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第23話 松田透子の消失

 十二月中旬。

 木枯らしが街の体温を奪い去り、本格的な冬の到来を感じさせる日曜日の朝。


 俺は、アパートの玄関でマフラーを巻きながら、リビングの奥を見上げていた。

 先日組み立てた巨大なキャットタワーの最上段――天井すれすれの展望台から、黒曜石のような毛並みを持つ愛猫「クロ」が、俺の外出の身支度をじっと見下ろしている。


 生後一年三ヶ月を過ぎ、しなやかな筋肉を持つ立派な若猫へと成長したクロは、最近はこのタワーの最上段がお気に入りの定位置らしく、王様のような風格で部屋全体を監視している。


「今日は休日出勤じゃない。少し野暮用で出かけるだけだ。お前は床暖房の効いた部屋で、大人しく留守番してろ」

『……ミャオン』


 クロは「早く帰ってこいよ」とでも言いたげに、短く、少しだけ低い声で鳴いた。

 後ろ髪を引かれる思いだが、今日の「野暮用」はキャンセルするわけにはいかない。

 俺はドアノブを引き、凍てつくような冬の街へと足を踏み出した。


 午前10時30分。東京・秋葉原。

 休日の電気街は、多種多様な欲望と熱気に満ちた人々でごった返していた。

 指定された駅前の待ち合わせ場所で、俺は腕を組んで「依頼主」を待っていた。


「……中川さん。遅い」


 背後から、ボソボソとした声がした。

 振り返ると、そこには完全に不審者と化した人物が立っていた。

 黒いオーバーサイズのパーカーのフードを深く被り、黒いマスク、さらに黒縁の伊達メガネという完全防備。そこから覗くのは、少しだけ伸びたブロンドのボブヘアと、警戒心もあらわに周囲を睨みつける透き通った青い瞳だけ。


 丸の内商事の天才社内SEにして、極度の対人恐怖症を患う引きこもり・石田繭子だった。


「遅刻はしていない。10分前行動だ。……それにしても、見事な変装だな。職務質問されないことを祈るよ」

「……うるさい。これでも死ぬ気で電車に乗ってきたの。……人多すぎ。空気薄い。帰りたい……」


 繭子は俺のコートの袖をぎゅっと掴み、俺の背中に隠れるようにして身を縮めた。

 彼女が自ら『繭』を出て、この人混みにやってきたのには、明確な理由があった。


「で? 今日発売の限定グラフィックボードだっけか。どうしても実店舗でしか買えないのか?」

「……当たり前。ネットの抽選は業者のbotに全部持っていかれた。……でも、今日オープンするここの特設店舗なら、先着100名で確実に入手できる。……私の可愛い『ナポレオン』の演算能力を上げるために、妥協は許されない」

「なるほど。で、俺は『人よけの防壁』兼『荷物持ち』というわけか」

「……日当は出す。来週、総務のネット回線だけ速度を1.5倍にしてあげる」

「それはありがたいな。よし、行こう」


 俺は繭子の前を歩き、休日の混雑をかき分けて進んだ。

 デート、と呼ぶにはあまりにも殺伐とした道のりだ。俺は周囲の人間が繭子にぶつからないよう、微弱な「土行の気」を体から発し、見えない防壁となって彼女を守りながら歩いた。


 特設店舗の行列に並び、一時間後。

 見事に限定パーツを手に入れた繭子は、その大きな箱を宝物のように抱きかかえ、パーカーのフードの下で「ふふっ……」と妖しい笑みを漏らしていた。


「……ミッション・コンプリート。これでナポレオンが真の皇帝になる……」

「お疲れ様。じゃあ、ミッションも終わったし、どこかでコーヒーでも飲んで帰るか。お前、人混みで息してなかっただろ」

「……賛成。静かで、人がいなくて、Wi-Fiの飛んでる暗いカフェがいい」


 俺たちは秋葉原の路地裏にある、地下のレトロな純喫茶に入った。

 薄暗い店内は客も少なく、繭子はようやくパーカーのフードを下ろし、マスクを外した。


「……生き返った」


 繭子はアイスコーヒーのストローを咥えながら、大きく息を吐き出した。


「休日にまで俺を呼び出すとはな。小野さんや竹内さんに頼めばよかったじゃないか」

「……無理。小野さんは眩しすぎるし、竹内さんはお節介すぎる。……中川さんは、無機質で、無関心で、ちょうどいい。……まるで高品質なルーターみたい」

「最高の褒め言葉として受け取っておこう」


 俺が苦笑してコーヒーカップを手に取った、その時だった。

 ポケットの中で、俺のスマートフォンが激しく震え始めた。

 画面には『竹内塔子』の名前が表示されている。


(……嫌な予感がする)


 俺は繭子に目配せをして、通話ボタンを押した。


「はい、中川です」

『な、中川さんっ! 大変です! 松田ちゃんが、いなくなっちゃったんです!』


 電話の向こうの塔子の声は、完全にパニックに陥っていた。


「落ち着いてください。いなくなったとは? 今日は日曜日でしょう」

『は、はい。松田ちゃん、今日は丸の内の近くで友達と遊んでたみたいで……さっき私に、「郵便室に忘れ物したから、ちょっと会社寄ってから帰るね」ってメッセージが来たんです』

「……それで?」

『その後、一時間経っても連絡がなくて……心配になって会社に来てみたんですけど、郵便室にもいないし、電話も繋がらないんです! エレベーターの中に、荷物だけが落ちてて……!』


 俺の心臓が、冷たい音を立てた。


 松田透子。17歳。

 丸の内商事のアルバイトにして、最強の「霊媒体質」の持ち主。

 普段なら、人が大勢いるオフィスで少しばかり霊を引き寄せたところで、俺や、周りの勘の鋭い連中の誰かが気付いて対処できる。

 だが、休日の、誰もいない無人のオフィスビルに、彼女が一人で足を踏み入れたとしたら。


「……竹内さん、そのまま絶対に動かないでください。すぐに会社に向かいます」


 俺は通話を切り、勢いよく立ち上がった。


「中川さん? ……緊急エラー?」


 繭子が俺のただならぬ気配を察し、青い瞳を鋭く光らせた。


「松田が会社で行方不明になった。……竹内さんが一人で現場にいる。危険だ」

「……私も行く。私の『繭』がある場所で、勝手は許さない」


 繭子は限定パーツの箱を抱え、素早く立ち上がった。

 俺たちは秋葉原からタクシーを拾い、丸の内へと急行した。


 午後1時。

 休日の丸の内商事本社ビルは、平日の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 俺と繭子が1階のエントランスに駆け込むと、ゲートの前で顔面を蒼白にした塔子が待っていた。


「中川さん! 石田さんも!」

「状況は」

「これです……」


 塔子が震える手で差し出したのは、透子がいつも愛用しているリュックサックと、ひび割れたスマートフォンだった。


「1階のエレベーターの中で見つけました……。警備員さんにお願いして、監視カメラの映像を見せてもらったんですけど……」


「……石田。やれるか?」


 俺が振り返ると、繭子はすでに自分のノートPCを開き、エントランスのWi-Fi経由で社内ネットワークの深部へとハッキングを仕掛けていた。


「……舐めないで。社内のカメラは全部私の『目』。……アクセス完了。映像、出す」


 繭子がエンターキーを叩くと、PCの画面に数時間前の映像が映し出された。

 私服姿の透子が、1階のエントランスを抜け、エレベーターに乗り込む姿。

 そこまでは普通だ。

 しかし。


「……なんだ、これは」


 エレベーター内のカメラ映像。

 透子が「8階」のボタンを押して扉が閉まった直後。

 映像全体に、強烈な砂嵐が走り始めた。


 ノイズの向こう側で、透子が「えっ?」という顔で周囲を見回している。

 そして――足元から、ドス黒い、コールタールのような「影」が這い上がり、透子の体を一瞬にして包み込んだ。

 ノイズが晴れた後。エレベーターの箱の中には、誰もいなかった。

 床には、彼女のリュックサックとスマホだけが転がっている。


「うそ……消えた……? 密室から……?」


 塔子が口元を両手で覆い、絶句する。


「……違う」


 俺はPCの画面を睨みつけながら、低く唸った。


 ただの神隠しではない。

 あの黒い影。あの粘着質で、底知れぬ悪意に満ちた瘴気の質。

 先日、エリート陰陽師の結城が強引な除霊を行ったせいで活性化し、俺が処理したはずの『忘年会シーズンの怨嗟スライム』……いや、それ以上の、もっと巨大で古い淀みの気配だ。

 丸の内商事のビルの地下深く、開かずの第3倉庫よりもさらに深淵に眠る「何か」が、エレベーターの空間そのものを霊的に歪め、透子を連れ去ったのだ。


「……石田、ログを追えるか。エレベーターの制御システムに、異常な負荷がかかった痕跡はないか?」

「……やってる。……待って、これ……」


 繭子のタイピング速度が跳ね上がる。

 彼女の青い瞳に、戦慄の色が浮かんだ。


「……エレベーターの現在位置データが、バグってる。1階でも、8階でもない。……『地下4階』って表示されてる」

「地下4階? このビルは地下2階の駐車場までしかないはずですよ!?」


 塔子が叫ぶ。


「物理的にはな」


 俺は懐から、一枚の赤い付箋を取り出した。


「だが、霊的な次元には存在する。……強大な怨念が、現実の空間を歪めて作り出した『異界』だ。……松田は、そこに引きずり込まれた」


 俺はようやく、点と点が繋がるのを感じていた。

 なぜ、この会社には次から次へと怪異が現れるのか。

 なぜ、松田透子という少女が、あれほどまでに霊を引き寄せるのか。


 彼女の「霊媒体質」は、ただの引き寄せの法則ではない。

 強力な悪霊が、現世に物理的な肉体を持って顕現するための「依代」――つまり、『極上の器』として目をつけられていたのだ。

 このビルの地下に眠る、すべての元凶たる巨大な怨念が、ついに「器」を手に入れるために牙を剥いたのである。


「……中川さん。松田ちゃん、どうなっちゃうんですか……? 殺され……」


 塔子が震える声で尋ねる。


「殺されはしません。奴らの目的は彼女の『肉体』ですから。だが、精神を乗っ取られれば、二度と元の彼女には戻れない」


 俺はジャケットを脱ぎ捨て、ワイシャツの袖をまくり上げた。

 そして、首に巻いていたネクタイを外し、右手に固く巻き付ける。


「……石田、竹内さん。二人はここから出ないでください。このエントランスは、ソフィアさんのハーブの結界が効いている。外に出るのも危険だ」

「中川さん、一人で行く気ですか!? ダメです、警察に……!」

「警察でどうにかなる相手じゃありませんよ」


 俺は冷たく言い放った。

 時給1200円。それが俺の労働対価だ。

 業務範囲外のことに首を突っ込むのは、俺の流儀に反する。定時退社を至上命題とする、合理主義者の俺のルール違反だ。


 だが。


「……俺のテリトリーで、俺の可愛い後輩に手を出したこと、骨の髄まで後悔させてやる」


 俺の全身から、かつてないほどの青白い霊力の炎が噴き出した。

 それは怒り。

 陰陽庁のエリートたちから恐れられ、「天才」と呼ばれた男の、本気の殺意だった。


「残業代はいらない。――その代わり、跡形もなく消し炭にしてやる」


 俺は右手に巻いたネクタイを握りしめ、エレベーターホールへと向かって歩き出した。

 丸の内商事の地下に広がる、漆黒のダンジョンへと向かって。



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