第22話 時給1200円の矜持
十二月。
ボーナスという言葉が社内を飛び交う季節だが、派遣社員の俺には全く関係のない話だ。
土曜日の午前中、俺はアパートのリビングで、ドライバー片手に汗を流していた。
目の前にそびえ立つのは、天井近くまである巨大なキャットタワーだ。
実はこのキャットタワー、俺がクロを拾った直後――一年前の秋にホームセンターで買ってきたものだった。だが、クロがタワーの入っていた「巨大な段ボール箱」の方を異常に気に入り、そこを寝床にしてしまったため、なんとなく組み立てるタイミングを逃し、一年以上も部屋の隅に放置していたのだ。
しかし、生後一年三ヶ月を過ぎて立派な若猫へと成長したクロには、そろそろ上下運動ができる本格的な遊び場が必要だろうと思い立ち、ついに重い腰を上げたというわけだ。
「よし、完成だ」
最後のネジを締め終え、俺はタワーの横に立って手をパンパンと払った。
ベッドの下から、その様子をじっと伺っていたクロが、トコトコと歩み寄ってくる。
クロは新しい巨大な建造物の匂いをフンフンと嗅ぎ、恐る恐る前足を一段目のステップに乗せた。
安全を確認したのか、そこからは早かった。
タンッ! ポンッ! タタンッ!
しなやかなバネのような筋肉を躍動させ、見事な身のこなしで一気に最上段の展望台まで駆け上がったのだ。
そして、天井を見下ろす位置から俺を見下ろし、ピンと尻尾を立てて誇らしげに鳴いた。
『ミャオォォン!』
まるで「ここが俺の新しい城だ!」と宣言しているかのようだ。
さらに、タワーの途中にぶら下がっている麻紐付きのネズミのおもちゃを見つけると、瞳孔をまん丸にして「ケリケリッ!」と激しい猫キックを浴びせ始めた。
大興奮である。
「……こんなに喜ぶなら、段ボールに遠慮せずもっと早く組み立ててやればよかったな」
俺は楽しそうに遊ぶクロを見上げながら、思わず頬を緩めた。
時給1200円の安月給でも、この小さな家族の幸せな姿を見られるなら、日々の労働も悪くないと思える。
だが、その平和な休日も束の間、週明けの月曜日には、再びあの「厄介な男」の顔を見ることになった。
月曜日、午後3時。
丸の内商事・8階の総務部フロア。
先週、このフロアを訪れて最新鋭の呪具で派手な除霊を行った男――福徳商事の若手エリート陰陽師、結城明が、再び姿を現していた。
「本日は、先週設置した環境改善ツールの最終チェックに参りました」
結城は、案内役の竹内塔子に向かって、仕立ての良いオーダースーツ姿で爽やかに微笑んでいる。
俺は自席で伝票の束を整理しながら、結城の様子を冷ややかに観察していた。
先週、こいつが「陽の気」のフラッシュを強引に放ったせいで、このフロアの床下――OAフロアのケーブルが這う暗がりの奥底で、淀んだ空気が反発し、危険なレベルまで圧縮されているのを俺は感じ取っていた。
(……そろそろ、限界するぞ)
俺の霊的直感が、危険信号を鳴らしている。
結城はフロアの中央に立ち、再びあの銀色のプレートを取り出した。
「では、最後の浄化パルスを送信して、このフロアの霊的セキュリティを完璧なものにしましょう」
彼がプレートのスイッチを押した、その瞬間だった。
ドォォォォンッ!!
ビルの基礎が揺れるような、鈍い地鳴りがフロアを襲った。
「きゃあっ!?」
塔子が悲鳴を上げてしゃがみ込む。他の社員たちも「地震か!?」と机の下に身を隠した。
だが、これは地震ではない。
バキバキバキッ!
結城の足元のOAフロアが隆起し、パネルが弾け飛んだ。
その亀裂から、間欠泉のように噴き出したのは、コールタールのような漆黒のヘドロだ。
『……ウザイ……眩シイ……』
『……静カニ……腐ラセロォォォ……!』
ヘドロは瞬く間に寄り集まり、天井に届くほどの巨大な「黒い大蛇」の姿を形成した。
大蛇の鱗の1枚1枚が、憎悪に歪んだ無数の「顔」になっている。
――『忘年会シーズンの怨嗟スライム』の変異体だ。
年末特有の忙しさ、飲み会の強制参加への不満、評価されないことへの鬱屈。それらがオフィスの床下に長年沈殿していたところを、結城の放った強烈な「陽の気」によって無理やり叩き起こされ、激昂して実体化したのだ。
カテゴリーAに迫る、最悪の怪異である。
「な、なんだこれは……!?」
結城が目を剥いて後ずさる。
霊感のない社員たちには「突然、床の配管が破裂して黒い水が噴き出した」ようにしか見えていないだろうが、結城の目には、殺意を持った巨大な魔物の姿がはっきりと映っているはずだ。
「ええい、この程度のイレギュラー! 私の『最新式・式神ドライブ』で消し炭にしてやる!」
結城は慌てて銀色のプレートを大蛇に向け、最大出力の呪力を流し込んだ。
プレートから眩い光のレーザーが放たれ、大蛇の胴体に直撃する。
しかし。
『……効カヌ……!!』
大蛇は光のレーザーを黒いヘドロで吸収し、逆にそのエネルギーを食らってさらに巨大化した。
「なっ……!? 吸収された!? 馬鹿な、この呪具は最新の……」
ピピピピッ! 『WARNING:キャパシティ・オーバー』
結城の持つプレートから警告音が鳴り響き、次の瞬間、パキンッ! と音を立ててレアメタルの表面に亀裂が走った。
「うわぁっ!」
呪具がショートして火花を吹き、結城は手を焼かれてプレートを取り落とした。
最大の武器を失い、完全に無防備となったエリート陰陽師に向かって、巨大な黒い大蛇が鎌首をもたげ、その大口をガバッと開く。
『喰ッテヤルゥゥゥゥ!!』
結城は腰を抜かし、恐怖に顔を引き攣らせて動けない。
このままでは、結城の精神が完全に喰われ、廃人になってしまう。
「――だから言っただろうが。汚れの質を見極めずに、強力な漂白剤の原液をぶちまければ、布地が傷むってな」
俺はため息をつきながら、自席から立ち上がった。
結城の前に歩み出た俺の姿を見て、彼が震える声で叫ぶ。
「な、中川先輩……! 逃げてください! それは普通の霊じゃない! 私の呪具でも全く刃が立たなかったんです! あなたのその、子供騙しの付箋なんかじゃ……!」
「……よく見ておけ、エリート様。弘法筆を選ばず、だ」
俺はポケットから、一握りの「ゼムクリップ」と「輪ゴム」を取り出した。
どこにでもある、数十円の事務用品だ。
俺は目にも留まらぬ速さで、ゼムクリップ同士を輪ゴムで繋ぎ合わせ、1本の長い「鎖」を作り上げた。
「高い道具に頼り切った陰陽術など、マニュアル通りの仕事しかできない素人のやることだ」
俺は完成したクリップの鎖を右手に握り、俺自身の内側に眠る「圧倒的な霊力」を流し込んだ。
チンッ……!
ただの鉄のクリップとゴムの輪が、青白い光を放ち、神気を帯びた『呪縛の鎖』へと変貌する。
「結界展開。――封魔の鎖!」
俺が鎖を頭上で振り回し、大蛇に向かって投げ放つ。
光の鎖は空中で蛇のように意志を持って伸び、大蛇の巨大な胴体にぐるぐると巻き付いた。
『ギャアアアッ!? 痛イッ、縛ラレルゥゥゥッ!』
霊力を込められたクリップが、大蛇の瘴気を焼き切りながらきつく締め上げる。
「な、なんだあの術は……!? ただのクリップと輪ゴムに、どれだけの霊力を圧縮しているんだ……!?」
結城が呆然と呟く。
「トドメだ」
俺は左手で、愛用の『赤い付箋』のブロックを取り出した。
そこにボールペンで呪文を書く暇はない。俺は付箋のブロックそのものを親指でパラパラと弾き、トランプのカードを飛ばすように、空中の大蛇めがけて数十枚の付箋を乱れ撃ちにした。
「五行相剋、火炎の陣。……残業代の分は、キッチリ働かせてもらうぞ」
俺が指を鳴らす。
空中に散らばった数十枚の赤い付箋が、大蛇の周囲で一斉に発火した。
ボボボボボボッ!!
鎖で身動きが取れない大蛇は、全方位からの浄化の爆炎を逃げ場なく浴びる。
強力な炎行の霊力が、ヘドロの怨念を内側から焼き尽くしていく。
『アギャアアアアアアアアッ……!!!』
断末魔の叫びと共に、黒い大蛇の霊体はチリチリと燃え上がり、最後は真っ白な灰となってフロアに降り注ぎ、そして消え去った。
隆起していたOAフロアも、ポルターガイスト現象が収まったことで、ガコンッと音を立てて元の平らな状態に戻る。
「……ふぅ。これで片付いたな」
俺は空中に残っていたクリップの鎖を回収し、熱でボロボロになったそれをゴミ箱に捨てた。
フロアに充満していた息苦しい空気は、すっかり澄み渡っている。
「……あ、あの。中川さん?」
机の下から恐る恐る這い出してきた塔子が、不思議そうな顔で俺を見た。
「今の、配管の破裂じゃなかったんですか? 急に元に戻りましたけど……」
「ええ。ただの床下のガス圧の異常です。自然に抜けましたよ。大事に至らなくてよかったですね」
俺はいつものように適当な嘘で誤魔化し、へたり込んでいる結城を見下ろした。
彼は顔面を蒼白にし、割れた銀色のプレートを震える手で握りしめている。
「……信じられない。あんな、そこら辺にある事務用品だけで……A級指定レベルの怨霊を、一人で……」
「道具に使われているようじゃ三流だ、結城。……俺は時給1200円分、キッチリと『自分の頭で考えて』仕事をしてるんでね」
俺が冷たく見下ろすと、結城は屈辱と恐怖が入り混じったような顔でギリッと歯を食いしばり、何も言い返せずに立ち上がった。
「……今日のところは、これで失礼します。……竹内さん、また後日、ご連絡しますので」
彼は塔子にひきつった笑顔を向けると、逃げるようにエレベーターへと向かい、足早に会社を去っていった。
彼が再び、俺の前に偉そうな顔で現れることは二度とないだろう。
午後5時30分。
定時のチャイムが鳴り響く。
エリート陰陽師の後始末という無駄な労力を使わされたが、なんとか定時退社には間に合った。
俺は足取りも軽く、アパートへの帰路についた。
玄関のドアを開けると、『ミャン!』という元気な声が、天井の方から降ってきた。
「……ん?」
見上げると、リビングの奥に設置した新しいキャットタワーの最上段から、クロが俺を見下ろしている。
俺が部屋に入ると、クロはタワーのステップを器用にポン、ポン、と降りてきて、俺の足首にスリスリと頭をこすりつけた。
「ただいま、クロ。新しい城は気に入ったか?」
俺がしゃがみ込んで頭を撫でると、クロは喉をゴロゴロと鳴らし、再びタワーに向かって駆け出し、途中の爪とぎポストでバリバリと元気よく爪を研ぎ始めた。
その楽しそうな姿を見ていると、結城に感じた苛立ちなど、嘘のように消え去っていく。
時給1200円。
エリートの肩書きも、高い給料もない。
だが、俺の「矜持」は、自分の実力でこの平穏な日常を守り抜くことにある。
俺はキッチンに立ち、特売の鶏肉を取り出した。今夜は、クロのキャットタワー落成祝いだ。少し手の込んだ夕食にするとしよう。




