第5章:飢え渇いた王女の追想 -8
さらさらと吹き寄せてきた青い風が、プリシラの頬を撫でていく。
これはいったい、いつの記憶なのだろう。
今となってはとっくに過ぎ去った、古い記憶を夢に見ているのだということはわかっている。
ただ、その記憶が正確にはいつのものだったのかを、どうしても思い出すことができない。
けれど、今のプリシラにとっては、そんなことはごく些末で、取るに足りないことだった。
だって、そんなことよりも、風が心地いいのだから。
白い雲が流れていく晴れ空。
さらさらと木の葉を揺らす木の下で。
聞こえてくるのは、草葉のさざめきと、本の頁をめくるささやかな音だけだ。
この誰にも脅かされない穏やかな緑陰で、いつまでも目を閉じ、ゆったりとまどろんでいたくなる。
「プリシラ」
しばらく経った頃、頭上から降ってきたのは、ネリネの声だった。
いたわるような、柔らかな声。
風で顔にかかった髪を、指先でそっと払いのけてくれる。
その日もネリネに本を読み聞かせてもらっていたプリシラは、いつのまにか姉の膝の上に頭を預けて、すうすうと寝入ってしまっていたのだった。
「ふふ。本当によく眠ってる。今までずっと、あなたは一生懸命、頑張りすぎるくらいに頑張ってきたんだものね……」
プリシラが本当は起きていることに、ネリネは気づいていないのか。
ネリネは一人呟くようにして、プリシラをねぎらってくれる。
その声の、優しさに。
なぜだか急に、刺されたように胸が痛くなって、ついには嗚咽が込み上げてきてしまったのはなぜなのだろう。
「お姉様。……あたし。あたしね」
また、涙が止まらなくなる。
いつから、プリシラはこんなに泣き虫になってしまったのだろう。
いつから、こんなにも弱くなってしまったのだろう。
「ほんとは、あたし……お姉様に、こんなふうに優しくしてもらったら、だめなの」
「プリシラ……?」
「あたしは……お姉様に、ひどいことを言ったわ。お姉様に嫌われて、もう二度とあたしと話してもらえなくなっても仕方のないようなことを、たくさん、数え切れないくらい……! なのに、どうして? どうしてお姉様は、それでもあたしに、こんなに優しくしてくれるの……?」
答えは返ってこなかった。
儚く短い夢の時間が、終わりを迎えようとしていたからだ。
待って。
白い光の中に溶けていく風景に、プリシラは必死になって手を伸ばす。
お願い。
待って――
「お姉様……!」
瞼の上に明るい日差しを感じた気がして、プリシラはふと目を開けた。
幾度か瞬きをしてやっと、ぼやけた視界がはっきりする。どうやらプリシラはだいぶ長いこと、ベッドで眠っていたらしかった。
窓の外に見える、青々と葉を揺らす庭木の立ち姿。
天蓋と紗のカーテンに包まれたふかふかのベッド。
いつもの朝と、見慣れた風景。
いつもと同じように、上体を起こしてすぐ、傍らに置いてある小さなテーブルの上から手鏡を取る。
鏡面に映し出されたのは、血の気が失せてやつれ果てた、プリシラ自身の顔だった。
(肌、ぼろぼろ……)
見れば見るほど、ひどい顔だ。
これでは今日は、パーティに出るどころか部屋からも出られそうにもない。
「パーティ……。……っ」
呟いた途端、頭がずきりと痛んで、思わずこめかみを手で押さえた。
たまらず目を閉じた瞬間、思い出したのは、
(そうだわ。あたし……パーティから帰った後、気持ちが悪くなって……)
がちゃりと扉が開く音が聞こえたのは、ちょうどその時のことだった。
はっとして扉の方に目を向ければ、そこには目を丸くして立ち尽くす年若い侍女の姿。
彼女――アナベルは数人いる侍女の中でも、ことのほかかいがいしくプリシラの世話を焼いてくれて、プリシラも一番頼りにしている侍女だった。
「姫様……」
「あ……」
「ああよかった……! やっとお目覚めになられたのですね!」
アナベルは凄まじい勢いで走ってきて、呆然とするプリシラをぎゅっと正面から抱きすくめてくる。
「ちょ、ちょっと! いきなり何……?!」
「もう、本当に姫様は……! わたくしがどれだけ心配したか、姫様はおわかりなのですか!? 姫様ったら、倒れてからもう二日もずっと、お目覚めにならなかったんですからね……!」
「二日……? あたし、そんなにずっと寝てたの……?」
その瞬間、プリシラとアナベルの間に割って入ったのは、盛大に鳴り響くお腹の音だった。
どちらのお腹から鳴った音かは、確かめずともあまりにも明らかで。
たまらずかあっと頬を赤らめて、プリシラは未だにぎゅるぎゅると鳴る自分のお腹を手で覆わずにはいられなかった。
「まあ、とってもすばらしい響きですわね。思わず聞き入ってしまうくらい」
「……わ、わざわざ聞き入らなくたっていいわよ! とにかく、もう離れて! 暑苦しいんだから」
「ふふ、安心しましたわ、もうすっかりいつもの調子ですわね。さてと、それでは姫様の食事を用意しませんと。まさかとは思いますけれど、今日もまた蜜柑のジュレだけでいいなんて癇癪を起こしたりはなさいませんわよね?」
「…………」
アナベルの問いに、つい黙り込んでしまう。
彼女の言った通りだ。
ここ最近のプリシラは、口にするものと言えば少量のジュースやジュレくらいで、食事らしい食事はほとんど取ることができずにいた。
食べなければいけないことは、わかっている。
とはいえ無理に食べれば、またあの吐き気に襲われてしまう。
プリシラの意思に反して、身体はなかなか食べ物を受けつけずにいたのだ。
でも、今日は。
「……わかったわ」
口の中に、じわりと温かな唾液が滲み出てくる。
――大丈夫。今日は、食べられる気がする。
不思議なことに、なぜだか今日は、身体が言うことを聞くような予感がしたのだった。
プリシラはうなずき、意を決して答えた。
「そんなにたくさんじゃなくていいわ。簡単な食事でいいから……。用意してくれる?」
「姫様……」
驚いたように、アナベルはゆっくりと目を見開く。
それから、彼女は心から嬉しそうに、ふわりと微笑んで言った。
「わかりましたわ。わたくし、姫様のために心を込めてお料理させて頂きます。すぐに戻って参りますから、少しだけお待ちくださいませね」
しばらく経ってアナベルが運んできたのは、温かな湯気の立ち上る麦粥だった。甘い匂いがするのは、麦粥にはちみつや林檎を溶かし込んでいるためだろう。
どきどきと、緊張に心臓が高鳴る。
こわばった顔のまま、プリシラはスプーンを手に取った。
盛り付けられたナッツや瑞々しい木苺と一緒に、麦粥をひとすくい掬う。それから口に入れる前に、スプーンの中の麦粥を食い入るように見つめた。
傍らでは、アナベルが祈るような眼差しでプリシラを見守っている。
もちろん、アナベルだって本当はわかっていたのだ。
プリシラは何も、わがままで食事を拒んでいたわけではない。むしろ、食べられないことに悩み続けていたのだと。
こくりと唾を飲み込む。
スプーンを握る手に、力がこもる。
(……大丈夫。あたしは……)
小さく息を吸う。
目をぎゅっと閉じると、プリシラは思い立った勢いのままにスプーンを口の中に差し入れた。
普段なら、たったひと匙の食べ物ですら、吐き気をこらえながら飲み下さなければならなかった。無論、味も食感も、確かめる余裕などない。
他の人々にとっては何気ない食事のひとときは、プリシラにしてみれば、耐え難い苦痛を忍ばなければならない時間でしかなかったのだ。
けれど、今は……
ふわりと、舌の上に素朴な甘さが広がっていく。
まろやかなはちみつと牛乳の風味に、きゅうっと顎のしまるような木苺の甘酸っぱさが絡み合う。
口の中でさらに柔らかくなった麦粥は、ゆっくりと喉を通り、お腹の底まで下りていった。
「……おいしい」
自然とそう、口に出ていた。
「アナベル。……おいしいわ。あなたの作ってくれた麦粥。すごく……すごく、おいしい……」
言葉尻は、掠れていた。
思いがけず涙がこぼれてしまったのは、嬉しかったからだ。
「姫様……姫様、よかった……! 本当に、よかった……!」
プリシラにつられて、感極まったのかアナベルまで泣き出してしまう。
結局二人はそのまま、せっかく温かかった麦粥が冷めてしまうまで、その場で抱き合って喜びを噛みしめずにはいられなかったのだった。




