第5章:飢え渇いた王女の追想 -9
プリシラはそれから、アナベルの作ったその麦粥を余さず食べることができた。
すっかり空になった食器を片付けるためにアナベルが部屋を出て行ったのは、ついさっきのことだ。
自室で一人になったプリシラはベッドに戻ると、ただ何もせず、呆然としたまま視線を宙に彷徨わせていた。
未だに信じられない気持ちでいっぱいだった。
本当に、きちんと食事を取ったのはいったいいつ以来のことなのだろう。
身体がぽかぽかと温かかった。
空腹が癒やされた。ただそれだけで、ずっと沈みがちだった気分が嘘のように明るく晴れやかなものになっていった。
こうなってくると、気にかかったのはただ一つ、
(あたし、どれだけ食べようと思っても全然食べられなかったのに。……どうして?)
ただ、確かなのは。
倒れてから目を覚ますまで、何か特別な出来事があったわけもないのに、どういうわけか温かく心強い気持ちになっていたということだけだ。だから、プリシラは食事を取ることができた。
いつになく深くよく眠ることができたから?
気づかないうちにたまっていた疲労が癒やされたからだろうか?
(……本当にそうなの?)
疑問は結局、解けなかった。
この部屋にいる以上、他にできることもなくて、仕方なしにベッドに仰向けになる。
絶対安静。そう、アナベルによくよく念を押されていた。
プリシラが意識を失っていた間に訪れた医者も、しばらくは療養に徹するようにと言い置いていったらしい。
……それなら。
(もう少しだけ……眠ろうかな)
久しぶりにたくさん食べた。
しかも今日の天気は、快晴だ。
夏空は高く、薄く開いた窓からの風が爽やかで快いのも手伝って、次第に瞼が重くなってくる。
ベッドの上で身体を丸め、心地よい日差しの中でまどろもうとして、ゆっくりと目を閉じた――
――プリシラっ!
「…………っ!?」
急に耳元に声が聞こえた気がして、プリシラは弾かれたように跳ね起きる。
けれど部屋にはプリシラ一人。
どこからかその声が聞こえてくるはずはなく……
――しっかりして! 何があったの、プリシラ……! プリシラ!
「違う……違うわ。この、声……」
はっとして飛び起きた。
それは、今、聞こえてきた声ではなかった。
そうではなく、この声は――
「失礼いたします、姫様。よかった、まだ眠っていらっしゃらなくて。お医者様が置いていった薬をお持ちしましたから、飲んでからお休みになってくださいね――」
「……アナベル」
水差しと薬を持って戻ってきたアナベルは、瞬時にプリシラのただならぬ様子に気がついたらしく、はっとして口を噤む。
プリシラは恐る恐る、尋ねた。
問いではある。けれどそれは、ほとんど確信に近い問いだった。
「あたしが倒れてるのを最初に見つけたのは、誰? あたしが眠っている間、ここにいてくれたのは誰なの……?」
「それは……」
「お願い、答えて。大事なことなの……アナベル」
アナベルは視線を彷徨わせ、なぜか返答をためらうような仕草を見せた。
けれどやがて、プリシラの切実な声音に折れたのか。
顔を上げると、アナベルはプリシラに真っ直ぐに視線を向け、答えた。
「……ネリネ王女殿下ですわ」
そう、言って。
アナベルは続けた。
「お倒れになっていた姫様を見つけて、すぐにお医者様を手配なさったのも殿下です。殿下は姫様のことを、ひどく心配しておいででした。昨夜も遅くまでこのお部屋にいてくださって……。申し訳ありません、このことは、姫様には伝えないでほしいと言いつけられておりましたのに」
「あたしに伝えないでって、それはどういうことなの? どうしてお姉様はそんなこと……」
やっぱり、そうだった。
絶望に暮れながら意識を手放す直前、プリシラの名を呼ぶ声がした。あの声の主は、ネリネだった。深く眠っていたプリシラのそばにいてくれたのも。
そうしてネリネは、プリシラが目を覚ますより早く、何も告げずに去ったのだ。
アナベルは気まずそうに目をそらすと、再び黙り込んでしまった。
逡巡の後、やっと彼女は口を開く。
「……ここに自分がいたことを知ったら、きっと姫様は嫌な思いをなさるから、と。そうおっしゃっておりましたわ」
「な……によ、それ。あたしが、お姉様のことを嫌っていたから……?」
「こちらを、姫様。姫様にと、殿下が置いていってくださったものですわ。姫様はこれからしばらく療養することになりますから……その間、少しでも退屈なさらないようにと」
言葉をなくして呆然とするプリシラの前に差し出されたのは、数冊の本だった。
どれも部屋に飾って眺めたくなるような、美しく愛らしい装丁がなされた本だ。
そのすべてに、見覚えがあったのは……
本を持つ手が、震えた。
「……何よ。何なのよ。なんで……、どうして……?」
脳裏によぎるのは、ネリネと仲がよい姉妹だった頃の出来事だった。
勉強の予定がないわずかな休日、二人で城下の図書館まで出かけた。
恋愛小説の並ぶ棚の前に立って、プリシラは目をきらめかせながら、何冊もの本を指して言った――
『あっ、あたしの読んでみたい本、もう図書館に入ったのね。あとは、これと……あの本も! あっちにあるのはお姉様が前に読んでくれた本の続きだわ』
手渡された本は、すべて。
すべて、プリシラがかつて、自分で読んでみたいとネリネに伝えたことのある本達だった。
「……お姉様の、馬鹿」
視界がぐにゃりと歪む。
もう、我慢することはできなかった。
「なんで……、なんであたしなんかに、こんな……。馬鹿、馬鹿、馬鹿……! 本当に馬鹿なんだから……!」
ひどい言葉ばかり、投げつけた。
ネリネを見下して、公衆の面前で嘲ることすらあった。
姉妹で過ごしていた、あの温かく何ものにも代えがたい時間を壊したのは、他ならぬプリシラ自身だ。
もうとっくに、ネリネはプリシラのことを嫌って、見捨てて、軽蔑していなければおかしいくらいなはずなのに。
「お姉様……!」
……今さら後悔したって、もう遅い。
あの時間はもう二度と、プリシラのもとへは戻ってこない。
姉に向けた悪意ある言葉も、振る舞いも――犯してしまった過ちを、なかったことになどできはしないのだ。
それ以上耐えきれずに、プリシラは本を抱きしめて泣いた。
ただひたすらに、涙が涸れ果てるまで泣き続けた。
誰の目も気にする余裕などなく、はるか遠い、赤子の頃にまで返ってしまったかのように――




