼ばれていた、本物の陰陽師だって。……昨日、私が目の前で見たあのバケモノみたいな出来事も、中川さんの力も、そういうことだったんですね」
冬の風が、二人の間を吹き抜ける。
俺はポケットに両手を突っ込んだまま、空を見上げた。
重苦しい灰色の雲が広がっている。隠し通すのは、もう無理らしい。あのエリートのプライドの高さが、こんな形で俺の平穏を脅かすとは。
「……それが本当だとしたら、どうしますか?」
俺は冷たい声で、あえて突き放すように言った。
「気味が悪いでしょう。昨日あんな得体の知れない力を見せられて、しかも同じ部署の、いつも無気力に伝票を整理している男が本物の陰陽師だったと知ったら。……ご心配なく。次の契約更新のタイミングで、俺から辞退しますよ。俺がいると、どうしてもこういう『面倒事』を引き寄せてしまうようですし」
俺は踵を返し、屋上のドアへと向かおうとした。
だが、その背中に、塔子の鋭い声が突き刺さった。
「逃げるんですか!」
足を止める。
振り返ると、塔子の目には涙が浮かんでいた。だが、彼女はそれを拭おうともせず、俺を真っ直ぐに睨みつけていた。
「気味が悪いなんて、一言も言ってません! ……私、今までずっと不思議だったんです。私が稟議書をなくして泣きそうだった時も、コピー機が暴走してパニックになった時も、決算でみんながおかしくなりそうだった時も……。中川さんが動いた後には、必ず空気が綺麗になって、みんなが笑顔になってた」
塔子は両手を強く握りしめる。
「……結城さんは『あんな奴に関わると不幸になる』って言ってました。でも、私はそうは思いません。中川さんは、時給1200円なんて言ってますけど……本当は誰よりも、この会社の人たちを、私たちを助けてくれていたんじゃないですか!」
「……俺は、自分の定時退社を守るために、邪魔なホコリを払っていただけです。それに、ボランティアじゃありません。しっかり残業代は請求していますから」
「それでもです!」
塔子はさらに一歩、俺との距離を詰めた。
彼女の放つ「清廉なオーラ」が、冷たい風の中で温かく輝いている。
「あなたが陰陽師でも、魔法使いでも関係ありません。この丸の内商事の総務部で働く限り、中川さんは私の大切な『部下』です」
それは、ただの正社員としての建前ではない。
彼女が持つ、生真面目で、青臭くて、どこまでも真っ直ぐな「覚悟」だった。
「だから……もう、一人で抱え込まないでください。次に危ないことが起きたら、私も一緒に戦います。私が、中川さんを守ります! ……これ以上、中川さん一人に、危険な真似はさせませんから!」
その言葉を聞いて、俺は思わず毒気を抜かれたように息を吐き出してしまった。
霊感など微塵もない、ただの二十四歳の女性が、国の機関が手を焼くような怪異を相手に「一緒に戦う」「守る」と宣言しているのだ。
あまりにも無謀で、滑稽で……そして、眩しすぎた。
「……竹内さん。あなたは本当に、お人好しにも程がありますよ」
「お人好しで結構です。総務の仕事は、社員が働きやすい環境を守ることですから」
塔子は涙ぐんだ目を細め、フフッと少しだけ誇らしげに笑った。
「……わかりました。辞めるのは保留にしておきます。ただし、時給が上がらない限り、俺から進んで厄介事に首を突っ込む気はありませんからね」
「はいっ! それでいいんです。中川さんは、今まで通り定時で帰ってください!」
塔子はいつもの「白百合の笑顔」を取り戻し、俺に向かって深くお辞儀をした。
正体がバレたことで、俺の派遣ライフは終わるかと思ったが……どうやら、このお節介な上司は、俺の秘密を丸ごと抱え込んで守ってくれるつもりらしい。
まったく、厄介な職場に派遣されてしまったものだ。
★★★★★★★★★★★
午後5時30分。
定時のチャイムと共にタイムカードを切り、俺は足早に会社を後にした。
アパートのドアを開けると、『ミャーン!』という元気な鳴き声と共に、クロが玄関まで駆け寄ってきて俺の革靴にすり寄る。
「ただいま、クロ。……今日は少し、面倒な約束をしてしまったよ」
俺はクロを抱き上げ、冷え切った体をその温もりに預けた。
さて、今夜は少し特別な酒が飲みたい気分だ。
俺はエプロンを締め、キッチンに立った。
作るのは中東発祥の伝統的なペースト料理――『フムス』だ。
本来なら乾燥ひよこ豆を一晩水に浸して茹でるのだが、今日はあらかじめストックしておいた高品質な水煮缶を使う。
ただし、ここからの手間に一切の妥協はしない。
水煮のひよこ豆をザルにあけ、指先で一粒一粒、丁寧に薄皮を剥いていく。この地道な作業こそが、フムスを極上の滑らかさに仕上げる絶対条件なのだ。
皮を剥いたひよこ豆をフードプロセッサーに入れ、そこにタヒニ、絞りたてのフレッシュなレモン果汁、すりおろしたニンニクを少々、そして塩とクミンパウダーを加える。
スイッチを入れ、全体が混ざり合ったところで、最大の秘訣を投入する。
――『氷水』だ。
オリーブオイルではなく、大さじ数杯の氷水を少しずつ加えながら限界まで撹拌することで、フムスは空気をたっぷりと含み、まるでホイップクリームのように白くフワフワな極上のペーストへと変貌するのだ。
「よし、完璧なテクスチャーだ」
出来上がったフムスを平皿にこんもりと盛り付け、スプーンの背を使って表面に美しい渦巻き模様のくぼみを作る。
そのくぼみに、上質なエキストラバージンオリーブオイルをたっぷりと注ぎ込み、色鮮やかなパプリカパウダーと刻んだ生パセリを散らす。
オーブントースターで軽く温めたピタパンを添えれば、プロ顔負けの極上フムスの完成だ。
だが、これで終わりではない。
この濃厚な中東のペーストに合わせる、最高の一杯を用意する。
俺は冷凍庫から、キンキンに冷やしておいたジンのボトルを取り出した。
カクテルの王様――『ドライ・マティーニ』だ。
ミキシンググラスに氷をたっぷりに入れ、ジンとドライ・ベルモットを注ぎ、バースプーンで静かに、しかし素早くステアする。氷が溶けて水っぽくならないよう、ギリギリの温度を見極めるのがプロの技だ。
逆三角形のショートグラスに注ぎ、ピンに刺したグリーンオリーブを沈める。最後に、レモンピールを軽く絞って爽やかな香りを水面に飛ばす。
「……いただきます」
ダイニングテーブルに座り、まずは温かいピタパンをちぎって、フムスをたっぷりとすくい取る。
口に入れた瞬間、ひよこ豆の自然な甘みとタヒニの深いコクが、驚くほど滑らかな舌触りと共に爆発した。
レモンの酸味とニンニクの香りが食欲を刺激し、後からクミンのエキゾチックな香りが鼻に抜ける。
美味い。いくらでも食べられそうだ。
その濃厚な余韻が残っているうちに、俺は冷え切ったマティーニのグラスを傾けた。
ピリッとしたジンの鋭いアルコール感と、ベルモットの複雑なハーブの香りが、口腔内に残るフムスの濃厚な油分をスパッと鮮やかに切り裂いていく。
強い酒だが、フムスのコクがクッションとなり、信じられないほどまろやかに喉の奥へと落ちていった。
地中海の風と、冷たい都会の夜が交差するような、完璧なマリアージュだ。
『ミャッ』
クロがテーブルの横にある椅子に飛び乗り、オリーブの匂いに興味を示して鼻をヒクヒクさせている。
「これは大人の薬だ。お前にはまだ早い」
俺はクロの鼻先を指で軽く弾いた。
マティーニのアルコールが、冷えた体を芯から温めていく。
脳裏に浮かぶのは、昼間の屋上での、塔子の涙ぐんだ、けれど真っ直ぐな瞳。
『私が、中川さんを守ります!』
あの青臭い覚悟を思い出すと、なぜかマティーニの味がいつもより少しだけ甘く感じられた。
時給1200円。割に合わない職場だが、もう少しだけ、あのお節介な上司の下で働いてみるのも悪くないかもしれない。
俺はグラスの底に沈んだオリーブを齧りながら、一人静かに微笑んだ。




