第14話 恐怖! 社員旅行
七月。
初夏の陽気が肌を刺すようになった週末の朝。
俺は、自室のローテーブルの前にあぐらをかき、深い絶望と戦っていた。
原因は、俺の太ももの上に陣取っている黒い毛玉――愛猫の「クロ」だ。
秋の夜に拾ってから約十ヶ月。すっかり逞しい若猫へと成長したクロは、最近「俺の膝の上」を自らの絶対的な領土として認識し始めていた。
俺が座るやいなや、どこからともなくトコトコと歩いてきて、当たり前のように膝の上によじ登る。そして、くるりと丸まって前足を体の下にしまい込む「香箱座り」の体勢に入り、目をトロンと細めて『ゴロゴロ……』と盛大なモーター音を鳴らし始めるのだ。
「……おい、クロ。可愛いのは認めるが、そろそろ退いてくれないか」
『ミャン?』
俺が指先でつんつんと背中を突くと、クロは不満げに短く鳴き、あろうことか俺の太ももに爪を少しだけ立てて「ここは俺の場所だ」とアピールしてきた。
その温かい体温と、少しずっしりとした重み。滑らかな黒曜石のような毛並みの感触。
これ以上の至福があるだろうか。
できることなら、このままクロを撫でながら、永遠に週末を過ごしたい。
だが、無情にも壁の時計は出発のタイムリミットを告げていた。
俺は断腸の思いでクロの脇に手を入れて抱き上げ、ソファの上へと移動させた。
「留守番、頼むぞ。自動給餌器のタイマーはセットしたし、水もたっぷりある。……明日には帰るからな」
『ミャアア……』
恨めしそうなクロの鳴き声を背中で受けながら、俺は一泊二日用のボストンバッグを肩にかけ、玄関のドアを開けた。
これから向かうのは、天国とは真逆の場所。
丸の内商事が全社員に強制参加を強いる、地獄のイベント――『慰安社員旅行』である。
午後4時。
大型観光バスに揺られること数時間、俺たちは箱根の山奥にある古びた温泉旅館『鬼怒鳴館』に到着した。
昭和のバブル期に建てられたと思われるその旅館は、無駄に広く、そして薄暗かった。
「はぁ……なんで休日にまで、会社のおじさんたちと一緒に過ごさなきゃいけないんですかね」
ロビーでルームキーの配付を待っている間、総務部の竹内塔子が深いため息をついた。
彼女は総務の幹事として、バスの車内でも延々と社員たちに缶ビールを配らされており、すでに疲労困憊の様子だ。
「慰安旅行と銘打った、ただの拘束時間ですからね。時給が発生しないのが納得いきません」
俺がドライに答えると、隣から底抜けに明るい声が響いた。
「No worries! 温泉に入って、美味しいご飯を食べれば全部チャラでござるよ、Masterナカガワ!」
受付嬢のソフィアだ。彼女は日本の温泉旅館というシチュエーションにテンションが上がりまくっているらしく、すでに首から旅館の粗品タオルを下げている。
「ソフィアちゃんは元気だねぇ。私はもう、バスの揺れで気持ち悪いわ……」
広報部のエース、小野みゆきが気だるげに首を回す。
「あれ? そういえば、郵便室の松田ちゃんは?」
「いくらウチがブラック企業でも、未成年の女子高生バイトを酒の入る宿泊宴会に連れ出すほど落ちぶれてませんよ。彼女は当然お留守番です。『私も豪華な夕飯食べたい! 金目鯛の煮付けぇ!』って泣いて悔しがってましたけどね」
俺がそう答えると、みゆきは「あはは、あの子らしいわね」と笑った。
だが、俺の意識は彼女たちの賑やかなやり取りには向いていなかった。
俺は霊力を目に集中させ、この『鬼怒鳴館』のロビーの天井や廊下の奥を見渡す。
(……やはりな。歴史のある温泉宿には、必ず『淀み』がある)
視界の端々で、黒いモヤのようなものが蠢いている。
長年、この旅館を訪れた無数の客たちが落としていった「日頃のストレス」や「欲望」、そして宴会での「乱痴気騒ぎの残留思念」が、温泉の湿気と結びついて霊的なヘドロを形成しているのだ。
カテゴリーCからDの低級霊の群れだが、数が多い。油断すれば、霊的防御力の低い社員たちが真っ先に当てられるだろう。
「中川さん、どうかしましたか? 怖い顔して」
塔子が俺の視線を追うように首を傾げる。
「いえ、少しカビ臭いなと。……お互い、羽目を外しすぎないように気をつけましょう」
夜の宴会は、予想通りの地獄だった。
上司の武勇伝、終わらないお酌のループ、そしてカラオケの不協和音。
俺は気配を極限まで殺し、部屋の隅で刺身のツマをかじりながら耐え忍んだ。
宴会がお開きとなり、自由時間となった午後11時30分。
社員たちがそれぞれの部屋へ戻る中、俺はひっそりと浴衣姿で廊下へ出た。
霊的な磁場が、先ほどから急激に悪化しているのだ。
深夜の静寂と共に、館内に溜まったヘドロのような怨念たちが、最も霊力の集まりやすい場所――「大露天風呂」に向かって集結し始めている。
あの露天風呂は、深夜0時で男女が入れ替わる。
今の時間は、ちょうど女性の入浴時間だ。うちの会社の女性社員たちが、格好の標的になってしまう。
俺は懐に『呪符』と『聖水』を忍ばせ、足音を殺して薄暗い廊下を歩いた。
大露天風呂へと続く渡り廊下の角を曲がろうとした、その時。
「……あら、奇遇ね」
不意に、暗がりから声がした。
ビクッとして足を止めると、壁際のソファに、白衣ではなく艶やかな紺色の浴衣をまとった女性が座っていた。
産業医の中山杏子だ。
彼女の浴衣は少し着崩れており、胸元の白い肌が艶かしく覗いている。右手には、どこから調達してきたのか、半分ほど減ったウイスキーのボトルとグラスが握られていた。
「中山先生……。こんな所で何を?」
「宴会の空気が悪すぎてね。ここで一人でアルコール消毒をしていたのよ」
杏子はグラスを傾け、氷をカランと鳴らした。
「それより、中川さんこそ。こんな深夜に、こっそりと……ずいぶん意味深な足取りじゃない。もしかして『女風呂を覗く』なんて、ベタな昭和の社員旅行のノリ?」
彼女は妖艶に微笑みながら、鋭い視線で俺の懐を射抜く。
隠しても無駄だ。この女の観察眼は、下手な霊感よりも恐ろしい。
「……違いますよ。少し『掃除』をしに行くだけです。この旅館、ホコリが多すぎるので」
「やっぱり。さっきから、空気がカビ臭くて仕方なかったのよ」
杏子は立ち上がり、ウイスキーのボトルを持ったまま俺の隣に並んだ。
「私も行くわ。医者として、社員の健康を害する『非科学的な不衛生』は見過ごせないから」
「……危険ですよ」
「私のアルコール度数を舐めないで。雑菌なんて一瞬で殺菌してあげるわ」
頼もしいのか迷惑なのかわからないが、彼女の「科学的リアリズム」が持つ霊的防御力は本物だ。
俺はため息をつき、「勝手にしてください」とだけ言って、露天風呂へと向かった。
露天風呂の脱衣所の手前。
竹垣で仕切られた通路には、目も開けられないほどの濃い「黒い湯気」が立ち込めていた。
『ヒヒヒ……オンナ……』
『ノゾカセロ……ワカイオンナ……』
黒い湯気は、無数の卑語を呟く「目玉」の集合体となっていた。
何十年分もの、悪質な覗き魔やセクハラ親父たちの欲望が煮詰まった『欲情の残留思念』だ。
奴らは脱衣所の暖簾の隙間から、内部へ侵入しようと群がっている。
中からは、塔子やみゆき、ソフィアたちの楽しそうな話し声と水音が聞こえていた。
「……気持ち悪いわね。医学的に見て、完全に病原菌の塊じゃない」
杏子が顔をしかめ、ウイスキーのボトルを軽く振る。
「ええ。物理的な害はありませんが、あれに当てられると、極度の悪寒と精神的な嫌悪感に襲われます。……俺が祓います。先生は下がっていてください」
俺は浴衣の袖を捲り上げ、部屋から持ってきた「旅館の粗品タオル」を両手でピンと張った。
そして、そのタオルに特製の聖水をドボドボと染み込ませる。
「結界展開。――水行、清めの鞭」
霊力を流し込まれた粗品タオルが、青白い光を放って硬質化する。
俺はそれを鞭のように頭上で振り回し、黒い湯気の群れめがけて全力で打ち据えた。
パァァァンッ!!
破裂音が響き、タオルが直撃した空間の「目玉たち」が、聖水の力でジュワァァッと蒸発する。
『ギャアアアアッ!?』
思念体たちが苦悶の声を上げ、一斉にこちらへ向き直った。
『ジャマヲスルナ……!!』
怒り狂った黒い湯気が、巨大な津波のように俺たちに向かって押し寄せてくる。
タオルの鞭だけでは、範囲が広すぎて対処しきれない。
「――ちょっと、退きなさい」
背後から杏子が前に出た。
彼女はウイスキーのボトルを口に運び、強烈な度数の酒を口いっぱいに含んだ。
そして、押し寄せる黒い湯気に向かって、勢いよく霧状に吹き出したのだ。
「ブゥーッ!!」
アルコール度数40パーセントを超える強烈な酒の霧。
そこに、杏子の持つ「非科学的なものを一切信じない」という強靭なリアリズムのオーラが乗る。
思念体たちにとって、それは最も苦手とする「現実という名の猛毒」だった。
『ギャッ!? コ、コイイツ……現ジツ的スギル……!』
酒の霧を浴びた黒い湯気が、怯んだように動きを止める。
「今です、中川さん! フランベしなさい!」
杏子が口元を拭いながら叫んだ。
料理用語での的確な指示だ。
「了解しました。――悪霊退散、燃え尽きろ!」
俺はポケットから赤い付箋を三枚同時に取り出し、指で弾いて空中のアルコールの霧に向かって投げ放った。
付箋が空中でカッと発火する。
その霊的な炎は、杏子が吹き出したアルコールの霧に引火し、空中で凄まじい「浄化の爆炎」を巻き起こした。
ゴオオオオオオッ!!
『アギャアアアアアアアアッ!?』
露天風呂の通路全体を包み込んだ青白い炎が、欲情の残留思念たちをチリチリと焼き尽くしていく。
炎は旅館の建材には一切燃え移らず、ただ「不浄な穢れ」だけを燃料にして燃え上がり、そして一瞬にして掻き消えた。
後に残ったのは、澄み切った夏の夜の空気と、微かなウイスキーの芳醇な香りだけ。
「……ふぅ。完璧なフランベだったわね」
杏子は残ったウイスキーをグラスに注ぎ、クイッと煽った。
「先生のアルコール補助がなければ、手こずっていました。……ありがとうございます」
俺は粗品タオルを絞り、汗を拭った。
「お礼なんていいわよ。……それより、中川さん」
杏子がグラスを持ったまま、俺の胸元にスッと顔を近づけてきた。
彼女の艶やかな瞳が、暗がりの中で妖しく光る。
吐息から、強いアルコールの香りがした。
「こんな深夜に、浴衣姿の男女が人気のない廊下で密会……。これって、医学的に見てもかなり『心拍数が上がる』シチュエーションじゃないかしら?」
ドキリとするような台詞だ。
確かに、第三者から見れば、ただの社内不倫の現場にしか見えない。
「……先生、酔ってますね。俺の時給では、深夜のロマンスは業務範囲外です」
「ふふっ、相変わらずつまらない男。……まあいいわ。今日のところは、この美酒に免じて解放してあげる」
杏子は悪戯っぽく笑い、踵を返して自分の部屋の方へと歩き出した。
その背中を見送りながら、俺は大きく息を吐き出した。
悪霊よりも、あの大人の女医の相手をする方が、よほど神経をすり減らす。
「あー、いいお湯だった!」
「ほんと、お肌ツルツルになりましたね!」
露天風呂の方から、塔子やみゆきたちの明るい声が近づいてくる。
俺は誰にも見つからないよう、足音を殺して素早くその場から撤退した。
翌日の日曜日。
地獄の慰安旅行の全日程を終え、俺は夕方にようやくアパートへと帰還した。
重いボストンバッグを床に置き、革靴を脱ぐ。
「……疲れた」
休日に気を張って過ごしたせいで、疲労はピークに達していた。
俺がリビングのソファに倒れ込むと、寝室から黒い影がトコトコと歩いてきた。
『ミャーウ』
クロだ。
丸一日留守にしていたせいか、いつもより少し甘えたような声を出して、俺の胸の上にダイブしてきた。
そして、迷うことなく前足を丸め、俺の胸のど真ん中で「香箱座り」の陣形を組む。
「……お前、そこは俺の心臓の上だ。重いぞ」
文句を言いながらも、俺はその滑らかな背中をゆっくりと撫でた。
クロは目を細め、『ゴロゴロ……』と全身を震わせて喉を鳴らす。
その振動と温もりが、温泉よりも深く、俺の疲れた心と体を癒やしていく。
(……やっぱり、家が一番だな)
温泉旅館の豪華な会席料理も、大人の女医とのスリリングな密会も、この黒猫の体温には敵わない。
明日からはまた、ブラック企業での戦いが始まる。
だが今夜だけは、この小さな家族の重みを感じながら、ゆっくりと眠りにつくことにしよう。




