第6章:想いを告げる -4
はっとして視線を向けた先は、眼下に広がる庭園の一角だった。
ほのかな月灯りを帯びる庭園の小径を歩いていく、その後ろ姿は……
思わず、心臓が大きく跳ねるのを感じる。
食い入るようにして、わずかに見えたその横顔を見つめた。
(ダリル? でも、こんな時間にどうして……)
月があまりにも明るすぎて、一人バルコニーに立つネリネの姿は、かなり目立つものだったのかもしれない。
何気なく月を見上げようと思ったのだろうか、ふいにダリルが少しだけ顔を上げる――けれど月まで到達する前に、彼の視線はネリネのいるこの場所に止まった。
ダリルがはっと息を呑む音が、こちらまで聞こえてきそうなほどだった。
彼は立ち止まって、驚きもあらわにネリネを見つめてくる。けれどすぐに我に返ったのか、ネリネの立つ方角へと向き直ると、片手を胸に添え、深く頭を下げて立礼してきた。
考えるより早く、身体が動いていた。
とっさに部屋に戻ると、急いで外出用のローブを羽織る。
なるべく音を立てないように部屋を出て、月灯りを頼りに回廊を早足で進んで、階段を下りた。
庭に出てすぐにダリルの姿を見つけて、ほっと胸を撫で下ろしながら駆け寄っていく。
「姫様。あなたはまだ、お休みになっていなければならないのでは……」
「眠れなかったのよ。今日は王宮に戻ってからずっと休んでいたから。ダリルこそ、どうして? あなたの方が、休んでいなければならないはずだわ」
今、ダリルが身につけているのは昼間と変わらない騎士の装いだ。誰の目にも明らかに、休む時の服装ではない。
森を出て王宮に帰り着いてすぐ、ネリネは湯殿で温まり、寝間着に着替えて休むことができた。けれどダリルはそうではなかったことは、口伝てに侍女達から聞かされていた。ろくに休む間もなく、彼は森に出没した魔物の調査に加わっていたのだと。
ダリルは首を横に振って、言った。
「いえ。衛兵も多くいますし、王宮にまで魔物が現れる事態は考えにくいですが、それでも万が一ということがありますから。俺は先ほど仮眠を取りましたから、問題ありません」
「それなら、ダリルがここにいたのは私を守るため……?」
思えばこのあたりは広い庭園の中でもネリネの部屋に近い場所だ。夜遅くまで騎士服姿でダリルがここにいた理由は、それ以外には考えられなかった。
思わず謝罪を口にしそうになったネリネの心情など、とっくに見通されていたのだろう。ダリルはかすかに微笑んで言った。
「騎士としての務めですから。どうかもう、謝罪はなさらないでください」
「……わかったわ。でも、どうか無理はしないで」
魔物が一度現れた場所の近くには、しばらくの間、再び魔物が現れる可能性が高くなる。険しい道のりに隔てられているとはいえ、フィリスの丘のある森から王宮までは、さほどの距離はない。魔物が王宮にまで現れる、その万が一の危険のために、ダリルは夜も外に出ていてくれたのだろう。
本当は、護衛はもういいから休んでほしいと言いたかった。
ネリネ自身の安全などよりずっと、彼が身体を壊さないかの方が心配なのだとも。
(もう何日も一緒にいたから、わかる。……きっとダリルは、限界を過ぎても頑張ってしまう人だから)
けれどこんな状況では、ネリネがいくら休んでほしいと願ったしても、ダリルが聞き入れるはずもないことは明らかだった。
むしろ、室内で休んでいるよりもここで万が一の事態に備えている方が、ダリルにとっては安心できるのかもしれない。
そう思えば、それ以上彼に何かを言うこともできず、ネリネはただ黙り込むしかない。
「…………」
帰らなければ。
そう思った。
襲撃が起こる可能性はほとんどないとはいえ、ダリルが護衛に出てくれている以上、ネリネは今すぐに安全な王宮の中へ帰るべきだ。
けれど。
(せめて、何か……)
何か、ネリネにできることはないのか。
必死に頭を巡らして、けれど結局、何も思いつかなくて。
無力感に苛まれながら、後ろ髪引かれる思いで部屋に戻ろうとした、その時だった。
あの、と。
ふいにダリルに呼びかけられる。
「姫様とプリシラ王女が仲のよい姉妹に戻られたと……。心からよかったと思います。プリシラ王女から、姫様を必ずお守りするよう言いつかっていたことは、あなたに知らせることができたらどんなにいいかとずっと思っていたので」
「……!」
「それだけ、お伝えできればと思いましたので。すみません、呼び止めてしまって」
そうだ、と思い至る。
(ダリルは、プリシラとそう約束していたって……)
ダリルとプリシラの間で約束が交わされたのは、ダリルがまだネリネの騎士になっていなかった頃の話だ。
当然その頃は、プリシラがネリネを嫌っているというのは、王宮中によく知られた事実だった。ネリネを守ってほしいというプリシラの願いに、ダリルはきっととても驚いたことだろう。
「プリシラに、口止めされていたのね」
「……はい。自分は姉君に許されてはいけないから、と」
プリシラは本心を隠し、ネリネにあえて嫌われようと振る舞っていた。
傍らで見ているダリルとしては、ずっと歯がゆい思いをしていたに違いない。
……それを、思えば。
胸の奥底から湧き上がってきた言葉を、彼に伝えずにはいられなかった。
「ありがとう、ダリル。あなたのおかげね」
「……? 俺は特に、何もしていませんが」
「いいえ。私とプリシラが仲直りするきっかけをくれたわ。ダリルがいなければ、私は今も、あの子を恐れて遠ざけたままだったでしょうから。……あなたは私を、弱虫姫ではないと言ってくれた。でもやっぱり、私はとても弱いのよ。臆病で、ずるくて、時々どうしようもなく、自分のことが嫌になって仕方なくなる」
「姫様……」
「ごめんなさい。あなたの前で、弱音を言うつもりはなかったのに。私、どうかしていたわね」
淡く弱く微笑みながら言ったネリネに、ダリルはしばらくの間、考え込むような長い沈黙を見せた。
けれどやがて、静かな声で彼は答える。
「弱さは、誰の中にでもあるものです。あなたの持つ弱さを、俺には責めることも笑うこともできません」
意外に感じて、ネリネは思わずダリルを見上げていた。
「……ダリル。あなたにも、恐れているものがあるの?」
はっきりとした返事はなかった。
問いに対して、ダリルはただ、かすかな微笑を浮かべただけだ。
「…………」
風のそよぐ音すらはっきり聞こえるほどの静寂が、あたりに広がる。
一切の言葉が出なかったのは、目をそらせなかったのは、ダリルが見せたその笑みが、あまりに悲しげに見えたからだ。




