第15話 真夏の夜の残業怪談
八月。
アスファルトが溶け出しそうな猛暑が続く、東京・丸の内。
その日の朝、俺は、アパートの自室で出勤の準備をしながら、激しい葛藤に苛まれていた。
視線の先にあるのは、フローリングに敷かれたアルミ製の「ペット用ひんやり冷感プレート」。
その上で、我が家の同居人である黒猫の「クロ」が、見事なまでに液体化していた。
生後約11ヶ月。すっかり逞しい若猫へと成長したクロだが、この連日の暑さには勝てないらしい。冷たいアルミプレートの上に仰向けになり、四肢をだらんと投げ出し、無防備にお腹を見せてペターッと張り付いているのだ。
時折、俺と目が合うと、寝返りを打つことすら面倒くさいのか、口だけを開けて『ミャァ〜……』と間延びした声で鳴く。
そのだらけきった姿が、とてつもなく愛おしい。
(……このまま有給を使って、俺もこのプレートの上でクロと一緒に液体になりたい)
だが、冷房代と高級キャットフード代を稼ぐため、俺は時給1200円の労働に向かわねばならない。
後ろ髪を引かれる思いで、俺はクロの柔らかいお腹を一度だけワシャワシャと撫で回し、出勤したのだった。
そして、午後7時30分。
丸の内商事の本社ビル8階。
俺は定時退社に失敗し、薄暗いオフィスで溜め息をついていた。
窓の外では、バケツを引っくり返したような凄まじいゲリラ豪雨が吹き荒れ、稲妻が夜空を紫に染め上げている。
先ほど、近くに落ちた落雷の影響で、ビル全体が大規模な停電に見舞われていたのだ。
PCは落ち、空調は停止し、フロアは非常用照明の緑がかった薄暗い光だけに照らされている。
「はぁ……最悪です。今日中にこのデータ、まとめなきゃいけなかったのに……」
俺の隣のデスクで、総務部の竹内塔子がスマホのライトで手元の書類を照らしながら、泣きそうな声を出していた。
彼女の残業を手伝う羽目になり、俺も足止めを食らっていたのだ。
「諦めましょう、竹内さん。システムが復旧するまで何もできませんし、この豪雨じゃ電車も止まっています。……今は無駄な体力を消耗しないことです」
俺はネクタイを外し、ワイシャツの第一ボタンを開けながら答えた。空調が止まったオフィスは、すでに蒸し暑くなり始めている。
「ちわーっす。ちょっと避難させてくださーい」
そこへ、スマートフォンのライトを揺らしながら、一人の少女がやってきた。
夏休み中のため、昼過ぎからバイトに来ていた郵便室の松田透子だ。
さらにその後ろには、黒を基調とした私服姿の金髪美女の姿もあった。1階の社内カフェ『Oasis』のバリスタ、アリーナ・ヴィルカスだ。
「停電でカフェのエスプレッソマシンも死んじゃったわ。1階は真っ暗で不気味だから、上に上がってきたのよ」
アリーナは肩をすくめ、俺たちのデスクのそばにあるパイプ椅子に腰を下ろした。
「松田にアリーナまで。……完全に難民キャンプだな」
俺は備品管理課の権限を使い、防災用ロッカーから『カセットコンロ』と『ペットボトルの水』、そして紙コップを引っ張り出してきた。
「中川さん、それでお湯沸かすの?」
「ああ。暗闇でじっとしていると、余計な不安を呼び寄せる。温かいものでも飲んで落ち着いた方がいい」
俺がカセットコンロに火をつけると、アリーナが目を輝かせた。
「Good idea! マシンがなくても、私にはこれがあるわ」
彼女は自分のトートバッグから、手動のコーヒーミルと、見慣れない紙袋を取り出した。
「『Oasis』の裏メニュー用、深煎りの特製ビーンズ。……停電の夜には、ハンドドリップのブラックコーヒーが一番よ」
アリーナは手慣れた様子でミルに豆を入れ、ゴリゴリと挽き始めた。
静まり返った薄暗いオフィスに、豆を砕くリズミカルな音と、芳醇で香ばしい香りが広がっていく。
紙コップにペーパーフィルターをセットし、沸騰したお湯を少しだけ冷ましてから、細い糸のようにゆっくりと粉に落としていく。
ポタッ、ポタッ、と漆黒の液体が抽出される。
彼女が淹れるコーヒーには、ほんの微量、清めの塩が含まれている。その香りを嗅ぐだけで、雨の湿気に混じった嫌な空気が浄化されていくのがわかった。
「はい、お待たせ。特製『ブラックアウト・ブレンド』よ」
配られた紙コップから立ち上る湯気を吸い込み、一口飲む。
深いコクと、すっきりとした苦味が、蒸し暑さでダレた脳をシャキッとさせた。
「……美味しい。なんか、ホッとしますね」
塔子が少しだけ表情を緩める。
「でしょ? ……さて、コーヒーも入ったし、こんな雰囲気の夜といえば、やることは一つよね?」
透子がニシシと悪戯っぽく笑い、自分の顔の下からスマホのライトを当てた。
薄暗い中で、彼女の顔が不気味に浮かび上がる。
「か、怪談話ですか……? 私、そういうの本当に苦手なんですけど……」
塔子が身を縮める。
「いいじゃない! Aussie(オーストラリア人)もゴーストストーリーは大好きよ。Mate(透子)、何かとっておきのやつ、ないの?」
アリーナが面白そうに身を乗り出した。
俺は嫌な予感がして、透子を睨んだ。
「おい松田、やめとけ。このビルは古いんだ。余計なものを引き寄せるぞ」
「えー、中川さんビビってるんですか? 大丈夫ですよ、ただの噂話ですから!」
透子は俺の忠告を無視し、声を潜めて語り始めた。
「……この丸の内商事のビルにはね、『開かずの非常階段』があるって噂、知ってます? 昔、仕事のミスを苦にして、非常階段から飛び降りたOLがいたらしいんです。 それ以来、雨の降る残業の夜になると……」
透子の声が、妙にフロアに響き渡る。
俺は眉をひそめた。
空気が、急激に冷たくなっている。空調は止まっているはずなのに。
「……誰もいないはずの階段の下から、カツン、カツンって、赤いハイヒールの足音が上がってくるんです。そして、フロアの扉の前に立つと……その小さな隙間から、血走った『真っ赤な目』で、こっちをギョロッと覗き込んでくるんだって……」
透子が語り終えた、その瞬間。
――カツン。
静まり返ったフロアに、硬いものが床を叩く音が響いた。
「「「…………」」」
塔子が息を呑む。
アリーナの笑顔が引きつる。
――カツン、カツン、カツン。
音は、明らかに8階のフロアの外――非常階段の扉の向こう側から聞こえていた。
一段、また一段と、こちらへ向かって上がってくる足音。
「ま、松田ちゃん……今の、冗談だよね……?」
塔子が震える声で尋ねる。
「わ、私じゃないですよ! 偶然、誰かが歩いてるだけで……」
透子も顔面を蒼白にしている。
(……馬鹿野郎が。だから言ったんだ)
俺は舌打ちをした。
透子は最強の「霊媒体質」だ。
彼女が強烈にイメージして語った『怪談』という名の「器」に、このビルに漂う無数の浮遊霊や、雨の夜の陰湿な邪気が流れ込み、『具現化』してしまったのだ。
言葉が呪いとなる。いわゆる「言霊の暴走」である。
足音が、非常階段の扉の真裏でピタリと止まった。
ガタッ。
重い鉄の扉が、僅かに揺れる。
そして、扉と枠の数ミリの隙間から、あり得ないほど強い光を放つ『真っ赤な目玉』が、こちらをギロリと覗き込んだ。
「ひぃぃぃぃっ!?」
塔子が悲鳴を上げ、俺の背中にしがみついてきた。
『……ミツケタ……ザンギョウシテルヤツ……』
隙間から、ガラスを引っ掻くような女の怨嗟の声が漏れ聞こえてくる。
カテゴリーCからBに匹敵する、強烈な思念体だ。
「……Oh, my god. 本当に出たわね。ちょっと中川さん、あんたの出番じゃないの?」
アリーナがコーヒーカップを置き、俺の背中をバンッと叩いた。
「……時給が発生しないトラブルばかりで、嫌になりますよ」
俺は立ち上がり、デスクの引き出しを乱暴に開けた。
そして、備品の中から『修正テープ』と『赤ボールペン』、そして一枚の赤い付箋を取り出した。
『……アケロ……トビラヲアケロォォォ……!!』
バンッ! バンッ!
怨霊が非常階段の扉を激しく叩き始める。鉄の扉が内側にひしゃげ、強引にこじ開けられようとしていた。
隙間から、赤いハイヒールを履いた血まみれの足が這い出してくる。
「松田。お前の怪談は、プロットが甘すぎる」
「えっ!?」
俺は赤い付箋を左手に持ち、右手で修正テープを構えた。
「ただ怖がらせるだけの結末なんて、三流のホラー映画だ。……俺が、正しいオチに『修正』してやる」
俺は呪力を込め、空中に向かって修正テープを「ビーーッ」と引く動作をした。
すると、虚空に白い帯状の光が浮かび上がる。
それは、透子が語った「怪談のシナリオ」そのものを白紙に戻す術式だ。
「結界展開。――プロット修正!」
俺はすかさず、赤い付箋に赤ボールペンで、凄まじい筆圧とともに新たな「結末」を書き込んだ。
そして、その付箋を、今まさに開こうとしている非常階段の扉めがけて投げつけた。
付箋は一直線に飛び、扉の表面にピタリと張り付く。
『アケテヤル……アケテ……ア……?』
怨霊の動きが、不自然にピタッと止まった。
俺が付箋に書き込んだ言葉はこうだ。
――『女は、扉の前でハイヒールの踵が折れて盛大に転倒し、恥ずかしくなって泣きながらタクシーで帰った』。
その直後。
ボキィッ!!
扉の向こうから、ヒールの踵がへし折れる派手な音が響いた。
『ンギャアアアアア!?』
ドッターン!!
怨霊が、何もない平らな床で盛大にすっ転ぶ音がフロアに轟く。
隙間から見えていた真っ赤な目玉が、痛みと羞恥に染まったように見開かれ、そして……。
『……う、うわあああああん! 恥ずかしいぃぃぃ!』
怨霊は、泣きベソをかきながら、カツン、ボキッ、カツン、ボキッと、折れたヒールを引きずりながら、猛スピードで階段を駆け下りていった。
そして、ビルの外へ飛び出し、遠ざかっていく足音とともに、その気配は完全に消滅した。
「「「…………」」」
残された俺たちは、呆然と非常扉を見つめていた。
「……えっと。帰った、みたいですね?」
透子が恐る恐る口を開く。
「……なんだか、可哀想なことしちゃった気分ね」
アリーナが苦笑いしながら、冷めかけたコーヒーをすする。
俺が書き換えた「ギャグのような結末」の言霊が、怨霊の持つ「恐怖の概念」を上書きし、存在を維持できなくさせたのだ。
物理的な破壊ではなく、ストーリーの破壊による除霊である。
パッ、と。
怨霊が消滅したのとほぼ同時に、フロアの蛍光灯が一斉に点灯し、空調が「ブォォォ」と音を立てて再稼働し始めた。
停電が復旧したのだ。
「あ! 電気が点いた!」
塔子が歓声を上げる。
「システムも立ち上がりました! ネットも繋がってます! 電車も運転再開したみたいですよ!」
光が戻ったことで、先ほどの怪異はまるで「暗闇が見せた幻覚」だったかのように、彼女たちの意識から急速に薄れていく。俺の術による認識阻害の副産物だ。
「……気のせいだったのかな、今の音」
塔子が首を傾げる。
「きっと、雨漏りの音か何かよ。さ、帰るわよ二人とも」
アリーナがミルと紙袋を片付けながら、俺に向かってだけ、ニヤリと意味深なウィンクを飛ばした。
「……ええ、帰りましょう」
俺はホッと息を吐き、ネクタイを締め直した。
残業代の出ない除霊はこれで終わりだ。
午後9時。
雨の上がった生温かい夜道を歩き、俺は自分のアパートへと帰還した。
ドアを開けると、玄関のひんやりとしたタイルの上で、クロが俺を待っていた。
『ミャッ!』
短い挨拶と共に、クロは俺の足元にすり寄り、八の字を描くようにまとわりついてくる。
「ただいま、クロ。暑かったか?」
俺は靴を脱ぎ、リビングのエアコンのスイッチを入れた。
冷たい風が吹き出し、部屋が急速に涼しくなっていく。
俺が床に座り込むと、クロはトコトコと歩いてきて、例の「アルミ製ひんやりプレート」の上にドンと寝転がった。
だが、今朝のようにプレートを独占するのではなく、わざわざ端っこの方に身を寄せ、俺に向かって前足を伸ばしてきたのだ。
『ミャン』
まるで、「ここ、涼しいからお前も座れよ」と、プレートの半分を譲ってくれているかのような仕草だった。
「……お前、優しいな」
俺は思わず頬を緩め、クロの隣にゴロンと寝転がった。
ひんやりとしたアルミの感触と、クロの温かい毛並みの感触。
クロは俺の顔に小さな肉球をペチペチと押し当て、「撫でろ」と要求してくる。俺が顎の下を掻いてやると、ゴロゴロと盛大に喉を鳴らし始めた。
真夏の夜の怪談も、ブラック企業の理不尽な残業も、この小さな家族の温もりの前では、どうでもいいことのように思えた。
時給1200円の俺にとって、この時間は何億円積まれても譲れない、最高のオアシスなのだ。




