第12話 五月病の黒い霧
ゴールデンウィーク。
日本の労働者が一年に一度だけ許される、合法的な長期現実逃避の期間。
あの凄惨な「決算期のデスマーチ」を強制シャットダウンで乗り切ってから半年が過ぎ、季節は春から初夏へと移り変わっていた。
連休の最終日。
俺は、なぜか銀座のお洒落なイタリアンレストランのテラス席で、慣れない休日の陽射しを浴びていた。
「中川さん! ここのパスタ、すっごく美味しいですよ! ほら、小海老と春キャベツのペペロンチーノ!」
目の前で、総務部の「白百合」こと竹内塔子が、フォークを片手に満面の笑みを浮かべている。
今日の彼女は、いつものカッチリとしたオフィスカジュアルではない。淡いラベンダー色のシフォンワンピースに、華奢な白いカーディガンを羽織った、どこからどう見ても「休日のデート仕様」の私服姿だった。
髪も少し巻いており、初夏の風に揺れるたびに甘い香りが漂ってくる。
「……竹内さん。俺はただ、あの時の『莫大な深夜残業代』の還元として、食事をご馳走すると約束しただけなんですが。なぜ銀座のコースランチなんですか。スーパーの特上寿司でも良かったでしょう」
「ダメです! せっかくの連休なんですから、パーッと贅沢しなきゃ! それに……」
塔子は少しだけ頬を染め、上目遣いで俺を見た。
「たまにはこうして、会社以外の場所で……中川さんと、ゆっくりお話ししたかったんです」
ドキン、と心臓が鳴るようなセリフだ。
だが、俺は時給1200円の派遣社員。対する彼女は、将来有望な総務部の正社員。住む世界が違う。
「……俺のプライベートなんて、家でスパイスカレーを煮込むか、黒猫のクロに『ふみふみ』されて腹を揉まれているかくらいしかありませんよ」
「ふふっ。クロちゃん、すっかり懐いてるんですね。いつか写真見せてくださいね。……でも、中川さんが猫を可愛がってる姿って、なんだかギャップがあってズルいです」
塔子はコロコロと笑いながら、食後のエスプレッソに口をつける。
穏やかな休日だった。
霊の気配も、パワハラ上司の怒声もない、純粋な休息。
塔子の笑顔を見ていると、ブラック企業での労働で擦り減った精神が、少しだけ浄化されていくような気がした。
「……明日から、また仕事ですね」
ふいに、塔子がカップを置き、小さくため息をついた。
「新入社員の子たち、連休明けでちゃんと会社に来てくれるかな。毎年この時期は、心が折れちゃう子が多いから……総務としても心配なんです」
彼女の生真面目な性格が顔を出す。
俺はテーブルに置かれた伝票を手に取りながら、ドライに答えた。
「来るも来ないも本人の自由です。合わない会社なら、早く見切りをつけるのも能力のうちですよ。……さあ、行きますか。明日に備えて、今日は早く帰りましょう」
「……はいっ。ご馳走様でした、中川さん!」
俺はレジで支払いを済ませ、塔子と銀座の駅で別れた。
この時の俺は、「五月病」という言葉をただの精神的な甘えだとタカをくくっていた。
丸の内商事という魔都において、それが物理的な『災害』となって牙を剥くことなど、知る由もなかったのだ。
翌日。ゴールデンウィーク明けの月曜日。
午前9時。
丸の内商事の8階フロアは、まるで巨大なお通夜の会場のようになっていた。
連休の思い出を語り合うような和やかな空気は微塵もない。
特に異様なのは、先月入社したばかりの新入社員たちだ。
「……あー、無理。キーボード打つ指が重い……」
「帰りたい……布団から出たくない……なんで会社なんてあるの……」
「もう辞めようかな……俺、この仕事向いてないかも……」
フロアのあちこちで、真新しいスーツを着た新入社員たちが、デスクに突っ伏してうわ言のように呟いている。
タイピングの手は止まり、目は虚ろ。完全に生気を失っている。
「……ちょっと、鈴木くん! しっかりして! まだ朝の9時半よ!?」
塔子が、倒れ込む新入社員の肩を揺さぶって悲鳴を上げている。
「ダメです……竹内先輩……僕のHPはもうゼロです……」
単なる連休明けの憂鬱さにしては、被害規模が大きすぎる。
俺は自席で眉をひそめ、霊力を網膜に集中させた。
――視界が、灰色に染まった。
フロア全体に、地を這うような「黒い霧」が立ち込めている。
その霧は、新入社員たちの足元から這い上がり、彼らの背中や頭にべったりとまとわりついていた。
霧の中には、ヒルやナメクジのような形をした無数の不気味な霊体が蠢き、新入社員たちからキラキラとした光の粒子をチューチューと吸い上げている。
――『やる気泥棒』だ。
オフィス妖怪図鑑、カテゴリーD。
単体では無害な浮遊霊だが、GW明けの特有の「憂鬱な空気」を苗床にして爆発的に繁殖する妖怪。
社会に出たばかりの新入社員が持つ「フレッシュな生気」は大好物であり、彼らのやる気を吸い尽くして「五月病」を重症化させる。
吸い取られたやる気は霧の養分となり、さらに泥棒を増殖させるという悪循環を生み出すのだ。
「中川さん! 大変です、新入社員の子が立て続けに保健室に運ばれて……!」
塔子が俺のデスクに駆け込んできた。昨日のデート仕様の可愛らしい私服とは打って変わり、いつもの制服姿で完全にパニックを起こしている。
「中山先生はなんて言ってますか」
「『典型的な五月病ね。でも、生気の抜け方が異常だから、きっとあの中川って男の出番よ』って……」
「あの女医、また俺に丸投げか」
俺は舌打ちをした。
フロアに充満する黒い霧は、今や若手だけでなく、中堅社員のモチベーションまで奪い始めている。
このままでは、フロア全体の業務が停止し、俺の定時退社にも深刻な影響が出る。
「……竹内さん。昨日は美味しいパスタをご馳走した仲です。少しだけ、俺の指示に従ってもらえますか」
「えっ? は、はい! もちろんです!」
「郵便室に電話して、松田透子をこのフロアに呼び出してください。『急ぎの社内便がある』と言って」
「松田ちゃんを? わ、わかりました」
俺は立ち上がり、ポケットから青と黄色の付箋を取り出した。
やる気泥棒は群生型の霊だ。フロア中に散らばった霧を一つ一つ祓っていてはキリがない。
一箇所に集め、一網打尽にする必要がある。
それには、最強の「囮」が必要だった。
「ちわーっす。急ぎの社内便ってなんですかー?」
5分後。
郵便室のアルバイト、松田透子が台車を押して8階フロアにやってきた。
17歳の女子高生である彼女は、社会人の五月病などどこ吹く風で、元気いっぱいにガムを噛んでいる。
「おい、松田。こっちだ」
俺はフロアの隅にある給湯室の前に彼女を呼び寄せた。
「なんですか中川さん。私、GW中は連休なんかなくて、ずっとカフェでバイトしてたんですよ? 疲れてるんだから、無駄話なら帰りますよ」
「疲れてる? 嘘をつけ。お前のその溢れんばかりの食欲と生命力は、このフロアの誰よりも強力だ」
俺は透子の目を真っ直ぐに見据えた。
「松田。今日の夕飯の予定は?」
「え? 家でカップラーメンですけど」
「変更しろ。……今日、このフロアのゴミ集めとシュレッダー掛けを完璧にこなしたら、定時後に『特上カルビ食べ放題の高級焼肉』を奢ってやる」
ピタッ。
透子の動きが止まった。
彼女の瞳の奥で、カッと何かが燃え上がる音がした。
「……と、特上カルビ……? 食べ放題……? しかも、中川さんのおごり……?」
「ああ。嘘じゃない。決算期の残業代がまだ残ってるからな。腹がはち切れるまで食わせてやる」
ゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
透子の全身から、目に見えるほどの凄まじい「闘気」がオーラとなって噴き出した。
もともと「歩く霊寄せビーコン」と呼ばれるほどの強烈な霊媒体質を持つ彼女が、食欲という根源的な欲求によって限界突破のモチベーションを発揮したのだ。
「やります!! 私、やります!! シュレッダーでも便所掃除でもなんでもやります!! 焼肉ぅぅぅぅ!!」
透子は台車を放り出し、猛然とフロアのゴミ箱へと突進していった。
その桁違いの「フレッシュな生気」は、飢えた妖怪たちにとって、暗闇で焚かれた強烈なサーチライトに等しかった。
『シュウゥゥゥ……!』
『ヤルキ……ウマソウナ、ヤルキ……!』
フロア中に散らばっていた黒い霧たちが、新入社員たちから離れ、一斉に透子に向かって津波のように押し寄せていく。
凄まじい光景だ。透子の背中に、黒いナメクジの塊のような霧が巨大な竜巻となって群がっていく。
「な、なんですかこれ!? なんか急に肩がすっごい重いんですけどぉぉ!?」
霊感のない透子だが、さすがに物理的な質量を持った霊圧の異常には気づいたらしい。フラフラとよろめきながら悲鳴を上げる。
「そのまま動くな、松田! 焼肉を思い浮かべろ!」
俺は給湯室の前に立ち、準備していた呪具を展開した。
備品管理課の棚から持ち出した『業務用特大ゴミ袋』だ。
袋の底に、吸引の力を持つ『白い付箋』を貼り付け、入り口を大きく広げる。
「――結界展開。大吸引!」
俺は広げたゴミ袋の口を、透子の背中に群がる黒い竜巻に向かって突き出した。
白い付箋が袋の底で光を放ち、凄まじい吸引力が発生する。
透子にへばりついていた黒い霧の塊が、まるで巨大な掃除機に吸い込まれるように、特大ゴミ袋の中へと次々に吸い込まれていく。
『ギュルルルルルッ!?』
やる気泥棒たちが、逃げ場を失って透明な袋の中で暴れ回る。
「よし、一網打尽だ」
袋がパンパンに膨れ上がったところで、俺は素早く口を捻り、赤い結束バンドで固く縛り上げた。
これで完全に捕獲完了だ。
「あとは処理だな」
俺は袋の隙間から、浄化の力を持つ『青い付箋』を差し込み、聖水を数滴注入した。
「――悪霊退散。水清きに還れ!」
バシャッ! という音と共に、袋の中で浄化の反応が起こる。
水の霊力が黒い霧を洗い流し、不気味なナメクジの霊体たちは「ジュワァァァッ」と音を立てて蒸発していった。
後に残ったのは、キラキラと輝く光の粒子――新入社員たちから奪われていた「やる気」だけだ。
俺が結束バンドを少し緩めると、光の粒子はタンポポの綿毛のようにフロアに散らばり、元の持ち主たちの体内へとスッと戻っていった。
「……あ、あれ?」
「なんか、急に頭がスッキリしたぞ……?」
「よし! 午前中のうちにこの資料まとめちゃおう!」
デスクに突っ伏していた新入社員たちが、憑き物が落ちたように立ち上がり、勢いよくキーボードを叩き始めた。
五月病の黒い霧は完全に消え去り、オフィスに健全な労働環境が戻ってきたのだ。
「……はぁ、はぁ。な、なんだったんですか今の。私、死ぬかと思いましたよ……」
解放された透子が、肩で息をしながらへたり込んでいる。
「よくやった松田。お前の食欲が会社を救った」
俺は空になったゴミ袋を畳み、透子に手を差し伸べた。
「約束通り、定時後に焼肉だ。腹を空かせておけよ」
「本当ですね!? 絶対ですよ! ハラミも牛タンも食べまくってやるんだから!」
透子は嬉しそうに飛び起き、残りのゴミ集めを鼻歌交じりに再開した。
「……中川さん」
事態が収束し、自席に戻ろうとした俺の背中を、塔子がツンツンとつついた。
「竹内さん。新入社員の様子はどうですか」
「はい、みんな元気に仕事に戻りました。中川さんのおかげです」
塔子はそう言いながらも、どこか不満げに唇を尖らせていた。
「どうしました?」
「……あの。昨日の私とのデートのお礼はパスタだったのに、松田ちゃんには『特上カルビ食べ放題の焼肉』なんですね」
じとーっ、とした恨めしそうな視線。
どうやら、嫉妬しているらしい。
総務の白百合が、女子高生の食欲に対抗心を燃やしている構図は、見ていて少し面白い。
「彼女は命懸けの囮業務をこなしましたから。危険手当込みの価格です」
「むぅ……。じゃあ、私も今度、もっと危険な目に遭ったら、お高いディナーに連れて行ってくれますか?」
塔子は冗談めかして言ったが、その瞳は本気だった。
「勘弁してください。竹内さんが危険な目に遭うと、俺の残業が確定するんです」
俺は苦笑し、パソコンのマウスを握った。
「でもまあ、今度の連休明けには、もう少し良い店を予約しておきますよ」
「……っ! 本当ですか! 言いましたね!」
塔子の顔が、パァッと花が咲いたように明るくなる。
その笑顔に引き寄せられたのか、それとも俺の心の隙間に入り込んだのか、一瞬だけ胸の奥が温かくなるのを感じた。
五月病の脅威は去った。
俺は定時退社に向けて、伝票整理のスピードを一段階引き上げた。
今夜は透子に焼肉を奢り、財布を軽くした後は、アパートでクロのふみふみに癒やされよう。
時給1200円の派遣陰陽師の日常は、こうしてまた賑やかに過ぎていくのだ。




