第18話 人事異動の悲喜こもごも
十月。
都心の街路樹がわずかに色づき始め、吹き抜ける風に秋の涼しさが混じるようになった週末の夜。
俺は、銀座にある隠れ家的な高級ビストロのテーブル席で、極上の赤ワインが入ったグラスを傾けていた。
「どう? このお店の鴨肉のロースト、絶品でしょ?」
テーブルを挟んで向かい側に座っているのは、丸の内商事・広報部のエース、小野みゆきだ。
今日の彼女は、オフィスのパンツスーツ姿とは打って変わり、デコルテが美しく開いたボルドー色のカクテルドレスを身に纏っていた。薄暗い間接照明の下でも、彼女が放つ華やかな「陽の気」と、大人の女の艶やかなオーラは隠しきれていない。
周囲の客――おそらくIT長者か外資系のエリートたち――が、先ほどからチラチラとこちらのテーブルに視線を送ってきている。
「ええ。時給1200円の舌には、贅沢すぎる味ですね。ソースのバルサミコ酢の酸味が絶妙です」
「ふふっ、良かった。……言ったでしょ? 先日の『臨時株主総会』の大成功で、特別ボーナスが出たから奢ってあげるって」
みゆきは悪戯っぽく微笑み、グラスを俺のグラスに軽く当てた。チン、と澄んだ音が響く。
先日のあの大荒れの総会を、彼女は持ち前の「笑顔のプレゼン」で乗り切った。そして俺が裏で強欲の怨霊を「黄金の雨」に変えて浄化したことで、株主たちの怒りは消え、見事に株価はV字回復を果たしたのだ。
「私は何もしていませんよ。すべては小野さんのプレゼン能力の賜物です」
「またそうやってはぐらかす。……あの日、社長たちが急に黙り込んだのも、空気が一瞬で軽くなったのも、絶対貴方が裏で『何か』したからでしょ?」
みゆきは身を乗り出し、猫のように大きな瞳で俺をじっと見つめる。
彼女の香水の甘い香りが、ワインの香りに混じって鼻腔をくすぐった。
「ただの派遣社員に、そんな魔法みたいなことはできませんよ」
「嘘つき。……まあいいわ。私の『広報力』で貴方の秘密を守ってあげてるんだから、せいぜいこき使わせてもらうわよ。次はどのイベントの荷物持ちにしようかしら」
彼女はクスクスと笑い、鴨肉を優雅に口に運んだ。
俺と彼女の間には、奇妙な「共犯関係」が成立している。
こうして美しい女性から高級ディナーを奢ってもらえるのだから、まあ、たまの休日を削るくらいは我慢しよう。家に帰れば、世界で一番可愛い同居人が待っているのだし。
「そういえば中川さん、来週の月曜日、会社はちょっと荒れるかもしれないわよ」
「……何かあるんですか?」
「十月一日。秋の『人事異動』の辞令交付日よ。……結構、大ナタが振るわれるみたい。中には、ショックで寝込むおじ様も出るんじゃないかしら」
みゆきは意味深な笑みを浮かべた。
その時の俺は、彼女の言葉が物理的な「荒れ」を意味することになるなど、深く考えてはいなかった。
週明けの月曜日。午前8時40分。
丸の内商事の本社ビル1階エントランスは、いつも以上に重苦しい空気に包まれていた。
出勤してくる社員たちの顔は一様に硬く、ヒソヒソと交わされる囁き声がロビーに充満している。
「聞いたか? 営業部の大前部長、関連会社へ出向だってよ」
「えっ、あの『鬼の大前』が左遷!? まさか……」
「今期の実績不振の責任を、一人で被らされたって噂だぜ……」
大前部長。
俺も名前だけは知っている。昔気質の猛烈な営業マンで、良くも悪くもこの会社を支えてきた屋台骨の一人だ。それが、閑職へ追いやられたらしい。
サラリーマンの悲哀が、オフィス街の秋風に乗って漂っている。
俺は社員証をゲートにタッチしようとして――足を止めた。
霊力を目に集中させる。
エントランスの中央。
受付カウンターの少し手前の空間に、ドス黒く淀んだ「巨大な影」がうずくまっていた。
スーツ姿の、頭部がぼやけた男の生霊だ。
カテゴリーC。
その体からは、どろりとした濃い紫色の瘴気が絶え間なく溢れ出している。
『……なぜだ……』
『……俺が、俺がこの会社を、ここまで大きくしたのに……!』
『……裏切り者め……!』
――『左遷された者の怨念』だ。
会社への強烈な未練と、経営陣への怒り、そして自分自身の人生を否定された絶望。
それらが混ざり合った、非常に厄介で、そして悲しい怪異だ。
怨念が放つ重圧のせいで、エントランスを通過する社員たちは無意識に肩をすくめ、息苦しそうに咳き込んでいる。
自動ドアのセンサーが誤作動を繰り返し、開いたり閉まったりをガタガタと続けていた。
(……面倒なことになったな)
生霊は、安易に攻撃して祓うことができない。
本体と霊線で繋がっているため、俺が強力な炎などで焼き払えば、本体の精神や肉体に深刻なダメージを与えてしまう可能性がある。
最悪の場合、ショック死を引き起こしかねない。
俺はポケットの中で黄色い付箋を指でなぞったが、使うのをためらった。
力で抑え込んでも、この『納得できない』という未練をどうにかしない限り、彼は毎日ここに這い出てくるだろう。
「……Oh, これはとってもSad(悲しい)なオーラですね」
不意に、静かな声が響いた。
受付カウンターの中に立つ、プラチナブロンドの美女――ソフィア・イェゲルだ。
彼女は普段の底抜けに明るい笑顔を消し、慈愛に満ちたアイスブルーの瞳で、空間にうずくまる「影」を見つめていた。
霊感のない彼女には、生霊の姿そのものは見えていないはずだ。だが、その森の民特有の感受性が、この場に漂う「激しい悲哀」を正確に感じ取っている。
「ソフィアさん、近づかない方がいいですよ。風邪を引きます」
俺が注意しようと近づいた、その時だった。
ソフィアは目を閉じ、胸の前で両手をそっと組んだ。
そして、深呼吸を一つして、静かに口を開いた。
「――♪ ~~~~」
エントランスホールに、透き通るような美しい歌声が響き渡った。
それは、日本語ではない。英語でもない。
どこか物悲しく、それでいて魂を揺さぶるような、神秘的な旋律。
ラトビアの伝統的な民謡、『Daina』だ。
出勤を急いでいた社員たちが、何事かと足を止め、受付カウンターの方へ視線を向ける。
だが、誰一人として文句を言ったり、止めようとしたりする者はいなかった。
ただ、その清らかな歌声に魅了され、立ち尽くしている。
(……すごいな。ただの歌じゃない。言霊の波だ)
俺は驚愕して目を見張った。
ソフィアの歌声には、ラトビアの自然精霊の加護がたっぷりと乗せられている。
それは「浄化」というより「慰撫」の力だった。
荒れ狂う波を静めるような、優しく温かいオーラが、ロビー全体を包み込んでいく。
『……あ……あぁ……』
うずくまっていた元部長の生霊が、ゆっくりと顔を上げた。
彼から噴き出していた紫色の瘴気が、ソフィアの歌声に触れるたびに、淡い光の粒子となってポロポロと崩れ落ちていく。
『……俺は……ただ、会社のために……』
『……家族を食わせるために……』
『……走り続けてきたんだ……』
怒りや恨みが解け、底にあった「ただ、認めてほしかった」という純粋な悲しみが露わになる。
彼が必要としていたのは、物理的な反撃ではなく、自分の数十年の労働を「お疲れ様」と労ってもらうことだったのだ。
(……今なら、いける)
俺はポケットから、真っ白な付箋を取り出した。
そこへ、極細のボールペンでサラサラと文字を書き込む。
――『感謝状。大前部長、長年の多大なるご尽力に、心より感謝申し上げます。お疲れ様でした』。
それは、会社が彼に渡さなかった、本当の「辞令」だ。
俺は呪力を込め、その白い付箋を指で弾いた。
「結界展開。――鎮魂、そして完了の証」
付箋はソフィアの歌声の気流に乗り、ふわりと宙を舞って、元部長の生霊の胸元にピタリと張り付いた。
カッ……。
白い付箋が、温かく柔らかな光を放った。
その光は生霊全体を包み込み、ドス黒い影を、神々しい白銀のシルエットへと変えていく。
『……そうか。……もう、休んでいいのか……』
安堵の混じったため息のような声が響いた。
次の瞬間、生霊は完全に光の粒子へと分解され、高く、高く上昇して、天井へ吸い込まれるように消え去った。
彼自身の肉体へと、憑き物が落ちた状態で還っていったのだ。
同時に、ソフィアの歌が終わった。
静寂が訪れる。
そして――。
「……す、すごい……」
「なんだ今の歌……涙が出てきた……」
エントランスにいた数十人の社員たちから、割れんばかりの拍手が沸き起こった。
彼らには霊は見えていない。ただ、「受付の美しい外国人女性が、朝から素晴らしい歌を披露してくれた」としか思っていないのだ。
しかし、彼らの顔からは、先ほどまでの重苦しい「月曜日の憂鬱」が完全に消え去っていた。
「Thank you! ラトビアの秋の歌デス! 皆さん、今日も一日、頑張りマショウ!」
ソフィアは照れたように笑い、優雅にお辞儀をした。
俺は誰にも気づかれないように、胸の前で小さく拍手をした。
「……見事な鎮魂歌だったよ、ソフィアさん」
俺がカウンターに近づいて声をかけると、ソフィアは嬉しそうに目を輝かせた。
「Masterナカガワ! 見てくれマシタカ? さっきまでここにいた悲しいオーラ、私の歌でスッキリ消えましたヨ!」
「ええ。あなたのおかげで、彼も未練を断ち切れたはずです。……素晴らしい力だ」
「ふふっ、Masterに褒められるなんて光栄デース! ……あ、そういえば」
ソフィアは声を潜め、俺の顔を覗き込んだ。
「週末、広報のミユキさんと、お洒落なレストランでデートしてマシタよね? 私、銀座の帰りに偶然見かけちゃいマシタ!」
「……ぶっ」
俺は思わずむせた。
「違う、あれはデートじゃなくて、ただの業務上の情報交換というか、奢りで……」
「No, No! 隠さなくても大丈夫デス。ミユキさん、とってもセクシーでビューティフルですからネ。でも、私だって負けマセンヨ?」
ソフィアは悪戯っぽくウィンクをした。
日本の平和を守った代償は、社内の面倒な人間関係のベクトルを引き寄せることらしい。
「……時給が発生しない話はまた今度だ。俺は仕事に行く」
俺は逃げるようにゲートを通過し、エレベーターへと急いだ。
背後から、エントランスの吹き抜けの上の階から、みゆきがコーヒーカップ片手にこちらを見下ろし、ニヤリと笑っているのが見えた気がした。
午後5時30分。
波乱の週明けを無事に乗り切り、俺は定時のチャイムと共に会社を後にした。
秋の夕暮れは釣瓶落としだ。外に出ると、すでに空は暗くなり、肌寒い風が吹いている。
スーパーで秋刀魚の切り身を買い、アパートのドアを開ける。
『ミャーウ』
玄関の三和土で、黒猫のクロがお座りをして待っていた。
生後一歳を迎え、骨格もしっかりしてきたクロだが、最近は気温が下がってきたせいか、甘えん坊に拍車がかかっている。
「ただいま、クロ。寒くなってきたな」
俺が靴を脱ぎ、リビングでスーツのジャケットを脱いでソファに座ると、待ってましたとばかりにクロが膝によじ登ってきた。
そして、くるりと丸まり、俺の太ももの間にすっぽりと収まって「香箱座り」の体勢に入る。
ゴロゴロというモーター音が、俺の腹部に心地よい振動を伝えてきた。
「……まったく、お前は本当に膝の上が好きだな」
俺はクロの滑らかな背中を撫でながら、ふと、今朝の元部長の生霊を思い出した。
長年会社に尽くし、最後は左遷されて絶望した男。
サラリーマンという生き物の業は深い。出世や金、見栄に執着すればするほど、死後も、あるいは生きている間でさえ、己を縛り付ける呪いとなってしまう。
(……だからこそ、俺は時給1200円の派遣でいい)
責任も執着も持たず、定時になれば家に帰り、愛する猫の温もりを感じながら、自分で作った美味い飯を食う。
これ以上の幸せが、どこにあるというのか。
『ミャン?』
クロが不思議そうに見上げてきた。
「なんでもない。さあ、飯にするか。今日はお前にも、秋刀魚を少しだけお裾分けしてやろう」
俺が立ち上がろうとすると、クロは「まだ退かない」とばかりに爪を立てて抵抗した。
秋の夜長。
俺とクロの平穏な時間は、まだまだ続きそうだった。




