第11話 決算期のデスマーチ(後編)
月曜日。午後5時25分。
丸の内商事・8階の総務部フロアは、底なしの沼のように深く淀んだ「決算期の怨念」に飲み込まれていた。
歪む空間、逆行する時計の針、暴走の末に沈黙したコピー機、そして限界を迎えて泣き崩れる総務の竹内塔子。
「業務時間外だ。――ここからは、オプション料金をいただくぞ」
俺は、首元から外したネクタイを右手に固く巻き付け、己の霊力を解放した。
普段は極力抑え込んでいる、安倍晴明の末裔としての「清浄な気」が、青白いオーラとなって俺の全身から立ち昇る。
「な……中川、さん……?」
足元にへたり込んでいた塔子が、信じられないものを見るような目で俺を見上げた。
霊感のない彼女の目にも、俺が放つ異常なプレッシャーが物理的な「風」として感じられているのだろう。俺の周囲半径2メートルだけ、あの息苦しい黒い瘴気が弾き飛ばされていた。
『アアアア……オワラナイ……!』
『ジカンガナイ……カエレナイ……!』
俺の霊力に反応し、フロア中の怨念が実体化を強めた。
社員たちの背中から這い出たドロドロとした黒いヘドロが寄り集まり、天井に届くほどの巨大な「顔」を形成していく。それは、過労と焦燥感に歪んだ、無数のサラリーマンの顔の集合体だった。
(……デカいな。通常の除霊では日が暮れる、いや、夜が明けるか)
個別の怨霊なら、付箋の式神や聖水でどうにでもなる。
だが、この巨大な怨念の集合体は、今現在フロアで狂ったようにキーボードを叩き続けている社員たちの「ストレス」そのものをエネルギー源としているのだ。
彼らが「仕事を終わらせなければならない」という強迫観念に囚われている限り、この魔力供給は絶たれない。
「竹内さん、立てますか」
「あ、はい……っ」
俺は塔子の腕を引き、立ち上がらせた。
「今から、この異常事態を強制的に終わらせます。あなたは総務の責任者として、フロア全体に響く声で、こう叫んでください」
「え……? な、なんて……」
「『全員、直ちにデータを保存しろ』と」
「データを保存……?」
「急いで。猶予はありません」
俺は塔子の背中を押し、フロアの中央に向かわせた。
そして俺自身は、フロアの隅にある目立たない鉄扉――「電気室」へと走った。
「み、みなさん!!」
塔子の、悲鳴のような、しかし凛とした声がフロアに響き渡った。
「今すぐ、作業中のデータを保存してください!! 早く!!」
怒号が飛び交っていたオフィスが、一瞬だけ静まり返った。
狂ったようにエクセルに入力していた営業部の若手も、電卓を叩き壊す勢いだった経理部のお局も、塔子のただならぬ剣幕に手を止める。
現代のビジネスパーソンにとって、「データを保存しろ」という警告は、火災報知器よりも本能に訴えかける緊急指令だ。
フロア中で、条件反射のように「Ctrl+S」のショートカットキーが連打される音が響いた。
(……よくやった)
俺は電気室の扉を開け、中へ滑り込んだ。
壁一面に、各フロアの電源を管理する巨大な配電盤が並んでいる。
ここ丸の内商事の電源は、すべてここを経由して各デスクのPC、照明、空調へと送られている。
そして今、この配電ケーブルを通って、怨念たちの負のエネルギーがネットワークと物理空間を循環しているのだ。
俺はポケットから、赤い付箋と黄色い付箋を取り出し、手のひらでこすり合わせるようにして呪力を練り込んだ。
「これより、物理的および霊的な『強制シャットダウン』を実行する」
俺は、フロアのメイン電力を司る一番大きなブレーカースイッチに手をかけた。
そして、練り上げた二色の付箋を、配電盤の金属カバーに「バンッ!」と叩きつける。
「――急急如律令。全システム、停止!!」
俺は渾身の力を込め、メインブレーカーをガコンッ! と力強く引き下げた。
その瞬間。
フロア中に響き渡っていたPCの駆動音、電話のコール音、空調の唸り声が、一斉に「プツン」と途絶えた。
煌々と点いていた蛍光灯が完全に消灯し、夕闇の迫る窓の外の光だけが、オフィスを薄暗く照らし出す。
「えっ……!?」
「うおっ、停電か!?」
「画面が消えたぞ!!」
フロアから、社員たちの驚愕の声が上がる。
だが、悲鳴ではない。塔子の警告によって直前にデータを保存していたため、「データが飛んだ」という致命的なパニックは免れていた。
『ギャ……アアアア……ッ!?』
そして、霊的な空間にも劇的な変化が起きていた。
電源が落ち、物理的に「仕事ができない」状況に陥ったことで、社員たちの脳内から「終わらせなきゃ」という焦燥感が、強制的に「諦め」へと切り替わったのだ。
「停電じゃしょうがない」「今日はもう無理だ」。
そのポジティブな諦観が、怨霊のエネルギー源を完全に断ち切った。
供給を絶たれた巨大な顔の怨念は、俺が配電盤に貼った呪符から逆流した「浄化の霊力」を真っ向から浴びて、苦しげに身悶えした。
「さあ、お前らも定時だ。帰れ」
電気室から漏れ出した俺の青白いオーラが、一陣の風となってフロアを駆け抜ける。
ヘドロのような怨念は、風に吹かれた砂のようにサラサラと崩れ落ち、チリチリと音を立てて消滅していった。
淀んでいた空気が一気に澄み渡り、息苦しさが嘘のように消え去る。
時間遅延のポルターガイストも解除され、止まっていた壁掛け時計の針が、正しい時刻――17時30分を指してカチリと動いた。
「……終わったな」
俺はネクタイを手に巻き付けたまま、電気室からフロアへと戻った。
薄暗いオフィスの中では、社員たちがスマートフォンのライトを点灯させながら、ざわざわと囁き合っていた。
「おい、ビルの管理室に連絡したか?」
「他のフロアは点いてるみたいです。うちのフロアのブレーカーが落ちたみたいですね」
「マジかよ……。まあ、データは保存したし、この暗さじゃ紙の書類も読めないな」
「……部長、今日はもう復旧無理じゃないですか?」
窓際に立つ部長が、大きくため息をつく。
「……仕方ない。今日のところは解散だ! 決算処理は明日、朝イチから再開する! 全員帰宅しろ!」
その号令を聞いた瞬間、社員たちの顔に、隠しきれない安堵と喜びの色が広がった。
怨霊による異常な精神汚染から解放され、本来の「休みたい」という人間らしい感情を取り戻したのだ。
彼らはそそくさとカバンに荷物を詰め込み、逃げるようにオフィスから退出していく。
「……中川さん」
暗がりの中、塔子がトコトコと俺の元へ歩み寄ってきた。
「これも……中川さんが、やったんですか?」
「俺は何も。たまたまブレーカーが落ちただけですよ。老朽化でしょう」
俺は平然と嘘をつきながら、巻き付けていたネクタイをほどいてカバンに突っ込んだ。
「嘘です。あんなすごい風が吹いたのに。……でも、ありがとうございます。私、本当にどうしようかと思って……」
塔子は深々と頭を下げた。その瞳には、安堵の涙が光っている。
霊感のない彼女には俺が何をしたのか正確にはわからないだろうが、俺が事態を収拾したことだけは完全に悟られてしまったようだ。
「お礼には及びません。それより竹内さん、忘れないでくださいね」
「え?」
「本日の深夜割増込みの残業代、および特殊手当。総務の権限で確実に処理をお願いします。私は時給で動いていますので」
「……ふふっ。はい、もちろんです。私のポケットマネーからでもお支払いしたいくらいです」
塔子がようやく、いつもの柔らかい笑顔を見せた。
「では、私はこれで。明日の朝、ブレーカーを上げるのを忘れないでくださいね」
俺は塔子に背を向け、カバンを肩にかけてエレベーターホールへと向かった。
背中と肩の筋肉が悲鳴を上げている。強大な霊力を一気に放出した反動だ。
だが、気分は悪くない。
(……さて、帰るか。待たせている家族がいるからな)
午後7時。
俺の住む1Kのアパート。
玄関のドアを開けると、『ミャン!』という元気な声と共に、黒猫のクロが足元へすり寄ってきた。
「ただいま、クロ。……今日は少し、疲れたよ」
俺は革靴を脱ぎ捨て、クロを抱き上げた。
小さな体に顔を埋めると、ミルクと陽だまりのような匂いがして、ささくれ立った神経が急速に平滑化されていくのを感じる。
さて、今夜は特別だ。
決算期の異常な霊的パンデミックを鎮めた自分へのご褒美であり、来月振り込まれるであろう莫大な残業代の先食いでもある。
俺はクロを床に下ろし、手洗いうがいを済ませてから、キッチンへと向かった。
エプロンを締め、冷蔵庫からあらかじめ仕込んでおいた食材を取り出す。
今夜のメニューは、『Shrimp dumpling(エビ蒸し餃子/蝦餃)』だ。
ただの餃子ではない。中華の点心において、職人の腕が最も試されると言われる芸術品。
まずは皮の生地だ。
ボウルに浮き粉と片栗粉をブレンドし、熱湯を一気に注ぎ込む。熱で糊化させるのが、あの透明感とモチモチとした食感を生む絶対条件だ。
俺は菜箸で手早くかき混ぜ、粗熱が取れたところで生地を台に出し、滑らかになるまで徹底的にこね上げる。ラードを少し練り込むことで、蒸し上がりの艶が増す。
生地を棒状に伸ばし、均等に切り分けてから、中華包丁の腹を使って円形に薄く、均一に押し延ばす。この「皮作り」の工程は、陰陽術の結界を張るのと同じくらい繊細な集中力を要する。
「よし、完璧な薄さだ」
次は餡だ。
新鮮なブラックタイガーの殻を剥き、背ワタを取り除いてから、塩と片栗粉で揉み洗いして臭みを完全に消す。
水気を拭き取ったエビの半量は粗みじん切りにしてプリプリ感を残し、残りの半量は包丁の腹で叩き潰して粘りを出す。そこに、細かく刻んだ茹で竹の子、豚の背脂、塩、砂糖、白胡椒、ごま油を加え、粘りが出るまで手で混ぜ合わせる。竹の子のシャキッとした食感が、エビの旨味をさらに引き立てるのだ。
透明な皮の中心に餡を乗せ、半月型に折りたたむ。
親指と人差し指を細かく動かし、美しいヒダを刻み込んでいく。最低でも9つ、できれば12のヒダを作るのが理想だ。
俺の指先から、芸術的な三日月型の餃子が次々と生み出されていく。
『ミャオォ……』
足元で、クロがごま油とエビの香りに釣られて立ち上がっていた。
「お前の分はこっちだ」
俺は高級なツナと白身魚の猫缶を開け、クロの皿に盛ってやった。クロは歓喜の声を上げてガツガツと食べ始める。
竹で編まれた蒸籠にクッキングシートを敷き、包み終えた餃子を並べる。
グラグラと沸騰した中華鍋の上に蒸籠を乗せ、蓋を閉めた。
蒸し時間は強火で約5分。長すぎれば皮が破れ、短すぎれば透明感が出ない。
待っている間、俺は冷蔵庫でキンキンに冷やしておいたボトルを取り出した。
『モエ・エ・シャンドン』のハーフボトル。
ポンッ! という小気味良い音と共にコルクを抜き、フルートグラスに注ぐ。黄金色の液体の中から、きめ細かい気泡が一筋の線となって立ち上る。
エビの甘みと旨味には、ビールよりも、キリッとした酸味と果実味を持つChampagneのペアリングが最高に合うのだ。
タイマーが鳴る。
火を止め、蒸籠の蓋を一気に開けた。
ブワァッ! と白い湯気が立ち昇り、キッチンに芳醇な香りが充満する。
湯気が晴れた先には、まるで水晶のように透き通った皮から、エビの淡いピンク色が透けて見える、美しいShrimp dumplingが輝いていた。
「……我ながら、完璧な仕上がりだ」
俺は蒸籠ごとダイニングテーブルに運び、席についた。
まずは、熱々の蒸し餃子を箸でつまみ、何もつけずにそのまま口へ運ぶ。
歯を立てた瞬間、浮き粉特有のモッチリとした皮が弾け、中からゴロッとしたエビの強烈なプリプリ感と、竹の子の小気味良い歯ごたえが弾けた。
ごま油の風味と、豚背脂のコクが合わさり、エビの甘みが口腔内を満たす。
熱い。そして、とてつもなく美味い。
すかさず、シャンパンを一口含む。
冷たい炭酸が口の中の脂をスッキリと洗い流し、柑橘系の爽やかな香りが、エビの余韻をさらに華やかなものへと昇華させる。
「……最高だ」
俺は深く椅子に背を預け、天井を見上げた。
会社での阿鼻叫喚の地獄が、遠い過去のように思える。
時給1200円の派遣社員が、霊力を使い果たして世界を救い、自宅でプロ顔負けの点心とシャンパンを楽しむ。
なんと奇妙で、そして贅沢な日常だろうか。
『ミャ!』
猫缶を平らげたクロが、満足げに口の周りを舐めながら、俺の膝に飛び乗ってきた。
そして、俺の太ももの上で、再び「ふみふみ」を開始する。
「おい、クロ。エビは猫には消化に悪い。お前にはやれないぞ」
俺はそう言いながら、クロの柔らかい背中を撫でた。
決算期のデスマーチは、物理的なシャットダウンによって強制終了させた。
明日からはまた、平穏な定時退社ライフを取り戻すための、地道な戦いが始まるだろう。
俺は二つ目の餃子を口に運びながら、心地よい疲労と満腹感に酔いしれていた。




