第6章:想いを告げる -6
「ネリネ王女殿下、お待たせしてしまって申し訳ありません。こちらが先日、ご依頼を受けて進めた調査の結果です。なにぶん急ごしらえなもので、まとまりに欠けるかもしれませんが」
「いいえ、充分だわ。ありがとうシアーズ子爵、無理を聞いてもらって。さっそく確認させてもらうわね」
ネリネの執務室に現れた老子爵から提出されたのは、各地方の市場に出回っている穀物の価格について記された書類だった。書類には近頃の価格のほか、前年の状況や今年の天候にもとづいて、今後どのように価格が移り変わっていくかの予測について、子爵がまとめた記述がある。
ここは王宮中心部。
執務に携わる歴代の王子王女に使われてきた執務室。
ネリネは書類にざっと目を通してから、執務室の右手にある机に目を向けた。そこではダリルが、ネリネが命じた資料の作成を進めてくれている。
「ダリル、少しだけいいかしら。こちらに来て」
「はい、姫様」
「ここのところなのだけど、あなたはどう思う? 私はメレディスの市場がよいと思うのだけど、隣のアマーストの方も気になるの。この地方はあなたの方が詳しいと思うから……」
書類を見ながらダリルと二言、三言相談を交わし、ネリネは決める。
「お待たせしてごめんなさい、子爵。アマーストにするわ。あなたの予測したこの時期に買ってちょうだい」
「わかりました、そのようにいたします。それでは……」
老子爵が退出したそばから次の来訪者が現れ、ネリネはその対応を始める。
一方、執務室を辞した子爵は庭園へと足を向けていた。
王宮の棟に囲まれるようにして広がる庭園では、晩秋の柔らかな陽差しを浴びて、コスモスやダリアの花が揺れている。
そこに設えられたベンチに座り、読書をしていた老婦人が、子爵に気づいて顔を上げた。
「あら、あなた。ネリネ王女とのお話は終わったの?」
「ああ、終わったよ。そろそろ日暮れだ、早く家に帰らなければね。……それにしても、口数の少ないのは相変わらずだが、あんなに立派に受け答えをなさるようになって。近頃の王女はずいぶんと変わられたようだ。弱虫姫などと侮っていた、私の見方を改めねばならないな」
「ネリネ王女のこと? それならわたくしも思っていたわ。先日のパーティでお会いした時も、以前よりずっと明るい表情をなさっていたもの」
「おお、お前もそう思っていたか」
「確か、ネリネ王女が専属の騎士を迎えられたのは今年の春だったかしら。うふふ……やっぱり王女を変えたのはきっと、恋の力ですわね」
「ダリル君のことか。彼も優秀な青年だよ。出自を聞いた時は、陛下も騎士団も何をお考えになっているのかと呆れたが、私が間違っていたようだ。……って、お前、今何と言った? 王女を変えたのが何だって?」
「あら、恋だと言いましたのよ。少なくとも、わたくしの周りでは皆そう噂していますわ。しかもネリネ王女の意中の方は……いけない、あなた、続きは馬車に戻ったらにしましょう。まさかこんな、誰の耳があるかもわからない場所で話すわけにはまいりませんもの」
本を閉じた婦人に急かされ、子爵は庭園を去っていく。
背後ではそよ風に吹かれ、秋の花々がふわりと優しい香りを漂わせていた。
「姫様。俺の方はこれで手が空きました。他に今日のうちに進めておくものはありますか?」
「私ももうすぐ終わるわ。他のものも、明日進めれば大丈夫よ」
いつのまにか窓辺には西日が差し、執務室の本棚には黄昏色の影が差しかかっていた。
来訪者の応対もすべてこなした。今、手にしている書類を完成させ、明日の予定を確認すれば、今日の執務はこれで終わりだ。
しばらくして、書類ができあがった。明日までにすませなければならない案件も、間違いなく仕上げてある。今日も何事もなく、すべての仕事を終えることができたのだ。
安堵から小さなため息をついて、ネリネは言った。
「これで、終わったわ。今日もありがとう、ダリル」
言いながら、ネリネは心臓がとくんと跳ねるのを感じていた。
……数か月前に過ぎ去った夏。
ダリルと想いが通じ合ってからというもの。
一日の執務の終わりというのは、ネリネにとっても、ダリルにとっても、特別な瞬間を意味するものだからだ。
おそらくはダリルもネリネと同じ思いでいるのだろう。もうずっと毎日のことなのに、ダリルは今も、かすかに頬に朱を浮かべて戸惑いを見せる。けれどやがて、この上もなく優しく穏やかな微笑みをネリネに向けて、彼は言うのだ。
「はい。今日も、お疲れさまでした。……ネリネ」
――執務を終えたら、騎士としてではなく、普段と同じように接してほしい。
ありったけの勇気をかき集めてダリルに申し出た時のことを、ネリネはありありと思い出せる。
あの日、あの時、ダリルは一瞬ぽかんとしてネリネに尋ねてきたものだ。
『普段と同じように、ですか? それはどういう……』
『……その。姫様、じゃなくて。私のことを、名前で呼んでくれたらって。それから……できたら敬語も、なくしてくれたら、と……』
『な、名前でですか?』
『もちろん、いつもというわけじゃないわ。周りに誰もいない時……執務が終わった後とか、それだけでいいの。……だめ、かしら』
『それは……』
上ずり、困惑した声を上げるダリルの顔を、まともに見ていられない。
今にも火が出そうなほどに頬が熱くて、ネリネは早くも申し出たことを後悔し始めていた。
だからネリネは耐えきれずに、慌てて首を横に振ったのだった。
『ご、ごめんなさい。こんなこといきなり言われても迷惑よね。やっぱり、私が今言ったことは忘れて――』
『いえ、あの、違います! 迷惑などではありませんが、やはりあなたに対して敬語を使うなというのは……。俺はあなたの騎士で、従者だというのに』
『そんなことないわ。あなたは確かに、私に従う立場だけれど……私の、好きな人で。……恋人、でしょう?』
『………!?』
『だから、私……王女と騎士じゃなくて……普通の恋人どうしみたいにあなたと話してみたくて、それで……!』
もう、限界だった。
立っていられなくなるくらい恥ずかしくなって、顔を両手で覆いながらその場にうずくまる。
(やっぱり、こんなことお願いするんじゃなかった……!)
……けれど、やがて。
ネリネと同じくらい気恥ずかしそうに、ダリルからかけられたのは、
『……あなたには、本当にまいってしまうな。そんなことを言われたら、あなたをもっと愛おしく思わずにはいられなくなってしまう』
ふわり、と優しく抱き寄せられる。
やがて聞こえてきた声は、あまりにも甘く胸の底に染み渡っていった。
『わかった。あなたと二人だけの時は、この話し方をさせてもらう。……その。これで、いいだろうか……ネリネ』




