見えない傷と、絆創膏。
ぱりんっ――!
突然、耳にきん——っと響く大きな音が聞こえて、意識を急浮上させられた。
「……っえ、何っ!?」
覚醒したばかりの頭では、状況を一瞬で上手く飲み込めず、体を起こして辺りを見回す。
その時……キッチンの方から、喘鳴のような音。
次第に荒い音の中へ、微かに笛のような音も混じり始める。
――あれは、過呼吸だ。
「……っ」
脳が危険信号を察知し、勢いよく立ち上がったことで、世界が少しだけ揺れた。
歪んだ視界には気づかないふりをして、俺はそちらへと駆け寄る。
「……は、……ぁう、っ……」
見えた足元から連想した相手に、僅かに動揺してしまう。
「湊……!」
誰よりも強靭な肉体を持つ彼の、滅多には見ることのない姿。
口元を手で覆っているが、間に合わなかったのか吐瀉物で汚れてしまっている。
「……っお、ぇ……か、は、っ」
背中を大きく震わせて気持ち悪さを吐き出そうとするその姿に胸が締め付けられ、いても立ってもいられず、そばへとしゃがみこむ。
――俺が焦っては、だめだ……落ち着け……。
早鐘を打つ心臓にそう言い聞かせて、必死に落ち着けた。
「っ、……やめ……」
フローリングを引っ掻くように藻掻き苦しむ湊が発した、掠れた声。
そっと背中へふれてから、声をかける。
「……湊、落ち着いて、だいじょうぶだからね」
過呼吸には、何よりも不安が伴う。
息の仕方がわからなくなって、末端から温度が失われ始めると、無数の針に刺されているみたいな痺れが襲ってくる。
段々と冷静な判断がつかなくなってきて、このまま死んでしまうのではないか……。
そんな恐怖に襲われるから、特別なことなんて出来なくても、誰かがそばにいてくれるだけで安心できるんじゃないかと俺は思っている。
だからこういうときは、出来るだけそばにいるようにしていた。
「ゆっくりでいいから、俺のリズムに合わせて息吸おうね」
軽くリズムを取るように、背中を優しく叩く。
「はいて、吸って……そう、上手だよ」
そうしているうちに、少しずつ湊の呼吸は落ち着いてきたようで心の内では少し安堵した。
「……だいじょうぶだよ、湊」
俺はそう、声をかけ続ける。
そして息も整い、落ち着いてきた頃。
体を支えながら、汚れていないところへと湊を座らせる。
どこか虚ろな瞳は揺ら揺らと彷徨っていて、その視線を同じように辿っていくと、湊の手から血が滴っていた。
そして視界の端に見えた、割れたお皿の破片にも真っ赤な血。
「湊、血が出てる」
声をかけても、どこか曖昧な返事の湊。その姿はまるで心が、ここにないみたいで。
出会ったばかりの頃の葵の姿と重なって、嫌な汗が背中を伝う。
そんな時、玄関からドアの音——。
それからすぐに、燎の声が聞こえた。
ちょうど燎からは、俺たちの背中しか見えない。だから近付いてきて、状況を把握した瞬間。燎の声のトーンが、ひとつ下がったのがわかった。
「……過呼吸?」
その言葉に、俺は首を縦に振る。
「燎、とりあえず……濡らしたタオル持ってきてもらってもいいかな?」
まだ少し不自然な呼吸を繰り返す湊の背中をさすりながら、燎にお願いする。
それだけで意図を把握してくれた燎は、お湯で濡らしたタオルを二枚持ってきてくれた。
それを受け取り、一枚目で湊の怪我の辺りを軽く拭って、それから反対の手も綺麗にし、二枚目で汚れてしまった口元を拭う。
その時見た湊の表情は、強張りが少し解けてふわりと綻んだように見えた。
燎にお願いして湊をお風呂へと連れて行ってもらい、その間にキッチンを片付ける。
割れてしまったお皿の小さな破片も見逃さないように、掃除機を引っ張り出してきて、念入りに。
フローリング用の粘着クリーナーも、念のためにかけておいた。
昔一度、割ってしまったお皿の破片を見逃してしまったことで、桜が怪我をしたことがある。
その時は遊んでいて、偶々見つけたガラスの破片に触って、手を切ってしまった。
傷自体は大したことはなかったけれど、急に血が出てびっくりしたのか、大きな声で泣いて調とふたり慌てふためいた苦い記憶がある。
――あの時は、ほんとに焦ったなぁ……。
そんなことを考えながら手を進めていれば、いつの間にかリビングの床は何もなかったみたいに、元通りになっていた。
確認のため手のひらで、辺りにふれて完全に除去できたことを確認する。
そうしていたとき、燎が戻ってきた。
「ねぇ……湊、どうしたの?」
「わかんない……急に、過呼吸を起こしたみたいで」
「過呼吸」と一口に言っても、起こる原因は様々で簡単に判断はできない。
そして原因は本人に聞いてみても、わからないこともある。
だけど嘔吐を伴う酷い過呼吸となると、病院を受診させたほうがいいかもしれない。
――もしかしたら、ここへ来るまでの記憶が何か関係しているのかも。
そんな考えが一瞬、脳裏を過った。
――もしそうだとして、それが湊にとって苦しい記憶なら、いっそ忘れてしまったほうが……。
「綴……?」
「あ、ごめん……俺、ちょっとパントリーから水取ってくるよ」
「え、あ、うん……」
「湊が出てきたら、ソファに座らせてあげてくれる?」
「わかった」
そう言ってキッチンの横にある扉を開けて、食料を備蓄してあるスペースへと足を踏み入れる。
うちは人数も多く、食べ盛りの子もいるから、食料はいくらあっても足りない。
「水、水……あった」
冷蔵庫の中には冷えたものが何本かあったはずだけど、今の湊に冷たいものを飲ましたら、また胃がびっくりしちゃう。
――あとはストローもあるといいかも……確かまだあったはず……。
棚を開けると目的のものは直ぐに見つかって、蓋を開けストローを差してから戻ると、湊はソファに座っていた。
「湊、水分補給できそうかな?」
水を差し出すと湊は受け取ろうと手をのばしてくれたが、その指先にはまだ震えが残っていて、俺はそっと湊の口元に、ペットボトルを近付けた。
支えながらではあったが、きちんと水分を取れたことに安堵しつつ、先に燎が手当してくれたであろう手の傷へ視線をやる。
不意に下がった湊の視線に気付き、同じように辿った先に見つけた足の傷。
じわりと赤が滲むそこにも、絆創膏を貼った。
「お部屋で横になる? それともここにいる?」
とにかく今の湊には、休息が必要だと思う。
「……ここにいても……いい、ですか……?」
「もちろん、何かあったら遠慮なく声掛けなね」
横になっている湊の体にブランケットを掛けると、眠るのを嫌がる小さい子のように、クッションへ顔をうめていたが、しばらくすると寝息へ変わった。
――とりあえず眠れたから、大丈夫そうかな。
どうか怖い夢なんて見ずに、穏やかに眠れますように――。
そんな願いを込めながら、前髪を避けるようにそっとふれた。
◆
「……湊、何か思い出したのかな」
燎が珈琲を片手に、小さく呟いた。
「……かもしれないね……」
俺もマグカップを両手で包み込み、目を細める。
――元々、湊が来た時の状態は酷いものだった。
全身の怪我に軽度の栄養失調、それに衰弱。そのうえ雨に振られ、全身はずぶ濡れ。
湊の人よりも強い体がなければ、助からなかったかもしれないと……当時、和は言っていた。
その状況から考えても、湊の過去はきっといいものではない。
調の話によれば、とある施設で強制労働をさせられていた可能性が高いかもしれないというが、その施設を調べようとしても、一切の記録が残っていなかった。
ようやくその存在に辿り着いたときにはすでに、施設があったとされる場所は更地になっていて、湊に辛い思いをさせたやつらを、見つけることすら出来ない。
その事実に、悔しさしかなくて。
だけどそれと同時に、辛い思いをこれからは一切しなくて良いように、必ず守ろう——。そんな気持ちが俺の中には、芽生えていた。
そして湊だけに限ったことではないが、リヒトでは基本的に過去について話すかどうかは本人に委ねられている。
だから誰も湊の記憶について無理にふれることはなかったし、実際十年近く本人が思い出すことはなかった。
それに正直、少し安心していたところはある。
辛い記憶を封印したままでも、心穏やかに過ごせるのならそれでいい。
過去がどんなものでも、俺たちと一緒にいる時の湊が本当の姿なのだと。
「湊が辛い思いをしなければ、いいんだけど……」
燎のその言葉に尽きる。
「そうだね……」
例え湊が記憶を思い出しても、思い出さなくても、俺たちにとって大切な仲間である事実が、変わることはない。
一番重要で俺たちが望むことは「湊が辛い思いをしないこと」ただ、それだけ。
燎との会話は途切れ、静けさが空間を包む。
芳ばしい珈琲の香りだけが唯一、はっきりと現実の存在を主張しているみたいだった――。
◆
咄嗟の出来事に神経物質が多く分泌されていたのか、急激に体の怠さが戻ってくる。
——確か、アドレナリンと……ノルアドレナリンだったかな。
そんなどうでもよい思考が、頭の中をちらつく。
幸いというか……燎は少し前に自分の部屋へ戻っていて、リビングには俺と眠っている湊だけ。
――少しだけ……。
マグカップを離れたところへと避けてから、ダイニングテーブルへと突っ伏して目を閉じる。
部屋に戻って横になりたいけど、そんな気力すら俺の体には残っていないみたいで、意識が少しずつ遠のいていく。
――こんなところ見つかったら……また、調に怒られちゃう……。
一瞬、眠っては……すぐに目覚めるというのを、何度か繰り返していたとき。
「……綴?」
不意に俺の耳へ、悠の声が届いた。
「……は、るか?」
ずしりと重い頭をゆっくりと持ち上げ、視線が絡んだ瞬間——。
悠の目が、僅かに見開かれた。
「え……綴、めっちゃ顔色悪いよ……部屋行こ?」
そう言って有無を言わさず、悠の肩に腕を乗せられて体を支えられる。
「抱えられなくてごめんね……体重かけてきて大丈夫だから、部屋まで頑張って」
悠の体格的に俺を完全に抱えるのは、難しい。
「……ごめ……」
譫言みたいに呟いて、悠に支えられながら必死に足を動かして階段を登る。
部屋に入り、ベッドに横へとたわると底なし沼に引き込まれるようにマットレスに体が沈み込む。
それに引きずられて、意識も引っ張られていく。
「……悠、湊が過呼吸を起こしちゃってリビングで寝てるから、そばにいてあげて……おねがい」
何とかその言葉を、口から外の世界へと落とす。
「わかった。綴は大丈夫なの?」
「俺は、だいじょうぶ。湊が起きたら、胃に負担をかけないように温かい飲み物を飲ませてあげて……それから、怖い夢を見るかもしれないから、もしそうなったら……」
「わかってるよ、綴。いつも綴がしてくれることをしたらいいんだよね?」
「……そう、ありがと……おねがいね」
もう遅いかもしれないけれど、出来るだけいつも通りの笑みを浮かべる。
たぶん湊のことで結構、焦っちゃったから……それで体が少し怠いだけ。
少し眠れば、もとに戻る。
だから、きっと大丈夫――。
そう思うしか、俺にはなくて。
「綴のスマホ枕元に置いて置くから、何かあったらこれで俺を呼んで、約束」
小指を繋がれる。小さい頃から、何かを約束するときに必ず行う仕草。
「ん……約束」
そう言って、俺も小指に力を込める。俺の意識はそこを最後に、完全に途切れたのだった――。




