第6章:想いを告げる -5
……いったい何が、ネリネを駆り立てたのだろう。
真夜中がもたらす暗闇の深さか。それとも、はるか遠く、星の一つも見えない暗い空。そこで冴え冴えと灯る月の姿に、言い知れない孤独の影を見たせいか。
冷静に考えれば、そんなことはありえはしないと、子どもでもわかるはずなのに。
「姫様……?」
頭上から、激しい動揺のにじむダリルの声が聞こえてくる。
彼からしてみれば、当たり前のことだろう。
ネリネは自分自身ですら説明のできない衝動に駆られて、ダリルを抱きしめてしまっていたのだから。
……そう。そんなことは、ありえはしない。説明なんて、できるはずもない。
こうしなければ、このまま彼が暗闇の中に薄れて消えてしまうのではないかと、そんな恐れに駆られてしまったなどと――
「……私は」
今すぐに、ダリルから離れなければいけないことは、わかっていた。
今すぐに離れて、突然はしたない振る舞いに出たことを謝って、許しを請わなければならないと。
それなのに。
「私は、あなたがそんなふうに悲しそうにしているのは、嫌だわ」
離すことは、できなかった。
それどころか、背に回した手にそっと力を込めてしまう。
無遠慮な問いだとわかっているのに、それでも、ダリルに尋ねてしまう――
「教えて。あなたがそんなにも恐れているのは、なぜ? あなたは何をそんなに、ひどく恐れているの……?」
深く、長く、息を吸う音が聞こえる。
永遠に続くかと思われるほどの、沈黙があった。
その沈黙の末に、ダリルはようやく口にする。
ネリネが求め、彼がくれた答えは、まったく思いがけないものだった。
彼は吐露する。血を吐くように。許されざる罪を告白する罪人のように。
「俺はやっぱり、あなたの騎士にふさわしい人間ではありません。主の幸福を厭う従者などありえない。従者として、最もあるまじきことだというのに……それなのに、俺はあなたが幸せになるのを心から望むことができない。……あなたの、幸福を。何よりも恐れてしまうからです」
「え……?」
「姫様。俺は……あなたを、愛してしまいました。主としてではなく、一人の女性として。だから、あなたがこの先、他の誰かと愛し合い、その誰かに微笑む姿を間近に目にするのが、たまらなく恐かった」
――一切の、音も、光も、何もかも。
この世界から、消え去ったかのような錯覚に襲われた。
やがてやっとネリネを現実に立ち返らせたのは、ダリルが目の前で崩れ落ちる音だった。彼はネリネの前に跪き、額を地に擦りつけんばかりに、深く、深く頭を垂れている。
「俺はもう、あなたへの想いを抑えることができない。あなたにとって害悪をもたらす存在でしかないんです。ですから……どうか、誓いを破ることをお許しください。俺を、あなたの騎士としての任から下ろしてください。もう二度と、この姿があなたの目に映らないように……永の暇を頂きたく存じます」
「――――……っ」
「ネリネ・リーリア・ラウステラ王女殿下」
ダリルの声が、ネリネの名を呼ぶ。
それから彼は、ネリネの前に跪いたまま、最後の言葉を告げようとする――
「わずかな間でしたが、あなたの騎士でいられたことは、至上の誇りであり幸福でした。あなたと出会えて、本当によかった。これからはどうか、あなたのことを遠くから――」
遠くから。
ダリルは、その先にどんな言葉を続けようとしたのだろう。
けれどもう、その言葉の先を聞くことはかなわない。
それ以上は、黙って彼の言葉を聞き続けることができなかったからだ。
気づけば、ネリネは、
「ごめんなさい。そのお願いは、聞けない」
腕の中で、ダリルが身をこわばらせたのが、わかる。
地に膝をつけて座り込み、目を閉じて。
ダリルの背に手を回し、無我夢中で彼の身体を抱きしめていた。
「だって、あなたと二度と会えなくなるのは嫌だもの。あなたが、好きだから。私だって、あなたと同じ……ダリル、あなたのことを、特別に好きになってしまったから」
言ってしまった、と思った。
もし、ダリルにこの想いを告げるなら、その時はきっと、計り知れないほどの勇気と引き換えになる。だから、そんな日が来るとするなら、それはもっとずっと先のことになるだろうと、そう思っていたのに。
こんなに早く、彼に自分の気持ちを伝える日が来るなんて、思ってもみなかった。
けれど、もちろん後悔はない。
抱きしめたまま顔を上げれば、ダリルは放心しきったような表情でネリネを見つめている。
どれくらい、互いに黙し続けた時間が流れただろう。
やがて、ダリルが言った。
掠れ、震えた声で。
「姫様。俺は、何か……自分に都合のいい夢でも、見ているのでしょうか」
「いいえ」
ネリネはゆっくりと首を横に振って、揺らぐ赤い瞳を見つめ返す。
……言葉だけでは、信じてもらえないというのなら。
ダリルの頬に、そっと手を添える。
それから、薄く開いた彼の唇に、そっと自分の唇を重ねた。
名残惜しく思いながらも唇を離して、ネリネはもう一度、告げる。
互いの吐息がかかるほどの距離の近さに、今さらながらに心臓が跳ねた。
「夢じゃないわ。私は……ダリル、あなたが好き。あなたも同じ気持ちを持っていてくれたことが、すごく嬉しい」
「姫、様」
唇が奪われたのは、その瞬間だった。
いつの間にか背に回っていた腕によって、深く、深く抱きすくめられる。
やむなくネリネに触れる時には、繊細な壊れ物でも扱うようにためらいがちに触れていた、そんな今までのダリルとは思えないくらい、それは強く、どこか荒々しさすら感じるほどの抱擁だった。
「……っ、ダリ、ル。……、んっ……!」
「ひ、めさま。……姫様……!」
互いを呼び、息を弾ませながら、何度も何度も夢中になって唇を重ねた。その口づけの痺れるほどの甘さに、くらくらと目眩がする。身体が打ち震えるほどの歓喜に、頭がどうにかなってしまいそうだった。
角度を変えて、深みを増して。
……どれほどの間、口づけを交わし続けていただろう。
どちらからともなく、ゆっくりと唇を離していった。それでも顔は寄せ合ったまま、潤んで熱を孕んだ互いの瞳をじっと見つめる。
「……愛しています、姫様。あなたのことを、誰よりも……」
「私もよ。ダリル、あなたが好き……」
そうしてもう一度、深く、長く、唇を触れ合わせた――
気づけば真上にあったはずの月は、庭園の木々の樹冠に差し掛かるほど傾いたところから光を降り注いでいた。
言葉もなく、ネリネはダリルに抱かれたまま、彼の胸に身を預けたままでいた。
ダリルもまた、時おり愛おしげに亜麻色の髪に触れ、指先で梳くほかは、何を話すこともなくネリネを抱き寄せたままでいる。
数え切れないほど口づけを繰り返し、息は上がって、いつしか言葉は絶え果てた。
朝になればまた、たまった執務を二人で片付けなくてはならなくなる。
忙しくなるだろう。だから早く、ダリルには部屋に戻って休んでもらわなければならない。
そんなことはもちろんわかっていても、それでも、互いに離れがたかったのだ。何か、互いに仕方ないと思えるほどのきっかけが掴めるまでは、身を寄せ合ったままでいたかった。
せめて、深夜の闇が地上を覆い、その陰でもって二人を隠してくれる、その間だけは。
ダリルもおそらく、似たことを思っていたのだろう。彼もまた、ネリネと同じように、その視線を遠く東の方へと向けている。
どこからか、かすかに小鳥の声がした。
空はまだ、暗いままだ。けれど目を凝らせば、東の空のきわがうっすらと白み、もうじきに夜が終わることを示している。
「……姫様」
「ええ」
もう一度だけ強く抱きしめ合ってから、ダリルの手を借りて立ち上がる。
自室には、あっという間にたどり着いてしまった。
ここまで送り届けてくれたダリルに向き直り、ネリネは言った。まだ寝静まっている王宮をはばかって、ひそかな声で。
「ありがとう、ダリル。もうじき明るくなるから、護衛はもう大丈夫。だからあなたも、部屋に戻ってゆっくり休んで」
「わかりました、姫様。そうさせていただきます」
ようやく休むと言ってくれたダリルに、ネリネはほっと胸を撫で下ろす。
おやすみなさい。
そう言って、別れ際、最後に長く触れ合う口づけを交わした。
……去っていくダリルの背が暗闇にまぎれて見えなくなる、その時まで部屋の前に立って、見送って。
中で眠っているはずのプリシラを起こさないように、なるべく音を立てないように扉に手をかけた、
「お姉様!」
「……っ!? プリシラ……?!」
その気遣いがまったく無用のものだったと思い知らされたのは、扉を開けたほんの直後のことだった。
プリシラは眠ってなどいなかった。
扉のすぐ近くに立っていたプリシラは、ほの白い薄闇の中でもわかるくらいに目を輝かせながら、ネリネの前に迫ってくる。
「お、起きていたの……?」
「お姉様が部屋を出て行ったのなんてすぐにわかったわ。それより、お姉様ったらやるじゃない! ねえねえ、なんて言ってダリルを口説き落としたの? もう待ちきれないわ、早く教えて!」
「く、口説き……!? それより、どうして知って……!?」
それからというもの、空が白み、朝日の明るさに夜の闇がほとんど薄らぐまで、プリシラの質問攻めは留まることを知らなかったのだった。




