第13話 梅雨時のジメジメハラスメント
六月。
東京の空は重苦しい灰色の雲に覆われ、街全体が巨大な温室の中に沈み込んだような、本格的な梅雨のシーズンに突入していた。
月曜日の朝。
俺は、出勤前の僅かな時間を、アパートのリビングで過ごしていた。
視線の先には、昨日の休日に立ち寄った雑貨屋で買ってきた「猫のぬいぐるみ」がある。大きさは俺の掌より少し大きいくらい。デフォルメされた茶トラ模様の、ふわふわとしたぬいぐるみだ。
そして、そのぬいぐるみに向かって、我が家の同居人である黒猫の「クロ」が、低く身構えていた。
瞳孔をまん丸に見開き、お尻をフリフリと小刻みに揺らしている。
俺があの秋の夜に拾ってから、約九ヶ月。栄養状態も良くなり、今ではすっかり艶やかで逞しい若猫へと成長していた。
『ミャッ!』
クロが床を蹴り、茶トラのぬいぐるみめがけてロケットのように飛びかかった。
前足でぬいぐるみの首根っこをガッチリとホールドし、コロンと仰向けに転がる。そして、後ろ足を使って、ぬいぐるみの腹を「ケリケリケリッ!」と猛烈な勢いで蹴り始めた。
いわゆる「猫キック」というやつだ。
「……おいクロ。それは獲物じゃない、友達だぞ」
俺がコーヒーをすすりながら声をかけると、クロはハッとしたように動きを止めた。
そして、自分が蹴り飛ばしていたぬいぐるみの顔をじっと見つめ、何を思ったのか、今度はザラザラとした舌で、ぬいぐるみの耳のあたりをペロペロと熱心に毛繕いし始めたのだ。
ひとしきり毛繕いを終えると、クロはぬいぐるみを抱き枕のようにしてギュッと抱え込み、そのまま目を細めて「ゴロゴロ……」と喉を鳴らし始めた。
(……可愛いな、おい)
危うく、時給1200円の派遣の仕事などすっぽかして、このまま一日中クロの寝顔を眺めていたいという強烈な誘惑に駆られた。
だが、俺が稼がなければ、クロの高級キャットフードは買えない。
俺は名残惜しさを振り切り、クロの頭を一度だけ撫でてから、ジメジメとした雨の降る外へと足を踏み出した。
丸の内商事の8階フロアは、外の雨模様と同じくらい、どんよりとした空気に包まれていた。
エアコンの除湿機能がフル稼働しているはずなのに、オフィス全体にまとわりつくような不快な湿気が漂っている。
「……あー、もう。髪の毛まとまらないし、肌はベタベタするし、最悪」
「気圧のせいか、頭が痛い……。仕事する気起きないわ」
社員たちが口々に愚痴をこぼしている。
梅雨の時期特有の「ジメジメハラスメント」だ。
この季節は、ただでさえ日照時間が減り、人々の精神的な免疫力が低下する。そこへ「満員電車で濡れた傘が当たった」「革靴の中が蒸れている」といった小さなストレスが積み重なり、オフィス空間に「陰湿な気」を大量に発生させるのだ。
「中川さぁん……」
俺のデスクに、総務部の竹内塔子が力ない足取りでやってきた。
彼女の美しい蜂蜜色の髪も、今日は湿気で少しうねってしまっている。
「どうしました、竹内さん。また赤ボールペンの在庫ですか」
「いえ……各部署から『空調が効いてない』『除湿機を貸してほしい』っていうクレームが殺到してて。備品管理課にある予備の除湿機、全部出せますか?」
「了解しました。台車に乗せて各フロアに配ってきます」
俺が立ち上がろうとした、その時だった。
胸ポケットに入れていた社用スマートフォンが、ブルッと短く震えた。
画面を見ると、社内チャットツールに通知が来ている。送信元は『情報システム部・石田繭子』。
『……SOS。……私の繭が、カビに侵略されてる』
短いテキストだが、あの引きこもりの天才SEからのSOSだ。ただ事ではない。
「竹内さん、除湿機の配布は後回しにします。ちょっと地下のシステム周りでトラブルが起きたようなので」
「えっ? システムトラブルですか? わかりました、行ってあげてください!」
俺は備品室から、最も馬力の大きい『業務用大型除湿機』を一台台車に乗せ、急いでエレベーターで地下2階へと向かった。
地下2階、情報システム部・サーバー室。
重厚な電子ロック扉の前に立った瞬間、俺は思わず鼻を覆った。
扉の隙間から、むせ返るような「カビ」と「ヘドロ」の悪臭が漏れ出している。
インターホンを押し、社員証をかざして中に入ると、そこは俺が知っている『極寒の電脳空間』ではなかった。
巨大なサーバーラックが立ち並ぶ部屋の中は、まるで熱帯雨林のように湿度が高く、ねっとりとした霧が立ち込めている。
「……遅い」
部屋の最奥。
ブルーライトカット眼鏡をかけた石田繭子が、オーバーサイズのパーカーの袖で口元を覆いながら、青ざめた顔で俺を睨んでいた。
「どうなってるんだ、これは。空調システムがイカれたのか?」
「……物理的な故障じゃない。ログは正常。室温20度、湿度40%をキープしてる『はず』なの」
繭子はカタカタとキーボードを叩き、モニターに異常を示す赤い警告を無数に表示させた。
「……でも、これを見て」
彼女が指差した先。
俺は霊力を目に集中させた。
――ぞわり、と肌が粟立った。
巨大なサーバーラックの黒い金属フレームや、床を這う無数のLANケーブルの束。
そこに、苔のようにびっしりと、緑色と黒色が混ざった「斑点」が繁殖している。
それはただのカビではない。
斑点の一つ一つが、無数の小さな「顔」の形をしており、ジメジメとした怨嗟の声を上げているのだ。
『……ダルい……』
『……なんで俺ばっかりこんな仕事……』
『……あいつの方が給料高いのに……』
――『カビ妖怪』だ。
カテゴリーDの低級霊だが、群生すると非常に厄介な性質を持つ。
梅雨時の不快感と、社員たちが無意識に吐き出す「陰湿な愚痴」「嫉妬」「自己憐憫」といった負の感情が結びつき、湿気を苗床にして爆発的に繁殖した霊障だ。
奴らは精密機器の放つ微熱を好み、金属や基盤を霊的に腐食させていく。
「……私の可愛い『ジョセフィーヌ』が、この汚い胞子に侵食されてる。……許せない」
繭子の瞳の奥に、殺意に似た冷たい怒りが宿っている。
「……中川さん。物理で殴って。この胞子を全部、跡形もなく消し去って。さもないと、あと30分で社内の基幹システムがショートする」
「無茶を言うな。サーバー室で火行の術は使えない。水行で洗い流すのも、精密機器にはご法度だ」
俺は持ち込んだ業務用除湿機を、サーバー室の中央にセットした。
「だが、お誂え向きの兵器を持ってきた。備品管理課の権限でな」
俺は除湿機のタンクを取り外し、そこにポケットから取り出した小瓶の液体――俺特製の『聖水』を数滴垂らした。
さらに、吸気口のフィルター部分に、二枚の付箋を貼り付ける。
黄色い付箋と、青い付箋。
「……いくぞ」
俺は除湿機の電源を入れ、風量を『最大』に設定した。
ゴオオオオオオオッ!!
大型コンプレッサーが唸りを上げ、部屋中の淀んだ空気を猛烈な勢いで吸い込み始める。
ただの除湿ではない。
『土行の吸収力』を付与された除湿機は、空間に漂う物理的な湿気だけでなく、壁やケーブルにこびりついたカビ妖怪の「霊的な湿気」をも根こそぎ吸い上げていく。
『ギャアアアア!?』
『スイコマレルゥゥゥ……!』
サーバーラックにへばりついていた黒と緑の斑点たちが、悲鳴を上げながらズルズルと剥がれ落ち、除湿機の吸気口へと吸い込まれていく。
吸い込まれた邪気は、内部のフィルターに貼られた『水行の浄化』と、タンク内の『聖水』によって、ただの綺麗な水へと変換されていく。
「石田、ラックの裏側に逃げた奴らをこっちへ追い込め。できるか?」
「……舐めないで。私の庭よ」
繭子が凄まじい速度でキーボードをタイピングする。
サーバーの冷却ファンの回転数をプログラムで制御し、部屋の中に局地的な「気流」を生み出したのだ。
「……排熱ルーバー全開。ファン回転数120%。……胞子たちを、そっちの掃除機に誘導する」
彼女の意図した通り、ラックの奥に隠れていたカビ妖怪たちが、強烈な排熱の風に煽られ、俺の除湿機の前へと押し出されてくる。
「悪霊退散。……カラカラに乾いて消えろ」
俺は最後の仕上げとして、赤い付箋を除湿機の排気口に貼り付けた。
吸い込んだ湿気を浄化し、代わりに排気口からは「清浄で乾燥した熱風」が吹き出す。
その熱風を浴びたカビ妖怪の残党たちは、チリチリと音を立てて干からび、ただの灰となって完全に消滅した。
ピーッ。
『タンク満水』を知らせる電子音が鳴り、除湿機が停止する。
わずか数分で、数リットルもの水を吸い取ったのだ。
「……ふぅ。これで片付いたな」
俺は額の汗を拭った。
サーバー室の空気は、いつものように冷たく、無機質で、清浄なものに戻っていた。
カビの匂いも完全に消え去っている。
「……システムログ、正常。熱暴走の危険性、ゼロ。……ジョセフィーヌの脈拍も安定した」
繭子はモニターを見つめながら、安堵の深いため息をついた。
そして、くるりとワーキングチェアを回転させ、俺を見る。
「……中川さん」
「なんだ」
「……よくやった。褒めてつかわす」
「何様だお前は」
俺が呆れ返っていると、繭子は無言でデスクの下から、冷えた『モンスタァエナジー』の缶を取り出し、俺に向かって放り投げた。
俺はそれを片手で受け取る。
「……報酬。……あと、その除湿機、梅雨が終わるまでここに置いてって」
「それは困る。これは総務の備品だ。上の階でも『ジメジメハラスメント』に苦しんでる社員たちが待ってるんでね」
「……チッ。ケチ」
繭子は分かりやすく舌打ちをして、再びモニターへと向き直った。
俺は満水になった除湿機のタンクの水を、部屋の隅にある排水溝に流してから、再び台車に乗せた。
「じゃあな。また何か異常があれば呼べ」
「……言われなくても。……お疲れ様」
彼女の小さな呟きを背中で聞きながら、俺はサーバー室を後にした。
午後5時30分。
定時のチャイムが鳴り響く。
除湿機を各フロアに配り終え、なんとかオフィスの霊的湿度を正常値に戻した俺は、誰よりも早くタイムカードを切った。
外に出ると、朝から降り続いていた雨が上がり、雲の隙間から夕日が差し込んでいた。
ジメジメとした空気は風に流され、少しだけ涼しい。
「……よし、帰るか」
俺は足取りも軽く、アパートへの帰路についた。
玄関のドアを開けると、いつものようにクロが『ミャン!』と出迎えてくれる。
「ただいま、クロ」
俺は革靴を脱ぎ、リビングへ入った。
ふと見ると、俺のベッドの上で、クロが朝あげた「茶トラのぬいぐるみ」を抱きかかえるようにして丸まっていた。
どうやら、俺が帰ってくるまで、ずっと一緒に寝ていたらしい。
(……最強の結界だな、これは)
どんな強力な呪符よりも、この光景を見ているだけで、一日の疲労と邪気がすべて浄化されていく。
俺はクロの頭を優しく撫で、キッチンへと向かった。
今夜は、雨上がりで少し冷える。
生姜とネギをたっぷりと効かせた、鶏肉のみぞれスープでも作るとしよう。
時給1200円の派遣社員の平穏な日常は、こうして守られたのである。




