第5章:飢え渇いた王女の追想 -12
……そうして、プリシラはアドニスから、彼がそれまでに見て聞いてきたさまざまなことを知らされた。
プリシラの目を釘付けにしてやまなかったあの騎士の名は、ダリル・オルブライト。
しかしダリルはもともと、オルブライト家の生まれではないこと。
貧民街に生を受け、身寄りもなく生きてきた彼は、やがて重い病に脅かされた。けれどその死の寸前で、幼いネリネによって助け出され、命をつなぎとめたのだと――
呆れてしまった。
けれど同時に、どうしようもなく温かな気持ちになる。
(……ほんと、お姉様らしい)
人々を虐げた領主は、ヴェリア戦役によって滅んだ。しかし数年に及んだ悪政の爪痕は深く、街には大勢の孤児が溢れていたのだという。
病が癒えたダリルは、そうした孤児の一人として、教会に預けられることになった。
やがて、騎士としての素質を見出された彼は、オルブライト家の当主トウェインに養子として迎えられることになる――
「とは言っても、オレが初めて会った時のダリルは文字もろくに読めないくらいだったからね。生まれのこともあるし、昔はだいぶ馬鹿にされていたよ。それでも、あいつはみんなを実力で黙らせた。孤児だった頃から喧嘩は得意だったみたいだし、戦うって意味ではもともと騎士に向いていたんだとは思うけど、あいつがあそこまで強くなれたのはやっぱりネリネ王女の存在があったからなんだろうね」
「……ねえ、あともう一つだけ、訊いていい? ダリルはどんな人? あなたみたいに、可愛い女の子には片っ端から声をかけて回りそうな、軽くてへらへらした人?」
するとアドニスは肩をすくめ、笑いをこぼしながら言った。
「へらへらって、ひどいなあプリシラ王女。オレはそこまで浮気性な奴じゃないよ。……そうだね。いい奴だよ、ダリルは。物静かであんまりしゃべる方じゃないけど、意外と面倒見もよくてさ。ネリネ王女のこと、あいつ以上に大切に想っている奴なんていないと思う」
「…………」
「団長達はダリルをネリネ王女の騎士として推しているよ。今は王宮のお偉方の正式な承認待ちってとこかな。でも、もしきみがあいつを自分の騎士にしたいって言い出したら、騎士団としては逆らえない。だから、さっきは少し焦ったんだけど……」
「そうね。それは焦るわよね。でも言ったでしょ? あたしは自分の騎士じゃなくて、お姉様の騎士を探しにきたんだって」
心はもう、決まっていた。
プリシラは決意を込め、一人うなずいてから、再びアドニスの方を向く。
「アドニス。ダリルに会わせてもらうことはできる? あたし、お姉様の騎士になる人と話してみたいの」
柔らかな陽差しの注ぐ橙色の木立を、アドニスに導かれて進む。
向かったのは、厩舎だった。
どうやらアドニスと話し込んでいるうちに午前の訓練は終わっていたらしく、ダリルは厩舎に向かったと聞かされたのだ。
果たして、ダリルの姿は厩舎脇にある池のそばにあった。
桶に汲んだ水を馬にかけ、身体をブラシで洗ってやっている。
近づいてくるプリシラやアドニスの存在にいち早く気がついたらしい。それまで池の水を飲んでいた馬がまっすぐに耳を立たせ、おもむろに頭を上げて、じっと視線を向けてくる。
馬の視線の先をたどって、ダリルの眼差しもプリシラ達に向けられる。
特にプリシラを見て、ダリルの表情に驚愕が現れるのがはっきりとわかった。
「アドニス。まさか、そちらのお方は……」
「あはは、可愛いお客様でしょ? ほんと、オレもさっきはびっくりしたよ。プリシラ王女がここまでいらっしゃるなんてさ」
さあ、いよいよだ。
ネリネの騎士になる人間を、この目で見定めなければ。
プリシラはダリルの前に進み出て、言った。
「初めまして。あたしはプリシラ。ダリル、あなたがお姉様の騎士になるんだって聞いたわ。あたしは、お姉様のことでお願いがあって来たの」
……アドニスは気を利かせ、ダリルから馬を預かって去っていった。
にぎやかなアドニスがいなくなると、あたりが急に静まり返ったように思える。周囲に広がる木立を映して橙色に揺らめく水面の上を、秋風が吹きすぎていく。
静寂は長くは続かなかった。
ダリルはプリシラに向き直ると、その場に膝を折って騎士の礼を取る。
「お初にお目にかかります、プリシラ王女殿下。アドニスから話は聞いているのでしょうが……」
「ええ。ダリル・オルブライト……お姉様に仕えるために、貧民街の孤児から王宮で働く騎士にまでなった人だって」
出自を持ち出されて、ダリルが表情を硬くするのがわかった。
きっと、ネリネに仕えることに対して抗議するために、プリシラがここまでやってきたと考えたのだろう。
ネリネの騎士になることが決まってから、ダリルはもう何人もの気位の高い貴族から嫌みや皮肉を言われ続けているらしいというのだから。
だから、プリシラはすぐに続けて、言う。
「安心して。あたしは、あなたがお姉様の騎士になるのを反対したくて来たのではないわ。ただ、あなたがどういう人なのか、確かめたかったの。あたしにとってお姉様は……大切な家族だから」
まっすぐに、ダリルの赤い瞳を見つめる。
プリシラの視線があまりに真剣なのを、ダリルも見て取ったのだろう。彼はわずかに驚いた顔をしたが、まもなく静謐な眼差しをして、プリシラの視線を受け止めようとする。
「ダリル」
「はい」
「あなたにとって、お姉様はどんな存在?」
「…………」
間があった。
それは、返答を迷う時にするようなあいまいな沈黙ではない。
その証拠に、やがて彼は口にする。
「……とても、言葉では語り尽くせません。それでも、あえて表すならば」
何か、とても。
眩しいものを、目にした気がした。
「果てのない暗闇まで下りてきて、手を握ってくださった。あの方は、光です。あの方のためなら、命だって投げ出せる。この身のすべてをかけて、お守りしたいと思う唯一の方です」
「――そう」
もう、何も。
尋ねることはなかった。
「ダリル」
再び、名を呼ぶ。
瞑目し、深く息をついて、それからもう一度、目を開く。
ネリネに直接伝えることは叶わない想い。
そのすべてを込めて、プリシラは告げた。
「あなたなら信じられる。だから、お願い。どうかあたしの分まで、お姉様を守って。どんな時も、必ず――」
*
……気づけば日は高く昇り、青葉の向こうに夏の雲が流れているのが垣間見えた。
さらさらと枝葉を揺らしながら、静かに風が吹きすぎていく。
語り終えたプリシラの姿を、ネリネは言葉もなく見つめていた。
信じられない思いでいっぱいだった。
けれど悲しげに笑う妹の表情が、今語られたことはすべて真実なのだと、何よりも如実に表していた。
「……これで、全部。あたしがお姉様に隠していることは、もう何もないわ」
「プリシラ……」
「あたしの話は、これでおしまい。こんなところに一晩中いたんだから、お姉様は早く帰って休まないといけないでしょ。それに、騎士達だって、ずいぶん待たせてしまってる……」
言葉が、出ない。
けれどそんなネリネに構うことなく、プリシラはすばやく背を向け、ネリネから離れていこうとする。
「……待って」
やっと、声が出た。
このまま、プリシラを行かせてはいけない。
ただ――ただ、その一心で。
足早に去っていこうとするプリシラの背を目がけて、ネリネは叫んだ。
「待って、プリシラ!」
何かを考える、そんな余裕なんてなかった。
一瞬だけ立ち止まったプリシラを、後ろから思いきり抱きしめる。
短く息を吸う、音がする。
ネリネの腕の中で、小柄な身体がびくりと震えるのがわかった。
「お姉、様……?」
「ごめんなさい、プリシラ」
「な、んで……お姉様が、謝るの……?」
「気づいてあげられなかったから。あなたがずっと悩んでいたことに、気がついてあげられなかった。私は……あなたの姉なのに」
恐がるばかり、怯えるばかりで。
ネリネはずっと、プリシラと向き合おうとしなかった。
今日、プリシラが自ら話をしてくれなければ、これからも姉妹はすれ違ったままだったのだ。
だから、本当に謝らなければならないのは……
「あの時だって、そうだったわ」
プリシラの正面に回って、その瞳を見つめる。
いつもネリネに対して冷然と向けられていた瞳は、大粒の涙を湛えていた。ついにこぼれ落ちた涙を、そっと手で拭う。
「本当は、あなたの話をちゃんと聞くべきだった。あなたを一方的に責めるのではなくて。ごめんなさい。叩かれて、とても、痛かったでしょう? 私は……本当に、だめな姉だったわね」
かつて、激高した勢いで叩いてしまったプリシラの頬に触れる。
あの時のネリネの行動によって、こんなにも長い間、姉妹を決裂させてしまうことになったのだ。
「……違うわ」
しゃくり上げ、激しく首を横に振りながら、プリシラが言った。
「違う……お姉様は、悪くない。お姉様は全然、だめなんかじゃない……! 全部、全部、あたしが悪かったのに。最低なのは、あたしだわ。何回も、何回もお姉様にひどいことばっかり言って、傷つけて……。ごめんなさい……、今まで、ずっと、ずっと、ずっと……! ごめんなさい、お姉様……!」
「プリシラ……!」
顔を両手で覆いながら崩れ落ちるプリシラを、しゃがみ込んで抱きしめる。
身を切るように泣く彼女の姿を、これ以上見ていられなかった。
「いいの。もういいのよ、プリシラ。私は傷ついてなんかいないから……だからもう、それ以上自分を責めないで」
泣き止んでほしくてその背をさするのに、どういうわけかプリシラは、ますます泣きじゃくるばかりで。
「あたしね……、本当は」
「ええ」
「本当は、ずっと……、前みたいにお姉様と話したかった」
「ええ。私もだわ」
「前みたいに、お姉様と本を読みたかった。あたしは……お姉様といるあの時間が、一番楽しくて、大好きだったの……!」
「ええ。私もまた、プリシラと一緒に読みたいわ。あなたと話さなかった間……好きになったお話が、たくさんあるのよ。帰ったら、教えてあげるわね……」
震える背を撫でるうちに、いつの間にかネリネまで泣いてしまっていた。
けれどそれは、悲しい涙ではない。
嬉しくて流れる、涙だった。




