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第26話 産業医のカルテ

 十二月下旬。

 今年も残りわずかとなり、丸の内商事のオフィスは年末特有の慌ただしさに包まれていた。


 月曜日の朝。

 俺は、出勤前のスーツ姿のまま、アパートの窓際で立ち止まっていた。

 キャットタワーの中段に設置されたお椀型のハンモックから、黒い毛玉の一部がだらんと床の方へはみ出している。愛猫のクロだ。

 今朝もクロは、ハンモックから後ろ足をこぼれさせながら、深い眠りの底に沈んでいた。

 俺がそっとその足を指でつつくと、クロは目を閉じたまま『ミャン……』と短く鳴き、再び静かな寝息を立て始めた。


「……平和だな」


 その無防備な姿に少しだけ口角を緩め、俺は凍てつくような冬の街へと出勤した。


★★★★★★★★★★★


 午前10時。丸の内商事・8階の総務部フロア。

 俺は自席で、各部署から提出される年末の備品請求書の束を捌いていた。

 隣のデスクでは、上司の竹内塔子が、いつにも増して猛烈な勢いでキーボードを叩いている。


「中川さん! その伝票の入力、私がやりますから! 中川さんは座って休んでいてください!」

「……竹内さん。俺は今、座って伝票を入力している最中なんですが。これ以上休んだら、ただの社内ニートになってしまいます」


 俺が呆れて返すと、塔子は「あっ、そうでした!」と頬を赤くした。

 先週の屋上での出来事――俺が陰陽師であることを彼女が知り、「私が中川さんを守る」と宣言して以来、塔子は妙に張り切って俺の業務をカバーしようとしてくる。

 その心意気はありがたいが、少し空回り気味だ。


「竹内さん、無理をして倒れられては困ります。……少し息抜きも兼ねて、ヘルスケアセンターに救急箱の補充に行ってきます」

「あっ、はい! いってらっしゃいませ!」


 塔子に見送られ、俺は救急箱用のガーゼと消毒液の束を持って、フロアの奥にある保健室へと向かった。

 すりガラスの扉をノックして中に入ると、そこはいつものように清潔なアルコールの匂いと、静寂に包まれていた。


「……どうぞ」


 部屋の奥のデスクで、白衣姿の産業医・中山杏子が、電子カルテのモニターから目を上げた。

 彫りの深いエキゾチックな顔立ちと、気だるげな漆黒の瞳。

 俺は「備品の補充です」と短く告げ、戸棚の救急セットを開けた。


「中川さん。少し、座りなさいな」


 背後から、杏子の落ち着いた声がした。

 振り返ると、彼女はコーヒーメーカーから熱いブラックコーヒーを二つの紙コップに注ぎ、手招きしている。

 俺は補充を終え、大人しく彼女のデスクの前の丸椅子に腰を下ろした。


「……結城明っていう、福徳商事の男。知ってるわよね?」


 コーヒーを一口飲んだ杏子が、不意にその名前を口にした。


 ピクリ、と俺の眉が動く。

 結城は、かつて俺が所属していた「陰陽庁」の後輩であり、今はライバル企業でエリート陰陽師としてふんぞり返っている男だ。


「知っていますが。……そいつが何か?」

「先週末、その結城って男から、うちの人事部宛てに妙な怪文書メールが届いたのよ。差出人は匿名だったけど、サーバー室の石田さんが送信元のIPを即座に特定したわ」


 杏子は自分のカルテ用端末を操作し、ひとつの画面を俺に向けた。

 そこには、削除されたメールの復元データが表示されている。


『総務部の中川武という派遣社員の過去について。彼は過去に所属していた組織で、同僚を過労とトラブルで再起不能に追いやった危険人物である――』


 俺は無言で、そのテキストを見つめた。

 結城のやつ。先日の地下での一件で俺にプライドをへし折られた腹いせに、あんなくだらない手段で俺をこの会社から追い出そうとしたのか。


「……石田さんが、人事の目に触れる前にこのメールをサーバー上で完全に『削除』したわ。だから、会社でのあなたの立場は何も変わらない」


 杏子はそう言って、画面を消した。


「ご配慮、ありがとうございます。……石田さんにも、後でカフェイン飲料を奢っておきます」


 俺が立ち上がろうとすると、杏子は「待ちなさい」と鋭い声で制した。


「産業医として、そして一人の大人として、少しだけあなたの『カルテ』を分析させてもらうわ」


 杏子は長い脚を組み替え、俺の瞳を真っ直ぐに射抜いた。


「あのメールの内容、あながち嘘じゃないんでしょう? ……あなたが、この会社で『時給1200円の派遣社員』という立場に異常なまでに固執し、定時退社というルールで自分をガチガチに縛り付けている理由」


 部屋の空気清浄機が、微かなモーター音を立てている。

 俺は紙コップのコーヒーを見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。


「……同期の、熱い男でしたよ」


 ぽつりと、自分の口から言葉がこぼれ落ちた。

 過去の深いトラウマに触れたことで、この時ばかりは、俺の口から「私」というオフィシャルな建前が消え失せていた。


「俺が国の、とある特殊な環境衛生を管理する機関で、現場の処理班として働いていた頃の話です。……そいつは正義感が強くて、誰かが劣悪な環境で困っていると聞けば、残業も徹夜も厭わず、自分の身を削って現場の清掃に向かっていた」

「あなたは?」

「俺は、そいつとは正反対でした。効率と結果だけを求め、面倒な案件はうまく後輩に回していた」


 俺の脳裏に、かつての記憶が蘇る。

 オカルトを真っ向から否定する彼女に合わせて、言葉を選びながら俺は続けた。


「ある日、そいつが一人で極めて劣悪な現場の処理に向かった。連日の過労で、あいつの精神的な免疫力は底をついていたんです。……俺が異変に気付いて駆けつけた時には、もう手遅れだった」


 俺は目頭を指で押さえた。


「蓄積された極限のストレスと、現場の『狂気』に精神を深く蝕まれ、あいつは……二度と、社会復帰できない体になってしまった」


 冷たい沈黙が落ちた。

 杏子は何も言わず、ただ静かに俺の言葉を聞いている。


「……もし俺が、もっと上手く立ち回って、あいつの業務を分散させていれば。いや、そもそも……『誰かのために自己犠牲を払う』ことを美徳とするような、そんな狂ったシステム自体が間違っていたんです」


 俺は紙コップを握り潰しそうになる力を、必死に抑え込んだ。


「だから俺は組織を辞めました。そして決めたんです。これ以上、誰かの命や人生の責任を負うような働き方はしないと。……時給の範囲内で、自分の日常と生活だけを守る。それが、俺の今の『矜持』です」


 言い終えて、俺は顔を上げた。

 杏子の漆黒の瞳は、一切の同情も、憐れみも浮かべていなかった。ただ、一人の人間を深く観察する、冷徹で、そして温かい医者の目をしていた。


「……防衛機制ね」


 杏子は静かに言った。


「過去のトラウマから自分を守るために、『定時退社』『派遣社員』という強固なルールを作って、心に結界を張っている。……あなたは自分自身を、罰し続けているのね」

「……」

「でもね、中川さん」


 杏子は立ち上がり、白衣を翻して俺の目の前に立った。


「あなたは先週、松田さんを助けるために地下まで行ったわ。竹内さんのためにも、何度も残業している。……もう、その自己処罰のルールは、少しずつ溶け始めているんじゃないかしら?」

「……ただの、気まぐれです。それに、残業代はきっちり請求していますから」


 俺が視線を逸らして強がると、杏子はフッと妖艶に笑った。


「そういうことにしておいてあげる。……まあ、あなたがどんな過去を抱えていようと、あなたがこのオフィスの空気を綺麗にしてくれているのは事実よ。これからも、せいぜい私の患者を減らすために働きなさい」

「……善処します」


 俺は残りのコーヒーを一気に飲み干し、立ち上がった。

 心の奥底に沈殿していた泥のようなものが、彼女の言葉によって少しだけ濾過されたような気がした。


「何かあったら、いつでもここに来なさい。……心のカルテくらい、無料で書いてあげるから」

「お気遣い、感謝します。中山先生」


 俺は一礼し、保健室を後にした。


★★★★★★★★★★★


 午後6時。

 定時退社をキメた俺は、スーパーでいくつかの食材を買い込み、アパートへと帰還した。


「ただいま、クロ」


 玄関で出迎えてくれたクロを抱き上げ、その温かい毛並みに顔を埋める。

 今日、過去の記憶を掘り起こしたせいか、いつもより強くこの温もりが沁みた。


 俺はエプロンを締め、キッチンに立った。

 無性に、手を動かす作業がしたかった。何も考えず、ただ食材と向き合う時間が欲しかったのだ。


 今夜作るのは、スーパーで特売になっていた完熟の真っ赤なトマトを大量に使った――『自家製ケチャップ』だ。

 市販のケチャップも便利だが、スパイスから煮込んで作る手作りのケチャップは、全く別次元の極上のソースとなる。


 まずは下準備だ。

 大量のトマトのヘタをくり抜き、熱湯にさっとくぐらせてから氷水に取り、つるりと皮を剥く。それを包丁でざく切りにしていく。

 厚手の鍋にオリーブオイルを熱し、みじん切りにした玉ねぎとニンニクを、焦がさないようにじっくりと弱火で炒める。玉ねぎが透き通り、甘い香りが立ってきたところで、ざく切りにしたトマトを一気に投入した。


 ジュワァァァッ!

 心地よい音が響き、トマトの酸味を含んだ蒸気がキッチンに広がる。


 ここからが、自家製ケチャップの真骨頂である「スパイスの調合」だ。

 俺は小さなボウルに、シナモンパウダー、クローブ、オールスパイス、そしてピリッとした刺激を加えるためのブラックペッパーと、微量のチリパウダーをブレンドする。

 香りの奥行きを出すために、ローリエも一枚、鍋に放り込んだ。


 ブレンドしたスパイス、そしてきび砂糖、塩、白ワインビネガーを鍋に加え、全体をかき混ぜる。

 最初はシャバシャバだった鍋の中身が、弱火でコトコトと煮詰めていくうちに、次第にとろみを帯び、鮮やかな深紅のペーストへと変わっていく。

 木べらで鍋底に線を引いた時、スッと道ができるくらいまで水分が飛べば完成の合図だ。


「……よし」


 火を止め、粗熱を取った後、俺はそれを目の細かいザルで丁寧に裏ごしした。

 種や玉ねぎの繊維が取り除かれ、滑らかで艶やかな、極上の『自家製スパイスケチャップ』が完成した。

 市販品とは比べ物にならない、トマトの凝縮された旨味と、複雑でエキゾチックなスパイスの香りが立ち上る。


 このケチャップを最大限に味わうための「相棒」を準備する。

 俺は別のフライパンで、買ってきた厚切りベーコンのブロックを、表面がカリカリになるまでじっくりと焼き上げた。溢れ出た豚の脂の香ばしい匂いがたまらない。


 そして、この強烈な旨味とスパイスの応酬を迎え撃つための、最高の一杯を用意する。

 棚から取り出したのは、スコットランドのアイラ島で作られるシングルモルト・スコッチウイスキー――『ボウモア12年』だ。

 重厚なロックグラスに大きな丸氷を入れ、琥珀色の液体をトクトクと注ぎ込む。


「いただきます」


 ダイニングテーブルに座り、まずは厚切りベーコンに、自家製ケチャップをたっぷりと乗せて口に運んだ。


「……美味い」


 カリッと焼けたベーコンの強烈な塩気と脂身の甘みを、自家製ケチャップの濃厚なトマトの旨味ががっちりと受け止める。

 白ワインビネガーの爽やかな酸味が脂のしつこさを切り裂き、後からクローブやシナモンの複雑なスパイスの香りが、鼻腔を鮮やかに吹き抜けていく。

 まさに、大人のための極上ソースだ。


 口の中にその強烈な余韻が残っているうちに、俺はボウモアのロックグラスを傾けた。


 アイラモルト特有の、海風を感じさせるスモーキーなピート香と、微かな潮の風味。

 それが、ケチャップのスパイス感と口の中で激しく衝突し、やがて信じられないほど深いコクとなって溶け合っていく。

 ベーコンの燻製香、ケチャップのスパイス、そしてスコッチのスモーキーさ。三つの異なる香りが完璧なマリアージュを果たし、至福の味わいへと昇華された。


『ミャッ』


 俺の足元で、クロが「自分も混ぜろ」とばかりに前足を俺の膝にかけてきた。


「お前には刺激が強すぎる。……でも、少しだけカリカリにおやつをトッピングしてやるか」


 俺は立ち上がり、クロの皿にフリーズドライのささみを振りかけてやった。


 席に戻り、再びスコッチを一口飲む。

 冷たいアルコールが喉を焼け付くように通り過ぎていく。


『あなたは自分自身を、罰し続けているのね』


 杏子の言葉が、ウイスキーの氷の音と共に脳裏に蘇る。

 俺は、過去の傷を完全に乗り越えられたわけではない。

 だが、今の俺には、守るべき「小さな日常」と、うるさくて手のかかる、だが憎めない職場の連中がいる。

 時給1200円の契約が続く限り、俺は俺のやり方で、この平穏を守り抜くだけだ。


 俺はグラスの氷をカランと鳴らし、深く静かな冬の夜に身を預けた。


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