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第20話 ブラックフライデーの特売戦争

 十一月下旬。

 秋が深まり、朝夕の冷え込みがマフラーと手袋を要求する季節になってきた。

 だが、澄み切った秋晴れの日の午前中は、柔らかな太陽の光が部屋の奥まで差し込み、極上のぬくもりを提供してくれる。


 月曜日の朝。

 俺は、出勤前のスーツ姿のまま、アパートのリビングの窓際で立ち止まっていた。

 視線の先には、窓から差し込む四角い陽だまりのド真ん中で、見事なまでに溶け切っている黒い毛玉――愛猫の「クロ」がいる。


 生後一年を過ぎ、骨格もしっかりしてきた若猫のクロだが、日向ぼっこの時はまるで骨抜きになったかのようにリラックスしきっていた。

 フローリングの上に横たわり、前足をだらんと伸ばし、ぽかぽかに温まった黒曜石のような毛皮を太陽に晒している。

 時折、暖かさに誘われてまぶたが重くなるのか、金色の瞳が細くなり、コックリ、コックリと小さな頭を揺らして舟をこいでいた。


『……ミャァ……』


 寝言のように小さな声を漏らしながら、再び頭が床にコトンと落ちる。そしてハッと目を覚ましては、またウトウトし始める。

 その無防備で平和な姿は、俺の荒んだ精神に劇的な鎮静効果をもたらしていた。


(……このままクロを膝に乗せて、俺も陽だまりの中で光合成をしたい)


 強烈な有給休暇取得の誘惑が脳裏をよぎる。

 だが、俺にはクロの高級キャットフードと、これからの季節に備えた床暖房の電気代を稼ぐという重大な使命がある。

 俺は断腸の思いで、ウトウトしているクロの頭を一度だけ優しく撫でた。

 太陽の熱をたっぷり吸い込んだ毛皮は、驚くほどふかふかで温かかった。


「留守番、頼むぞ」

『……ニャゥ』


 眠たげなクロの返事を聞き届け、俺は気合いを入れてアパートのドアを開けた。

 これから向かうのは、平和な陽だまりとは対極にある、欲望と狂気が渦巻くコンクリートの魔窟だ。


 午前9時30分。

 丸の内商事・8階の総務部フロアは、朝から異様な熱気と喧騒に包まれていた。

 暖房が効きすぎているせいではない。社員たちの目つきが、明らかに普段の月曜日とは違っていたのだ。


「おい、あの最新型オフィスチェア、今の時間だけ半額だぞ! 営業部の予算で5脚買えないか!?」

「こっちのECサイト、タイムセールで空気清浄機が70%オフです! 会議室全部に置きましょう!」

「予備のモニターも買っておくべきよ! ほら、早くカートに入れて!」


 フロアのあちこちで、血走った目をした社員たちがPCの画面を食い入るように見つめ、声を荒らげている。

 11月の第4木曜日の翌日を中心に行われる、大規模な安売りイベント――『ブラックフライデー』だ。

 最近では法人向けのBtoB通販サイトでも大々的なセールが行われるようになり、各部署の人間が「経費で落ちるなら今のうちに買わなきゃ損だ」という強迫観念に取り憑かれているのだ。


「ち、ちょっと待ってください! そんなに一気に稟議書を出されても、今月の備品購入予算が……!」


 俺の隣のデスクで、総務部の白百合こと竹内塔子が、うず高く積まれたクリアファイルの山を前に悲鳴を上げていた。

 次々と提出される『備品購入稟議書』の束。そのどれもが「特売だから急ぎで承認してくれ」という無茶苦茶な要求ばかりだ。


「中川さん! どうしましょう、これ全部通したら、総務部の年間予算が吹き飛びますぅ……!」


 塔子が涙目で俺に助けを求めてくる。


「落ち着いてください、竹内さん。不要不急の備品はすべて差し戻せばいいだけです」

「でも、営業部の大塚課長なんか『仕事の効率化への投資だ!』って怒鳴り込んでくるんですよ……。なんか今日のみんな、目が血走ってて怖くて……」


 俺はため息をつき、立ち上がってフロア全体を見渡した。

 そして、目を細めて霊力を視覚に集中させる。


 ――やはりな。ただのお祭り騒ぎじゃない。


 俺の視界が灰色に切り替わると、異様な光景が浮かび上がった。

 パソコンの画面に齧り付いている社員たちの背中や肩に、ガリガリに痩せこけた小鬼のような化け物が、何十体も群がっているのだ。

 手足は枯れ枝のように細いが、腹だけが異常にぽっこりと膨れ上がっている。そいつらは社員の耳元に張り付き、よだれを垂らしながら呪詛を囁き続けていた。


『ホシイ……アレモ、コレモ、ホシイ……』

『カエ……ヤスイウチニ、カエ……!』

『タラン……マダ、タラン……!!』


 ――『餓鬼』だ。


 仏教における六道の一つ「餓鬼道」に堕ちた亡者。それが現代のオフィスにおいて、過剰な「物欲」と「安さへの執着」という負の感情を苗床にして群生型の低級霊として顕現したのだ。

 こいつらに取り憑かれた人間は、理性的な判断力を失い、際限なく物を買い漁ろうとする「買い物依存」のトランス状態に陥ってしまう。


「ちわーっす!! 中川さん、塔子さん!! 今すぐ稟議通してください!!」


 バンッ! と音を立てて総務部のドアが開き、郵便室の松田透子が猛烈な勢いで駆け込んできた。

 今日は高校の土曜授業の振替休日だからと、朝からシフトに入っていた彼女の目も、見事に血走っている。

 そして何より、彼女の背中には一際大きな「餓鬼」が、まるでランドセルのようにガッチリとしがみついていた。


「松田、お前まで……。郵便室のバイトが何の稟議だ」

「カニです!! ネット通販の法人ギフト枠で、特大タラバガニの脚5キロセットが今だけなんと80%オフなんですよ!! 会社の歳暮用ってことにして買っちゃいましょうよ!!」

「却下だ。自分の小遣いで買え」

「ケチ!! 中川さんのわからずや!! このチャンスを逃したら一生後悔しますよ!! 買え!! 買うんだ!!」


 透子が俺のデスクをバンバンと叩いて暴れ出した。

 彼女の放つ強烈な霊媒体質が、フロア中の餓鬼たちを活性化させてしまっている。

 このままでは、フロア全体の狂乱が頂点に達し、総務部の決裁システムがパンクして機能不全に陥ってしまう。

 システムが止まれば、どうなるか。当然、俺たちの残業が確定する。


(……この程度の小鬼に、俺の貴重なアフター5を奪われてたまるか)


 俺は引き出しを乱暴に開け、備品管理課の最強の武器を取り出した。

 一つは、俺が霊力を込めて作り上げた『赤い付箋』の束。

 もう一つは、総務部で書類の決裁時に使用する、巨大な『却下』の文字が彫られた赤いゴム印だ。


「竹内さん、離れていてください。これより、備品管理の厳正なる『経費削減』を執行します」

「えっ? 中川さん、そのスタンプ……」


 俺は赤い付箋を一枚剥がし、机の上に置かれた稟議書の束――餓鬼たちの物欲のエネルギーが最も集中している中心点に、ピタリと貼り付けた。

 赤は陰陽五行における『火行』。


「五行相剋――火剋金」


 俺は低く詠唱する。

 火は金を溶かす。すなわち、過剰な金銭欲や物欲は、厳しい審査と理性の炎によって焼き尽くさねばならない。


 俺は右手に握った『却下』のスタンプに、ありったけの清浄な霊力を流し込んだ。

 スタンプの印面が、高熱を帯びた鉄鏝のように真っ赤に発光し始める。


「そんな不要不急のガラクタで、俺の定時を邪魔するな」


 俺は腕を高く振り上げ、赤い付箋のど真ん中めがけて、全力でスタンプを叩きつけた。


「結界展開。――『経費削減・厳正審査の陣』!!」


 ガァァァンッ!!!


 フロアに、銅鑼を打ったような凄まじい衝撃音が響き渡った。

 スタンプが押された瞬間、赤い付箋を中心にして、灼熱の「火の霊気」が同心円状の波動となってオフィス全体に爆発的に広がった。


『ギャアアアアアアアッ!?』

『ヤカレル……! ワシラノ、ブツヨクガ……!』


 波動を浴びた餓鬼たちが、一斉に悲鳴を上げた。

 俺の放った『却下の炎』は、物理的な書類や機材には一切のダメージを与えず、社員たちに取り憑いた「異常な物欲の念」だけをピンポイントで焼き尽くしていく。

 社員の背中にへばりついていた小鬼たちは、チリチリと音を立てて燃え上がり、一瞬のうちに黒い灰となって空間に溶けて消え去った。


「ぐわっ……!?」

「あ、あれ……?」


 波動が通り過ぎると同時、PCの画面に齧り付いていた社員たちが、まるで魔法が解けたように次々と動きを止めた。


「俺、なんでこんな大量の空気清浄機なんて買おうとしてたんだ? 置き場所ないだろ……」

「やばっ、勢いで高級チェアをカートに入れちゃってた……。危ねぇ、稟議取り下げよ」


 憑き物が落ちた社員たちの目から、血走った狂気が消え去っている。

 正常な判断力と、「まあ、安くても今は必要ないか」という理性が戻ってきたのだ。


「あー……。私、なんで会社の経費でカニ買おうとしてたんだろ。中川さん、今の忘れてください。恥ずかしい……」


 透子も頭を抱え、逃げるように郵便室へと戻っていった。


「……ふぅ。終わりましたよ、竹内さん」


 俺はスタンプをデスクに置き、額の汗を拭った。

 フロアの空気はすっかり落ち着きを取り戻し、いつもの退屈だが平和なオフィスの日常が戻ってきている。


「す、すごいです中川さん! あのハンコを一回押しただけで、みんな次々と稟議の取り下げメールを送ってきてます!」


 塔子が自分のPCモニターを見ながら、歓喜の声を上げた。


「たった数秒で、総務の予算の危機を救ってくれるなんて……。中川さん、やっぱり魔法使いですか!?」


「ただの備品管理です。冷静に考えれば不要なものばかりでしたから、みんな自制心が働いただけですよ」


 俺は平然と嘘をつき、稟議書に貼り付けた、役目を終えて真っ黒に焦げた付箋をこっそりと剥がしてゴミ箱に捨てた。


「でも、本当に助かりました! ありがとうございます!」


 塔子は深々と頭を下げる。彼女の周囲にはもう、一切の重苦しい空気はない。


「お礼なら結構です。その代わり、今日の午後は大人しく伝票の整理に集中させてください」


 俺は再びPCに向かい、キーボードに手を置いた。

 ブラックフライデーという資本主義の魔物が作り出したパンデミックは、俺の『経費削減』の力によって無事に鎮圧された。

 これで今日も、定時で帰ることができる。


 午後6時。

 すっかり日が落ち、冷たい風が吹く街を抜け、俺はアパートへと帰還した。


 玄関のドアを開けると、『ミャン!』という元気な声と同時に、クロが足元に駆け寄ってきた。

 朝のウトウトしていた姿とは打って変わり、尻尾をピンと立てて夕飯を催促している。


「ただいま、クロ。今日もいい子にしてたか?」


 俺がしゃがみ込んで頭を撫でると、クロは目を細めて気持ちよさそうに喉を鳴らした。

 その温かい体温が、俺の手のひらから全身へと伝わっていく。

 世の中の人間がどれだけ特売品に群がり、物欲にまみれようとも、俺にはそんなものは必要ない。

 暖かい部屋と、自分で作る美味い夕食、そしてこの小さな黒い家族がいれば、それ以上の「欲」など湧いてこないのだから。


「さて、今日の晩飯は、特売で買っておいた鶏肉のクリーム煮だ。お前にはちゅーるを一本つけてやる」


 クロが歓喜の鳴き声を上げる。

 時給1200円の派遣陰陽師の平和な夜が、今日も静かに始まろうとしていた。


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