第24話 中川、本気を出す
12月中旬の日曜日。午後1時15分。
丸の内商事本社ビルのエレベーターは、本来ならば存在しないはずの「地下4階」へと静かに降下を続けていた。
エレベーターの箱の中は、すでに物理的な法則から外れ、氷点下に近い冷気とドス黒い瘴気が渦巻いている。
俺は、右手にネクタイを巻き付けたまま、表示板の赤いデジタル数字が「B4」を示して止まるのを冷徹な目で見つめていた。
チン、という不気味なほど軽い電子音が鳴り、重い金属扉がゆっくりと左右に開く。
「……ひどい臭いだ」
思わず顔をしかめるほどの、カビと泥、そして何百年分もの血と涙が混ざり合ったような腐敗臭。
そこは、近代的なオフィスビルの地下とは思えない、岩肌が剥き出しになった広大な「洞窟」のような異空間だった。
この丸の内という土地がアスファルトで覆われるよりもずっと昔から、この場所に沈殿し続けてきた人間の「業」や「絶望」が溜まりに溜まった、霊的な掃き溜め。
エリート陰陽師・結城が放った強引な浄化パルスが、この底なしのヘドロの蓋を吹き飛ばし、完全に覚醒させてしまったのだ。
俺は足音を殺して、暗闇の中を進む。
洞窟の最奥。ドロドロとした黒い泥の沼のような場所の中央に、それはいた。
「……松田」
泥の沼の中心で、私服姿の松田透子が、空中に浮かぶようにして磔にされていた。
彼女の四肢には黒い泥の触手が絡みつき、意識を失って力なく首を垂れている。
そして、彼女を包み込むようにして、巨大な「黒い影」が蠢いていた。特定の形を持たない、ただ果てしなく巨大な悪意の塊。
カテゴリーAを凌駕する、土地の怨念そのもの。
『……キタカ……』
『……コノ娘ハ、ワレワレノ、新シイ器ダ……』
洞窟全体を震わせるような、無数の男女の声が混ざり合った不気味な声が響く。
奴らは、透子の持つ並外れた「霊媒体質」に目をつけ、彼女の肉体を乗っ取って現世に顕現しようとしているのだ。
「悪いが、その娘は時給1000円ちょっとでウチの郵便室を回している大事な労働力だ。休日にタダ働きさせるわけにはいかないんでね」
俺は右手に巻き付けたネクタイに霊力を込め、青白い光を放たせながら一歩前へ出た。
『……邪魔ヲスルナァァァ!!』
泥の沼から、何十本もの巨大な触手が槍のように射出され、俺に向かって襲いかかってきた。
俺はネクタイの鞭を振るい、迫り来る触手を次々と斬り裂いていく。
パァン! パァァァン!
乾いた破裂音と共に泥が飛び散るが、切っても切っても、底なしの沼から新たな触手が無限に湧き出してくる。
(……チッ。圧倒的な質量だな。小手先の呪具じゃ埒が明かないか)
俺が普段使っている「付箋」や「事務用品」を用いた陰陽術は、あくまでオフィス環境に合わせたエコで省エネな技だ。定時内で効率よく仕事を片付けるための、いわば「手抜き」である。
だが、この地下深くの巨大な怨念を相手にするには、出力が全く足りない。
「……仕方ない」
俺は迫り来る触手を一閃して距離を取り、小さく息を吐いた。
そして、左手を自分の顔へと持っていく。
俺の顔には、今日に限って極薄のチタンフレームで作られた『伊達眼鏡』がかかっている。
休日の急な呼び出しだったため、普段は自室でしか使わないこれを、外す暇もなくかけてきてしまったのだ。塔子たちも、俺が休日の気の緩みで伊達眼鏡をかけているくらいにしか思っていないだろう。
だが、この眼鏡は視力を矯正するものではない。俺自身の底知れぬ強大な霊力を内側に抑え込み、同時に無駄な霊圧の漏出をシャットアウトするための『封印の呪具』なのだ。
「時給1200円の派遣社員が、休日に無給でここまで働くとはな。……だが」
俺は指をかけ、その伊達眼鏡を外した。
カチャリ、と硬い音が鳴る。
そして、鬱陶しい前髪を無造作に上へと手でかき上げた。
隠されていた「眠たげな目」が、獲物を狙う鷹のように鋭く見開かれる。
「――俺の可愛い後輩に手を出したこと、骨の髄まで後悔させてやる」
ゴオオオオオオオオオオオッ!!!
眼鏡というリミッターを外した瞬間、俺の全身から、先ほどまでの比ではない、圧倒的で暴力的な「青白い霊力の炎」が爆発的に噴き出した。
洞窟の空気が激しく震え、周囲の黒い瘴気が、俺の放つ清浄なオーラの熱量だけでチリチリと蒸発し始める。
『ナ……!? ナンダ、コノ力ハ……!?』
怨念の集合体が、初めて恐怖を含んだ声を上げた。
「安倍晴明の末裔、中川武。……残業代はいらん。お前を消す」
俺は事務用品を一切使わず、己の指先だけで虚空に印を結んだ。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!」
九字護身法の詠唱と共に、俺の目の前の空間に、燃え盛る巨大な青白い『五芒星』が展開された。
それは、陰陽道における最強の破邪の陣。
『グ……ギャアアアアアッ!?』
怨念が透子を盾にしようと触手を動かすより早く。
俺は五芒星の中心に右手を突き入れ、その莫大な浄化のエネルギーを、一直線に怨霊の核めがけて解き放った。
「――滅せよ!!」
閃光。
地下4階の異界が、真昼の太陽のような強烈な光に包まれた。
音すらない圧倒的な浄化の光の奔流が、怨念の巨大な体を貫き、その存在を細胞レベル……いや、霊子レベルで焼き尽くしていく。
『ア……アアァァァァァァァァ…………!!』
何百年分もの怨嗟の声が、断末魔の叫びとなって浄化され、光の中に溶けて消えていった。
光が収まった後。
そこには、黒い泥の沼も、おぞましい洞窟の壁もなかった。
ただの薄暗いコンクリートの地下空間。本来のビルの一部に戻っていた。
俺はゆっくりと歩み寄り、空中で拘束を解かれて落下してきた透子の体を、しっかりと両腕で受け止めた。
透子は静かな寝息を立てている。霊力を少し当てられただけで、魂に傷はない。ただ気絶しているだけだ。
「……終わったぞ、松田。帰る時間だ」
俺は前髪を下ろし、再びポケットから極薄フレームの伊達眼鏡を取り出して顔にかけた。
瞬時に、暴れ狂っていた俺の霊力がスッと内側に収まり、いつもの「気だるげな派遣社員」の空気に戻る。
俺は透子を背負い、エレベーターのボタンを押した。
表示板は正常に「1階」を指し示している。
1階のエントランスに到着し、扉が開くと、そこには顔面を蒼白にした竹内塔子と、ノートPCを抱え込んだ石田繭子が待っていた。
「中川さんっ! 松田ちゃん!!」
塔子が泣き叫びながら駆け寄ってくる。
「大丈夫です。ただの貧血で倒れていただけですよ。地下の空調が悪い倉庫に迷い込んでいたみたいで」
「よ、よかったぁ……っ! 本当に、本当によかった……!」
塔子は透子の手を握りしめ、ボロボロと涙をこぼした。
繭子はPCを閉じながら、俺の顔をジッと見つめてきた。
「……中川さん。地下からの凄まじいエネルギー反応、ログに残ってる。……ただの貧血探しじゃないでしょ」
「……気のせいだ。お前のサーバーがエラーを吐いただけだろう」
俺はしらばっくれ、透子の介抱を塔子たちに任せて、エントランスを後にした。
休日の午後が、すっかり潰れてしまった。だが、最悪の事態は防げたのだ。
早く帰って、俺の「城」で癒やされるとしよう。
午後6時。
冬の夜は早く、アパートに帰り着いた頃には、すっかり外は暗くなっていた。
玄関のドアを開けると、『ミャーン!』という元気な声と共に、クロがキャットタワーの最上段から飛び降りて、俺の足元へ突進してきた。
クロは俺のふくらはぎにスリスリと頭をこすりつけ、「遅かったじゃないか」とでも言いたげに甘えてくる。
「ただいま、クロ。……今日は少し、本気を出して疲れたよ」
俺はクロを抱き上げ、その温かい毛並みに顔を埋めた。冷え切った心と体が、急速に解凍されていくのを感じる。
さて、今夜の夕食は決まっている。
昨日、仕事帰りに市場の魚屋で、極上の「生のあん肝」を仕入れておいたのだ。
俺はエプロンを締め、キッチンに立った。
あん肝の調理は、下処理が全てだ。
まずは新鮮なあん肝をボウルに入れ、骨抜き用のピンセットを使って、表面の薄皮と太い血管を、身を崩さないように丁寧に、徹底的に取り除いていく。この血抜きの作業を怠ると、生臭さが残って台無しになってしまう。
綺麗になったあん肝に、たっぷりの塩を振り、20分ほど冷蔵庫で寝かせて余分な水分と臭みを引き出す。
『ミャオ?』
クロが、魚の匂いに釣られて足元でウロウロし始めた。
「お前には塩分が強すぎる。あとでちゅーるをやるから待ってろ」
20分後。あん肝を日本酒で綺麗に洗い流し、キッチンペーパーでしっかりと水気を拭き取る。
そして、アルミホイルの上に置き、空気が入らないようにキツく巻きながら、綺麗な円筒形に成形する。両端をキャンディのようにギュッとねじって縛れば準備完了だ。
蒸し器に湯を沸かし、中火でじっくりと30分ほど蒸し上げる。
蒸し上がったら、粗熱を取ってから氷水で急冷し、さらに冷蔵庫で1時間ほど寝かせて身をしっかりと引き締める。
俺はその間に、今日の「相棒」を準備した。
冷蔵庫から取り出したのは、日本酒でも焼酎でもない。
漆黒のボトルに入ったリキュール――『ベイリーズ・オリジナル・アイリッシュ・クリーム』だ。
アイリッシュウイスキーに、新鮮なクリームとカカオ、バニラをブレンドした、極上の甘いリキュール。
一見、和食のあん肝には絶対に合わないと思われるかもしれない。
だが、「海のフォアグラ」と呼ばれるあん肝の濃厚な脂と深いコクには、このベイリーズのクリーミーな甘さとウイスキーのアルコール感が、信じられないほどのシナジーを生み出すのだ。
まさに、痛風待ったなしの「悪魔のマリアージュ」である。
冷蔵庫から冷え固まったあん肝を取り出し、ホイルを剥がして、厚さ1センチほどに切り分ける。
美しい薄ピンク色の断面。
小鉢に盛り付け、たっぷりのもみじおろしと小ねぎを乗せ、最後に最高級のポン酢を回しかける。
「……完璧だ」
俺はロックグラスに大きな氷を入れ、ベイリーズを注いだ。
ダイニングテーブルに座り、まずはあん肝を一口食べる。
「……美味い」
舌の上で、あん肝が滑らかに溶けていく。
臭みは一切なく、ただただ濃厚な旨味とコクが口いっぱいに広がる。ポン酢の酸味ともみじおろしのピリッとした辛味が、脂のしつこさを中和し、いくらでも食べられそうになる。
その濃厚な余韻が残っているうちに、ベイリーズのロックを口に含む。
冷たいクリームの舌触りと、カカオとバニラの甘い香り。そして、後から追いかけてくるアイリッシュウイスキーの芳醇なアルコール感が、あん肝のコクと口の中で見事に融合し、爆発的な旨味の相乗効果を引き起こした。
「……悪魔的だな。寿命が縮む味がする」
俺はグラスを揺らしながら、一人で微笑んだ。
クロが膝の上に乗ってきて、俺の腹の上で「ふみふみ」を開始する。
今日は、柄にもなく本気を出してしまった。
眼鏡を外し、本来の力を使ってしまったことは、もしかすると厄介な事態を引き起こすかもしれない。俺の力を嗅ぎつけた「陰陽庁」の連中が、嗅ぎ回る可能性もある。
だが、後悔はしていない。
俺の日常は、俺の力で守る。
時給1200円の矜持を胸に、俺はベイリーズのグラスを傾け、平穏な冬の夜に身を委ねた。




