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第17話 嵐を呼ぶ株主総会

 九月。

 残暑が厳しく、まだ蝉の声が聞こえる週末の土曜日。

 俺、中川武は、近所の動物病院の待合室で、肩身の狭い思いをしていた。


「ンニャオォォォ! ミャァァァァ!」


 俺の膝の上に乗せたプラスチック製のキャリーバッグの中から、この世の終わりを告げるような悲痛な叫び声が響き渡っている。

 声の主は、我が家の愛猫「クロ」だ。

 今日は年に一度のワクチン接種と健康診断の日。家を出るまでは「ちゅ〜る」で誤魔化してスムーズにバッグに入ってくれたのだが、病院特有の消毒液の匂いを嗅ぎ取った瞬間、クロの態度は豹変した。

 バッグの中でぐるぐると回り、前足で網目をカリカリと引っ掻き、必死に抗議しているのだ。


「中川さーん、診察室へどうぞ」


 看護師さんに呼ばれ、俺はバッグを抱えて診察室に入った。


「こんにちは。クロちゃん、今日は元気いっぱいですね」


 白衣を着たベテランの獣医さんが優しく笑いかける。


「すみません、病院が苦手なようで」


 俺がキャリーバッグの扉を開けた瞬間だった。

 クロは弾丸のようなスピードで飛び出し、一直線に俺の胸元へと飛び込んできた。

 そして、俺が着ていた少し大きめのシャツの隙間に頭をぐいぐいと押し込み、全身を隠そうと必死にもがいているのだ。

 外に出ているお尻としっぽが、ブルブルと小刻みに震えている。


(……可愛いな、おい)


 普段は「ここは俺の家だ」とばかりにふんぞり返っている若猫が、今だけは完全なビビリの甘えん坊と化している。

 俺はシャツ越しに伝わってくるクロの温もりと震えを感じながら、少しだけ口角を緩めた。


「ふふっ、完全にパパっ子ですね。お父さんに守ってもらおうとしてる」


 獣医さんが笑いながら、クロのお尻をポンポンと叩く。


「ほらクロちゃん、ちょっとだけ頑張ろうね。すぐ終わるから」


 俺がなだめるようにクロの背中を撫で、そっと診察台の上に下ろすと、クロは「借りてきた猫」という言葉を体現するように、ペターッと台に伏せて動かなくなった。

 耳を伏せ、瞳孔をまん丸にして、ひたすら俺の手首に前足でしがみついている。


「はい、チックンしますよー」


 注射針が刺さった瞬間、クロの体が「ビクッ!」と跳ねたが、鳴き声を上げることもなく耐え抜いた。


「はい、よく頑張りました! えらいえらい!」


 ご褒美のペースト状のおやつを差し出されると、クロは先ほどまでの恐怖を忘れたかのように、ペロペロと夢中で舐め始めた。

 現金なやつだ。だが、そこがまた愛おしい。

 俺はこの小さな家族の健康が守られたことに安堵し、休日の一時を静かに味わった。


 週明けの月曜日。

 丸の内商事の本社ビルは、朝から異様な緊張感に包まれていた。

 今日は、会社にとって最も厄介な行事の一つ、「秋の臨時株主総会」の日である。


 会場となるのは、ビル内にある数百人を収容できる大ホールだ。

 俺は総務部の備品管理担当として、朝から大量のパイプ椅子並べと、マイクのセッティングに駆り出されていた。


「中川さん、マイクのテストお願いします! あと、檀上の水のペットボトル、ラベルを全部正面に向けておいてください!」


 上司である竹内塔子が、インカムをつけながら小走りで指示を出している。

 彼女の美しい顔には疲労の色が濃い。株主総会の準備は、総務部にとって戦場そのものだ。


「了解しました。……竹内さん、今日の総会、ずいぶんピリピリしてますね。ただの臨時総会でしょう?」

「それが……先週発表した今期の中間業績予想が、大幅な下方修正になったんです。株価も急落していて……今日の株主の皆さんは、相当怒り心頭だと思います」


 塔子は青ざめた顔で周囲を見渡した。


 なるほど。株主の怒り。

 それは、ただのクレームではない。


 「損をした」「金を返せ」という、人間の最も根源的な『強欲』と『執着』が渦巻く感情だ。


 嫌な予感がする。


「お疲れ様! 準備は順調?」


 そこへ、華やかなオーラを振り撒きながら、広報部の小野みゆきが現れた。

 今日の彼女は、いつものパンツスーツではなく、体にフィットした洗練された白いセットアップスーツを着こなしている。その圧倒的な「陽の気」は、殺伐としたホールを一瞬で明るくした。


「小野先輩! はい、設営はほぼ完了しました。……先輩、今日は司会進行ですよね。大丈夫ですか?」

「任せなさい。怒れるおじ様たちを黙らせるなんて、広報の腕の見せ所じゃない。私が極上の『笑顔のプレゼン』で、彼らの心を鷲掴みにしてあげるわ」


 みゆきは自信満々に髪をかき上げた。


 その直後、みゆきは俺の横をすれ違いざまに、小声で囁いた。


「……中川さん。今日の会場、なんか空気が淀んでない? 念のため、裏で『スタンバイ』しておいてよね。頼りにしてるわよ、共犯者さん」

「……時給の範囲内で対応します」


 俺はため息をつきながら、パイプ椅子の列を整えた。


 午後1時。

 臨時株主総会が幕を開けた。

 ホールには、スーツ姿の投資家から、怒りに満ちた個人株主まで、数百人の人間がひしめき合っている。

 檀上には社長をはじめとする役員たちが並び、その端でみゆきが司会マイクを握っていた。


 社長の口から業績報告と下方修正の理由が語られると、案の定、会場から怒号が飛び交い始めた。


「ふざけるな! 経営陣の責任はどうなってるんだ!」

「株価が半値に落ちたんだぞ! 俺の老後の資金をどうしてくれる!」


 怒号、罵声、舌打ち。

 俺は舞台の袖から、その様子を冷ややかに見つめていた。

 そして、霊力を目に集中させる。


 ――やはり、発生していた。


 株主たちの頭上から、ドス黒く濁った「金色の気」が立ち昇っている。

 それは怒りだけではない。「損をしたくない」「もっと儲けさせろ」という、生々しい『強欲の念』だ。

 数百人分の強欲の念は、ホールの高い天井付近で一つに集まり、不気味な形を成し始めていた。


 ブクブクと膨れ上がるそれは、無数の硬貨や札束が寄り集まったような、巨大な『ガマ蛙』の姿をしていた。

 カテゴリーB、強欲の集合生霊だ。


『カネ……カネヲカエセ……』

『モットダ……モットヨコセ……』


 巨大なガマ蛙が、檀上の役員たちを見下ろして低い鳴き声を上げる。

 その瘴気の影響で、ホール内の空調が異常な音を立て始め、照明がチカチカと点滅を繰り返す。

 役員たちの前に置かれたペットボトルの水が、ポルターガイスト現象によってガタガタと震え始めた。


「……ふざけるな! 社長、自分の口でちゃんと説明しろ!」


 さらなる怒号が飛ぶが、社長はマイクの前に立ったまま硬直していた。

 無理もない。頭上に鎮座するガマ蛙の放つ異常な重圧に当てられ、霊感のない役員たちは顔面を蒼白にして完全に言葉を失っているのだ。マイクを握る手も震え、ガタガタと音を立てている。


(……まずいな。このままでは物理的な被害が出る上に、総会が崩壊する)


 俺は懐から、数枚の黄色い付箋を取り出した。

 舞台の袖から、こっそりと付箋を床に這わせ、檀上の周囲に結界を張ろうと試みる。

 だが。


 バチッ!

 俺が放った付箋の式神は、巨大なガマ蛙の放つ「欲望の波動」に弾かれ、空中で燃え尽きてしまった。


(……力が足りないか。数百人の強欲の集合体となると、個人の陰陽術だけでは抑えきれない)


 金に対する人間の執着は、時にどんな呪いよりも強力だ。

 これを浄化するには、彼らの「欲望」そのものを別の方向へ誘導するしかない。


 その時だった。

 荒れ狂う会場の空気を切り裂くように、凛とした声がマイクを通して響き渡った。


「――株主の皆様。貴重なご意見、誠にありがとうございます!」


 司会台に立つ小野みゆきだ。

 彼女は、言葉を失った社長たちを庇うように、一歩前へ歩み出た。


「なんだ君は! 司会じゃなくてトップが説明しろ!」と怒号が飛ぶが、彼女の表情には微塵の恐怖も焦りもない。


 そこにあるのは、自信に満ち溢れた「極上の笑顔」だった。


「皆様の厳しいお叱り、経営陣一同、真摯に受け止めております。社長も申し訳なさのあまり、言葉に詰まっておられます! ……しかし! 私たちは下を向いてばかりはいられません!」


 みゆきが機転を利かせ、強引に場を繋いだ。

 彼女は背後の巨大スクリーンをバシッと指し示す。

 そこには、『丸の内商事・次世代AI活用 新規事業プロジェクト』という文字が踊っていた。


「ここからは、社長肝煎りのプロジェクトについて、担当の広報部よりご説明させていただきます! 本日は、皆様の不安を払拭し、未来の『大きな利益』をお約束する、全く新しいビジョンをご提案いたします!」


 みゆきのプレゼンが始まった。

 平社員が役員を差し置いて説明を始めるという異常事態だが、彼女の声は明るく、力強く、そして何より「希望」に満ちていた。

 彼女が語る新規事業の展望は、理路整然としながらも、聞く者の胸を躍らせる魔法のような響きを持っていた。


(……すごいな。あのガマ蛙が、動きを止めている)


 俺は天井を見上げた。

 みゆきの全身から放たれる圧倒的な「ポジティブ・オーラ(陽の気)」が、ホール全体を包み込んでいる。

 その光は、株主たちの「怒り」と「不安」を、少しずつ「期待」と「高揚感」へと塗り替えていく。


「……なるほど、そのAI事業が軌道に乗れば、海外市場も……?」

「もしそれが本当なら、今の株価は逆に買い時なんじゃないか……?」


 株主たちの間に、ざわめきが広がる。

 それは先ほどまでの怒号ではなく、計算高い彼ら特有の「欲望の方向転換」だった。


 「損をした」という過去への執着が、「これから儲かるかもしれない」という未来への期待へと昇華されたのだ。


『……オオォォ……?』


 天井の巨大なガマ蛙が、ドス黒い色から、眩い黄金色へと変色し始めている。

 淀んだ強欲の念が、ポジティブな「投資のエネルギー」へと変わった証拠だ。


(……今だ。ここで一気に昇華させる)


 俺はポケットから、白い付箋と、青い付箋を同時に取り出した。

 二枚を重ね合わせ、指先で呪力を練り込む。


「五行相生――金生水。滞った強欲を、流れる利益へと変えろ」


 俺は重ねた付箋を、舞台の袖から天井のガマ蛙めがけて弾き飛ばした。


「結界展開。――富貴繁栄、黄金の雨!」


 付箋はみゆきの放つ「陽の気」の気流に乗って上昇し、黄金のガマ蛙の眉間にピタリと張り付く。


 カッ!!


 巨大なガマ蛙が、眩い閃光と共に弾け飛んだ。

 それは爆発ではなく、何万枚もの黄金色の花びらとなって、ホール全体に降り注いだ。

 霊感のない人間には見えない光の雨。

 だが、その光を浴びた株主たちの顔からは完全に怒りが消え去り、満足げな、あるいは熱狂的な笑顔が浮かんでいた。

 社長たち役員も、憑き物が落ちたように深く息を吐き、血色を取り戻している。


「以上が、当社の描く未来のビジョンです。皆様、今後とも丸の内商事へのご支援を、よろしくお願いいたします!」


 みゆきが深くお辞儀をする。


 数秒の静寂の後。

 ホール全体を揺るがすような、割れんばかりの拍手が巻き起こった。


 臨時株主総会は、最悪の空気から一転、大盛況のうちに幕を閉じたのだ。


「……ふぅ。大仕事だったわね」


 総会終了後。

 控室で、みゆきがミネラルウォーターを一気に飲み干した。

 俺は、パイプ椅子の片付けの合間に、彼女にタオルを差し出した。


「お疲れ様です、小野さん。見事なプレゼンでしたよ。あのまま暴動が起きるかと思いました」

「ふふっ、広報のエースを舐めないでよね。社長たちが青い顔して固まってたから、私が助け舟を出してあげたってわけ」


 みゆきはタオルで汗を拭いながら、俺に悪戯っぽいウインクをした。


「で? 中川さんも、裏で何か『お仕事』してくれたんでしょ? 途中で急に空気が軽くなったもの」

「私はただ、舞台の袖から小野さんの活躍を見守っていただけです。強欲な怨霊を黄金の光に変えたのは、あなたのその『圧倒的な陽キャ力』ですよ」


「あら、褒めてるのかしら、それ」


 みゆきは楽しそうに笑う。


「ま、そういうことにしておいてあげる。……あ、そうだ。今回の株価回復の特別ボーナスが出たら、中川さんに少し奢ってあげるわ。時給1200円じゃ、美味しいものも食べられないでしょ?」


「……お気遣いなく。残業代は、きっちり広報部の経費につけておきますから」


 俺がドライに返すと、彼女は「可愛くないわね」と肩をすくめた。


 時計の針は17時25分を指している。

 今日も無事に、定時退社が叶いそうだ。


 俺は会社を出て、夕焼けのビル街を歩く。

 強大な強欲の集合体と対峙したせいか、少しだけ肩が重い。

 だが、家に帰れば、世界で一番可愛い黒い毛玉が待っている。


 アパートのドアを開けると、朝の病院での恐怖などすっかり忘れた顔で、クロが『ミャン!』と出迎えてくれた。


「ただいま、クロ。……今日はちゅーるをもう一本、特別にあげよう」


 俺はクロを抱き上げ、その柔らかい喉元を撫でた。

 どんなに激しい嵐が吹くブラック企業でも、この平穏な時間が守られる限り、俺は明日もまた出勤できるのだ。


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