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第21話 ライバル会社からの刺客

 十二月上旬。

 丸の内のメインストリートを彩る街路樹には、冬の訪れを告げる煌びやかなシャンパンゴールドのイルミネーションが点灯し始めていた。

 道行く人々のコートの襟も高くなり、吐く息が白く染まる季節。


 丸の内商事の8階、総務部フロア。

 暖房が効いた室内で、俺は、手元のダンボール箱から新しいホッチキスの芯を取り出し、備品棚に黙々と並べていた。

 時刻は午後2時。本来なら午後の睡魔と戦う時間帯だが、今日のフロアはいつもと違う、妙な緊張感に包まれていた。


「――なるほど。こちらが貴社のメインフロアですね。活気があって素晴らしい」


 フロアの中央を、総務部の竹内塔子に案内されながら歩いてくる一人の男がいた。

 年齢は俺より少し下、25、6歳だろうか。

 仕立ての良さが素人目にもわかる、濃紺の細身のオーダースーツを完璧に着こなし、髪は一糸乱れずセットされている。切れ長の目に、知的だがどこか冷たい光を宿した男だ。


「はい。本日はわざわざ足をお運びいただき、ありがとうございます、結城様」


 塔子が少し緊張した面持ちで、完璧な愛想笑いを浮かべている。


 結城明。

 業界最大手のライバル企業、「福徳商事」の新規事業開発部に所属する若手エリートだという。今日は今後の共同プロジェクトの視察という名目で、この丸の内商事を訪れていた。


「いえ、お気になさらず。……それにしても」


 結城は足を止め、フロア全体をぐるりと見渡した。


「……少し、空調が淀んでいませんか? 社員の皆様の生産性に影響が出かねませんね」


「え? 空調、ですか?」


 塔子が戸惑うように首を傾げる。


 俺は備品棚の陰から、結城の横顔を冷ややかな目で見つめていた。

 こいつの言う「空調の淀み」とは、二酸化炭素濃度のことではない。

 このフロアに微かに漂っている、社員たちの疲労やストレスが生み出す『低級な浮遊霊』のことだ。

 結城の目には、それがはっきりと見えているのだ。


「竹内さん。少しだけ、私の『ガジェット』を試させていただいても?」

「は、はい。構いませんが……」


 結城はスーツの内ポケットから、名刺入れよりも一回り小さい、銀色に輝く金属のプレートを取り出した。

 表面には、幾何学的な紋様――陰陽五行の『魔除けの陣』が、レーザーで精密に刻印されている。

 一般人には「お洒落な空気清浄ガジェット」にしか見えないだろう。だが俺にはわかる。あれは、特殊なレアメタルに高密度の霊力を封じ込めた、超高級な『最新式の呪具』だ。


 結城はそれをフロアの中央のデスクの上に置いた。


「結界起動」


 彼が唇をわずかに動かした瞬間。

 銀色のプレートから、強烈な「陽の気」がフラッシュのように弾け飛んだ。

 ピキィィィンッ! という、ガラスが弾けるような澄んだ音が霊的な次元で響き渡る。


『ギッ……!?』


 フロアの隅や天井付近に漂っていた数体の小さな浮遊霊たちが、その強烈な光の波動を浴びて、一瞬で蒸発し、消え去った。


「わぁ……!」


 塔子が目を丸くして歓声を上げる。


「すごい! なんだか急に、空気がスッキリしました! まるで森の中にいるみたいです!」

「福徳商事が独自に開発している、環境改善ツールですよ。お気に召したなら何よりです」


 結城は涼しい顔でプレートを回収し、再びポケットにしまった。


(……チッ。無駄に派手な真似を)


 俺は心の中で舌打ちをした。

 確かに表面上の「軽い汚れ」は吹き飛んだ。だが、あんな強引な力の解放は、ビルの深奥に潜むより強力な淀みを逆に刺激しかねない。デリケートな布地を、強力な漂白剤で無理やり洗うようなものだ。


 俺が静かに備品棚の扉を閉めようとした、その時だった。

 結城の冷たい視線が、正確に俺を捉えた。


「――お久しぶりです」


 結城は塔子をその場に残し、迷うことなく俺の元へと歩み寄ってきた。

 周囲の社員たちが「なんだ?」と注目する中、結城は俺の目の前でピタリと立ち止まり、薄く笑った。


「こんな所にいらっしゃったんですね、中川先輩。……いや、今はただの『派遣さん』とお呼びした方がよろしいですか?」

「……何の用だ、結城。俺は今、ホッチキスの芯の補充で忙しい」


 俺は表情を変えずに、業務用の箱を抱え直した。

 結城明。

 かつて、陰陽師が国家の管轄下にあった時代。俺とこいつは、同じ「陰陽庁」の機関に所属していた。俺は現場の処理班、こいつはエリート揃いの研究開発班の後輩だった男だ。

 俺が色々とあって組織を辞めた後、こいつは福徳商事という大企業に『専属の呪術コンサルタント』として潜り込み、順風満帆な出世街道を歩んでいるらしい。


「相変わらず、貧乏くさいオーラですね」


 結城は、俺の胸ポケットに刺さっている「赤い付箋」と「ボールペン」を見て、鼻で笑った。


「まだそんな安っぽい事務用品で、ちまちまと小銭を稼いでるんですか? かつて『天才』と持て囃された男が聞いて呆れますよ。……どうです? 今からでも私の部下として、福徳商事に来ませんか? 落ちこぼれのあなたでも、月給三十万くらいなら出してあげますよ」

「天才なんて呼ばれた覚えはない。それに、俺は時給1200円で雇われている身だ。責任の重い正社員のエリート様の下で働く気はないんでね」


 俺が冷たく受け流すと、結城の眉間にわずかなシワが寄った。

 こいつは昔から、俺のこの「やる気のない態度」を異常なまでに嫌悪していた。


「……負け犬の遠吠えですね。まあいいでしょう。この程度の底辺企業の霊的セキュリティ、私が『正しく』コンサルティングしてあげますよ。あなたのそのお遊びのような付箋の出番は、もうありません」

「好きにしろ。残業代が出ないなら、俺は一切関与しない」


 結城は「フン」と鼻を鳴らし、踵を返して塔子の元へ戻っていった。


「あ、あの……中川さんとは、お知り合いなんですか?」


 不思議そうに尋ねる塔子に、結城は笑顔を作って答える。


「ええ。昔、少しだけお世話になった『先輩』です。今は随分と……住む世界が変わってしまったようですが」


 結城が去った後、俺は大きく息を吐き出した。

 面倒な奴に見つかってしまった。

 あいつの張った薄っぺらい結界のせいで、床下のOAフロアの奥深くで、淀んだ空気が反発するように蠢き始めているのを俺は感じ取っていた。


(……まあ、俺の知ったことじゃない)


 定時になれば、俺は帰る。

 俺の平穏な日常を守るのが最優先だ。


 午後6時。

 定時退社をキメてアパートに帰還すると、玄関のタイルの上で、黒猫のクロがお座りをして待っていた。


『ミャン!』


 俺の顔を見るなり、クロは尻尾をピンと立てて足元にすり寄ってくる。

 拾ってから一年と数ヶ月。今ではすっかり骨格のしっかりした若猫へと成長し、毛並みはベルベットのように艶やかになっていた。大人の猫らしく落ち着きも出てきて、俺の足首にゆったりとすり寄ってから、出迎えの挨拶をしてくれる。


「ただいま、クロ。今日は少し、昔の嫌な知り合いに会ってな。……美味いものを食って忘れるとしよう」


 俺はスーツを脱ぎ、エプロンを身につけてキッチンに立った。

 冷え込む冬の夜だが、今日は朝から「これ」を作ると決めていた。


 南アフリカ発郷土のソウルフードにして、究極のファストフード。


 ――『バニーチャウ』だ。


 まずは主役となるカレーのベースを作る。

 厚手の鍋に多めの油を熱し、クミンシードとシナモンスティック、カルダモンを入れてテンパリングする。スパイスの香りが油に移ったところで、みじん切りにした大量の玉ねぎを投入。きつね色になるまで根気よく炒める。

 そこにすりおろしたニンニクと生姜を加え、トマトの角切りを入れて水分を飛ばすように炒め合わせる。


「さて、パウダースパイスだ」


 コリアンダー、ターメリック、チリパウダー、そしてガラムマサラ。

 絶妙な配合で鍋に投入すると、むせ返るような強烈なスパイスの香りがキッチンに充満した。


『ミャオォ?』


 足元でクロが、未知の匂いに鼻をヒクヒクさせて首を傾げている。


「お前には刺激が強すぎる。カリカリを食ってろ」


 スパイスのペーストが完成した鍋に、一口大に切ったマトンを放り込む。

 羊肉特有の野性味のある脂が、スパイスと絡み合って極上の旨味を生み出すのだ。表面に焼き色がついたら、水を加え、柔らかくなるまでじっくりと煮込む。最後にホクホクのひよこ豆を加えれば、濃厚なマトンカレーの完成だ。


 だが、バニーチャウの真髄はここからだ。

 俺は近所のベーカリーで買ってきた、焼き立ての「食パン半斤」を取り出した。

 ナイフを入れ、底と側面を残すようにして、パンの中身を四角くくり抜く。パンそのものを「器」にするのだ。


 くり抜いたパンの空洞に、煮え滾る熱々のマトンカレーを、これでもかとなみなみと注ぎ込む。パンの縁からカレーが少しこぼれ落ちるくらいがちょうどいい。

 これで、バニーチャウの完成だ。


 しかし、これだけでは終わらない。

 強烈にスパイシーなカレーに合わせる、最強のペアリング・ドリンクを用意する。


 インドネシアの定番冷涼飲料――『エス・クラパ・ムダ』だ。

 冬の夜に冷たいドリンクと思われるかもしれないが、暖房の効いた部屋で熱々のカレーを食べる時には、これが劇的に合う。


 俺は輸入食材店で手に入れた若いココナッツの実を割り、中の透明なココナッツウォーターをグラスに注ぐ。

 そして、内側にへばりついているゼリー状の柔らかい果肉をスプーンで細長く削り出し、グラスにたっぷりと加えた。

 そこに、パームシュガーで作った濃厚なシロップを少したらりとかけ、クラッシュアイスを山盛りにする。

 仕上げに、フレッシュなライムをギュッと絞れば完成だ。


「完璧だ」


 俺はダイニングテーブルに、熱気を放つバニーチャウと、涼しげなエス・クラパ・ムダを並べた。


 まずは、バニーチャウだ。

 スプーンなどは使わない。くり抜いて避けておいた「白いパンの塊」を指でちぎり、器の中に溢れんばかりに入っているマトンカレーにどっぷりと浸す。

 パンがスパイシーなルーをたっぷりと吸い込んだところを、大きな口を開けて放り込む。


「……美味い」


 マトンの力強い旨味と、クミンやコリアンダーの鮮烈な香りが爆発する。

 チリパウダーの鋭い辛味が舌を刺すが、それを食パンの甘みとモチモチとした食感が優しく包み込む。

 器となっているパンの壁も、内側からカレーの油分を吸ってヒタヒタになっており、どこを食べても旨味の塊だ。


 口の中が熱と辛味で燃え上がりそうになった瞬間、俺はエス・クラパ・ムダのグラスを手に取った。

 ストローで勢いよく吸い込む。


 冷え切ったココナッツウォーターの自然な甘みと、ライムのキリッとした酸味が、火照った口腔内を劇的にクールダウンさせる。

 ツルリとしたココナッツの果肉の食感が楽しく、パームシュガーの深いコクが、カレーのスパイスを見事に中和してくれた。

 熱い、辛い、冷たい、甘い。

 この無限ループが、食べる手を全く止めさせない。


『ミャッ!』


 自分のご飯を食べ終えたクロが、俺の膝によじ登り、「何を食べているんだ」とばかりにテーブルの上を覗き込んでくる。


「お前にはまだ早い。大人の味だ」


 俺はクロの頭を撫でながら、バニーチャウの「器の底」である、カレーを限界まで吸い込んだ一番美味しい部分に齧り付いた。


 エリート陰陽師からの嘲笑も、会社の淀んだ空気も、今はどうでもよかった。

 時給1200円の派遣社員であっても、定時に帰り、この至福の時間をクロと共に過ごせるなら、俺の人生は十分に豊かなのだから。


 窓の外では、木枯らしが吹き荒れていた。

 だが、この部屋の中だけは、スパイスの熱気と南国の風に満たされていた。


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