伝えなかった事実と新たな決意 調side
ブブッ――。
悠から連絡が来たのは、帰りの電車内だった。
「湊が少し酷い過呼吸を起こしたみたい。それを綴と燎が介抱したけど、綴もたぶん朝から体調崩してたのに無理してた」
俺はその文面に眉を寄せる。
――湊が過呼吸を起こすのは……珍しい。
――それに綴もか……朝の時点では、問題なさそうだったんだがな……。
心の奥に重たいものを落とされたような感覚がしたが、頭の中を何とか切り替え、必要そうなものと足りないものをスマホのメモ機能にリストアップしていく。
急な体調不良の連絡は特段珍しいものではないが、上がった名前が名前なだけに、心が少し波立つ。
悠からの返信には「綴が湊の胃に負担が掛からないようにって言ってた」とあったから、胃に優しいものが必要。
――りんご……うどん……それからスポーツ飲料……みかんか、桃の缶詰なんかもあるといいかもな。
俺は帰ってからの動きを思い描きながら、最短で買い物を終わらせて、アジトへの帰路を急いだ――。
◆
「……ただいま」
足を踏み入れたリビングには、湊と悠、和、燎の姿。
ちょうど和が湊の診察をしている最中で、燎と悠はそれを少し離れたところから見守っている。
「おかえり、調。その荷物もらうよ」
俺の帰宅に気付いた悠が、そばまで来て持っていた買い物袋を受け取ってくれた。
「ありがとう、悠。二人の様子は?」
「湊は見ての通り、今は落ち着いてる。綴のとこには、桜がいるよ」
「……そうか」
「あと、葵が弥のそばにいてくれてるみたい」
悠の無駄のない報告で、状況の大枠は把握できた。ここから見える和の様子からしても、取り急ぎの問題はないのだろう。
それに弥の方も、特に大きな問題は起こらなかったようだ。
あとは……綴の方か。
「湊、調子はどう?」
タイミングを見て、湊の方へ向かい声を掛ける。
「今はもう、大丈夫です」
「……そうか、無理はしなくていいから、今はゆっくり休め」
湊の顔色は、お世辞にもよくはなくて。少し疲れたような……まだ本調子ではない様子なのが見て取れる。
「……はい、ありがとうございます」
隣りにいる和も、何とも言えない表情を浮かべていた。
――今は落ち着いてるとはいえ、和の反応からして、よほど……起こした発作は酷いものだったのかもしれない。
「和、後で弥の分と合わせて所見を教えてくれ」
「わかった、後でまとめて持っていくね」
「頼む。湊の任務は俺の方で調整しておくから、気にしなくていいからね」
そう言って俺は和と湊、順々に視線を送ってから、俺は三階フロアへと足を向けた。
階段を上がり、まず綴の部屋の扉をノックすると中からは、桜の声。
「……様子はどうだ」
「今のところは、とりあえず大丈夫。熱もないし、少し前にまた眠ったとこ」
潜めた桜の声を聞いてから、こちらに背を向けて眠る綴の表情を覗き込む。
聞こえてくる寝息は穏やかで、表情にも辛そうな色はなく、それを見た瞬間。自分の体から力が抜けるのがわかった。
そっと額に触れてみても、そこに熱はない。
「……よかった」
「ねぇ、調……調査は、どうだったの?」
桜の目は真剣だった。
「結果から言うと、あのカフェに覚という女性はいなかった」
「え……いなかった……?」
「……あぁ。ホールには話を聞いた女性と大学生の男性が二人。それと調理スタッフとして、男性が二名。後にも先にも、その名前の女の子はいないと言っていた」
桜は俺の言葉に、絶句していた。
「だから今、縁に監視カメラ映像を集めてもらってる」
「え、待って……僕、理解が追いついてない……どういうこと、綴はあの子と話してて……」
普段、比較的冷静に物事を対処することのできる桜の珍しく動揺した様子に少し違和感を感じてしまう。
「桜、落ち着け。綴が起きる」
「……あ、ごめ、なさ……」
「何か、あったのか」
体温を分け与えるみたいに背中を往復するようにさする。落ち着かせて一旦、桜を連れて部屋を出た。
そのまま隣りにある俺の部屋へ連れていき、話を聞く。
「……綴が昨日のカフェのこと……覚えてないって、言ってたの」
「……覚えてない?」
「うん……今朝の時点で、店員さんと話したことすら思い出せないって」
そう言った桜の声は、震えていた。きっと頭の中は、綴に起こっていることへの不安でいっぱいだったのだろう。
詳しく話を聞くと、綴とは対象的に桜の方は、はっきりと覚えているらしく……特に違和感のようなものはないという。
今朝の事件と同じく、何か二人の行動には違いがあったはず。
――声を聞く……目を合わせる……姿を見せる……会話を交わす……。
「……桜、お前は昨日、その店員と話をしたか?」
「いや、話してはない。目はあったけど……」
桜は詳細を思い出そうと視線を彷徨わせる。
「……そうか……桜、三十分後に和に綴のこと診てくれと伝えてきてくれるか」
「……わかった」
桜はなにか言いたげではあったが、頭を撫でると唇をぐっと噛み締め、小さく頷いてから部屋を後にした。
桜は綴と「覚」という子が話しているのを聞いていた。そうなると、必然的に「声を聞く」は候補から外れる。
それに目を合わせるというのも、今の桜の話からして違うということが少なくとも確定した。
匂い……フェロモンといった、見えないものの可能性も捨てきれない。
たがそうなると、あまりにも無作為すぎる。それに、桜の記憶に変化はないから、もっと直接的な何か……。
何かしらの身体的接触……会話……。
――だがそれが事実なら……発動が容易すぎる。
そのレベルの能力を何のサクリファイスもなしに、発動できるのか。
もしそうだとすれば、能力としてかなりの脅威となりえる危険なもの。
――とてもじゃないが、厄介すぎる……。
自然とため息が、溢れてしまう。今はとにかく、目の前のことを考えるしかない。
忍び寄る脅威に、未知の能力を所持するギフトの存在。
困難ばかり。それでも……。
――綴は、俺が絶対に守る。
◆
それから弥の部屋へ向かうと、体調は順調に回復しているようで葵と仲良く話をしていた。
その様子に一安心して、二人と一緒にリビングへと降りる。
燎と悠が晩ごはんの準備を進めてくれていたから、俺は湊と弥のために買ってきたうどんを煮込み、りんごをすり下ろした。
それから俺も食事を取り、こうしてまた綴の部屋へと戻って来た。
穏やかな寝息を聞きながら、和の報告所見に目を通す。
湊のページには、発作時の詳細。
呼吸の乱れ。発汗。軽度の四肢震え。嘔吐、一度。一時的な意識の軽微な混濁。手足に切り傷、二ヶ所。
ガラスの破砕音が、発作の引き金になった可能性あり。
過去記憶想起による、急性ストレス反応の可能性も考えられる。
発作後、仮眠より覚醒した際に、悪夢を見たとのこと。その折、大量発汗と動悸。倦怠感、指先の震え。
腕を抑えられた感覚や、地面の冷たさ、命令口調などの声を夢の中で体感した。
経過観察推奨――。
「現時点で断定はできないけれど、ただの過呼吸というだけではない可能性の方が高いと思う」
和が資料を持ってきてくれた時に言った言葉が、脳内で再生される。
「記憶想起……か」
――湊の中で、確実に何かが動き始めているのだろうか。
読み終えた紙を揃え、サイドテーブルに置いた。深く息を吸い、椅子の背もたれに体重を預ける。
今から十二年前――。燎と悠が湊を助け、連れて帰ってきたあの日。
俺は縁に湊の詳細な身元についての調査を依頼していた。
それから一週間ほどが経った頃。俺は縁に呼び出され、指定の場所に向かった。
何の変哲もないカフェ。
「よう、調。お前また面倒事、引き受けたなぁ……」
縁の第一声は、いつもと変わらない軽薄そうなもの。
それからテーブルの上に、数枚の紙が無造作に置かれた。
俺は特に返答を返さずに、視線を落とす。
そこには、リストアップされた住所が並んでいる。
「とりあえず、三件までは絞れた」
縁は向かいで珈琲に口をつけながら、そう言った。
「お前が言っていた場所に近い条件で洗った結果が、それ」
近い条件……という言い方に、わずかな引っかかりが残る。
それは……完全には一致していない、という含み。
「で、そのうちの一件がかなり怪しい。だが……ここだ、と断言するには、今ひとつ足りない。だけど俺はそこが探している場所じゃないかと思っている」
俺は一枚を手に取った。リストの一番上の所に赤いペンで書かれた星のマークがひとつ。
そこに記載されているのは、古い施設の登録情報。用途欄には、簡素な文字が並んでいる。
——更生支援施設……。
その一行だけが、妙に浮いて見えた。
「……そうですか」
実際に能力を使って犯罪を起こしたギフトを収容する更生施設というものは、存在する。
だがその運営管理の権限はリヒトにあり、民間には一切を委託していない。
「運営元は不明。それに登録こそされているが、名義が頻繁に変わっている」
縁は静かに言葉を重ねていく。
「……偽装、ということですか?」
俺は、視線を上げる。
「断定はできない」
即答――。淡々とした口調のまま、縁は一枚を指で押さえた。
「一応関係者を当たってみたら、ひとりだけ現場にいたというやつに繋がった」
「……話は聞けたんですか」
「あぁ。だが表面的な……作業内容、勤務形態くらいの程度だけどね」
一拍置く。
「働いてたやつらも何も知らされてなかったみたいで、指示は来るが、誰からかは分からない。連絡手段も統一されていない」
「……そんな形で組織が、回るんですか?」
「そんなでも、回っていたんだろうねぇ……」
軽薄な言い回し、だけどそこに迷いはない。
「まぁ少なくとも、記録上……だけどね」
紙の端を軽く叩く。
「一定期間は稼働しているし、人の出入りもあった。だけど既に建物は解体済み。土地はすでに更地になっている」
情報は揃っているはずなのに、輪郭はどこか曖昧なままだった。
「おそらく記録が残る前に消えている……」
そこで一度、縁は言葉を切る。適切な表現を選ぶような、僅かな間。
「……もしくは、湊が逃げたことによって消されたか」
顔を上げた先に見えた縁の視線は、変わらず静かだった。
「辿れないように……ですか」
「まぁ、結果としてはそうなるよねぇ……」
断定もしないが、外してもいないような言い方にしばらく沈黙が落ちる。
俺はゆっくりと資料をテーブルに戻す。紙の擦れる音だけが、微かに響いた。
「……湊が命を狙われる可能性は」
「……ない、と断言はできないね」
その声のトーンが、僅かに低くなったことを俺は見逃さなかった。
「湊が自分の身を守れるようになるまでは、注意が必要かもしれない」
――和のように、保護の必要性がある。
「……そう、ですね」
短い返答に留め、それ以上は続けなかった。縁は一瞬だけこちらを見て、視線を外す。
「必要なことがあれば、協力するから遠慮なく言え」
そんな必要最低限の言葉の後、縁は続ける。
「それにもし、湊に何かあったら俺も困るからな」
その言葉に少しだけ驚いた。普段は軽薄な話し方なのに、それとは全く違う真剣な声。
――この人もそんなことを考えるのか。
どこか人並み外れた雰囲気をまとう縁の貴重な人間らしい所を見れるとは思わなかった。
「……あなたがそんな事を言うの、珍しいですね」
俺が眉を動かしながら言うと、すぐにいつもの挑発的で軟派な様子へと戻る。
「えーそうかなぁ、俺はいつも仲間思いでしょー?」
「……そうですか」
「もぉ調、面倒になったからって適当に返さないでよ……まぁお前のそれは今更珍しくもないけどぉ」
縁はそんなふうにわざとらしく戯けながら、立ち上がった。
「……だけど、万が一……湊が記憶を思い出したとしてそれがよくない方に転がったときのことも覚悟しておけよ」
背を向けたまま振ったその手には、伝票。
テーブル上の紙には相変わらず整った情報が並んでいて、俺はその情報と共に取り残される。
俺は資料を無言で鞄へと仕舞い、店を後にしたのだった――。
◆
部屋の中に、微かに聞こえる綴の寝息。
綴の部屋に来る前に、自室から持ってきた過去の湊に関する資料。
登録番号、所在地、使用期間、名義変更の履歴。表面上は、よくある実体の薄い施設。
珍しくもない。名義を変え、用途を変え、責任の所在を曖昧にする箱物など、この街にはいくらでもある。
問題は、そこではない。
あの後、追加で縁から届いた新たな情報の羅列。
そのうちの一枚を手に取り、視線を走らせる。
正確な名義変更の数は三度。
管理会社は別々で、連絡先なんかも全て使い捨てに近い番号だった。
口座は閉鎖済み。担当者は退職、あるいは所在不明ばかり。
——不自然すぎる。
痕跡を消した人間は、大抵どこかで欲が出る。
金、地位、名誉。そしてその綻びから、線が見える。
けれどこの件には、それが全くない。丁寧すぎるほど丁寧に、何も残っていない。
俺は資料を置き、背もたれに体重を預ける。
最初に違和感を覚えたのは、現場写真だった。解体前に近隣業者が撮った外観。
ただの古い建物。
窓は曇り、壁は汚れ、看板もない。
一定人数が出入りしていた記録や、搬入車両も確認できる。
電気使用量もゼロではない。なのに、人がいた気配だけが乏しい。
洗濯物もない。私物も見えない。雑然とした気配がない。
「使われていた建物」ではなく「使われているように整えられた建物」
そこまで考えて、俺は目を細めた。追加の資料の存在のことを綴には言っていない。
確証のない違和感を渡しても、余計に揺らすだけ。だからあえて言わなかった。
それともうひとつ、伏せたことがある。
関係者への聞き取り。元従業員だという男が見つかり、そいつは仕事内容を淀みなく話した。
荷運び。清掃。仕分け。厳しかったが、職場自体は普通のものだったと。
だが、誰が現場を仕切っていたかを尋ねた瞬間、沈黙した。
忘れたのではない、答えを選んでいるような様子。
突然、男の目の焦点が揺れ始めて、忽ち顔面蒼白という言葉がぴったりなほど変わっていく。
震える声で、こう言った。
それだけは、言えません――。
俺はその時の声を思い出す。まるで悪夢を植え付けられたような怯えた声。
次の瞬間、焦点の合わない目が宙を彷徨い、唇を震わせ胸元を掴んだまま、椅子ごと倒れ込んだ。
「た……すけ、……」
全身が痙攣し、男は数秒後には動かなくなり、すぐにその場から病院へと搬送されたが、数時間後に死亡が確認された。
検死の結果は心不全による自然死だと診断が下ったが、原因は不明。外傷や毒物反応も検出されず、既往歴や致命的な疾患なども見当たらなかった。
強い精神的負荷による、突発的な心肺停止。
俺はあの時に見た最後の助けを乞い願うような、男の目が忘れられなくて。
そして一瞬、僅かに男がその場にいない誰かに怯えたような仕草を見せたことを強く覚えている。
当時、どれだけ調べてみても……それ以上は何もわからなかった。
――この事実を湊にも話すべき時が、来てしまったのかもしれない。
考えないといけないことが山積みで、少し目が回りそうになる。
綴の記憶の欠落。湊の体調不良。人体溶解事件。
どれも別件だと切り分けるには、引っかかるところも多くあるし、偶然にしては出来すぎているような気がして。
俺は、机上の端末に視線を落とす。古い監視記録への照会。施設周辺の防犯データ。当時の搬入経路図。
湊の過去。綴の崩れた記憶。そして、今も何らかの思惑で動いている人体溶解の能力を持つギフト。
気付けば、無意識に指先を握り込んでいた。
守る、と決めた相手がいる。そのために必要なら、どんな茨の道でも進むつもりだ。
けれど……もしこの先が綴や湊、弥にとって、辛い事実へと繋がっているなら。
巻き込む形で真実を渡してしまうことになるかもしれない。
それは、本当に守ることなのか。
俺は迷いを霧散させるように、小さく息を吐く。迷いを長く置く性格ではない。
俺はスマホを引き寄せ、縁宛に一件のメッセージを打ち込む。
話があるので、時間を作ってほしいです――。
送信ボタンを押し、画面を暗転させて資料と一緒に机の上に置いた。
そのまま立ち上がり、綴のそばへと近付く。
額にかかった前髪を避けて、顔色を確かめる。やはり熱はなさそうで。
「……お前のことは、俺が守る」
殆ど聞こえないくらい小さな声で、呟く。
俺には考えもつかないことをあっけらかんとやる綴のことを、理解できないこともあった。
だけどそれでもこいつから離れるという選択肢が、俺の中に生まれることはなくて。
近くの椅子を引き寄せ、ベッドのそばへと置き、腰を下ろす。
腕を組んで、背もたれに体重を預ける。
「……今ある穏やかな日常を、絶対に壊させるわけにはいかない」
俺の決意と、綴の寝息だけが静かな部屋に響いていた――。




