第5章:飢え渇いた王女の追想 -6
楽しいパーティも、日暮れが近づいてお開きとなった。
他愛のないおしゃべりに花を咲かせながら王宮の門まで歩いていき、馬車に乗って屋敷に帰る令嬢達を送り出した、その帰り。
「……プリシラ」
その声が聞こえてきたのは、夕暮れに染まる空の下、庭に配された外回廊を進んでいた最中のことだった。
弱々しくて、少し強い風が吹きさえすれば、聞き落としても仕方がないほどに小さな声だ。
聞こえなかったふりをしようかと考えた。
けれどその声の主が庭木の陰から姿を現し、プリシラの行く手を遮るように立ち塞がってしまえば、もう無視して通り過ぎることはできない。
「……なあに、お姉様」
プリシラはうんざりした表情を浮かべ、眼前に立つ姉に視線を向ける。
「…………」
ネリネは声にならない吐息をこぼすばかりで、なかなか何も口にしなかった。
ただ、怯えと非難のないまぜになった瞳で、プリシラをじっと睨み据えてくる。
ネリネはきっと、必死なのだろう。必死で、本気で、プリシラに対して怒っている。姉がプリシラに何を訴えたいのかも、もちろん言われる前からわかっていた。
けれど姉の必死さを目にしても、プリシラが動じることはなかった。それどころか、そんな姉の姿が滑稽だと、内心で笑ってしまうくらいで。
ネリネがどんなに強い気持ちを抱いていようが、無駄だ。気弱で臆病な姉は、こんなにも迫力の欠片もない怒り方しかできないのだから。
はあっ、とわざと強くため息をついて、プリシラは一歩前に出た。
「あのね、お姉様。邪魔なんだけど。言いたいことがあるんだったら早く言って。あたし、お姉様なんかの相手をしてる暇なんてないの」
きつく刺々しい口調で言い放てば、ネリネはびくりと肩を震わせ、見ていて面白いくらいに身を縮こまらせた。
こうなれば、あとはほんの少し待つだけだ。
ぼそぼそした声で小言を言うか、あるいはそのまま何も言わずに尻尾をまいて逃げてくれる。
さて今回、姉はどちらに転ぶのか。
そんなことを思いながら、プリシラは暇つぶしにネリネの装いを観察することに決めた。
(……相変わらず、野暮ったい格好)
亜麻色の髪は編み込むこともなく、一つにまとめて背に流しただけ。
ドレスは何の模様も飾りもない、きわめて簡素な作りのものだ。
その姿は到底、一国の王女らしいものとは言えず、下手をしたら侍女達の装いの方がましに見えるのではないかというほどだった。
なぜネリネが、王女であるにもかかわらずこれほど質素な服装をするのか、そのわけをプリシラは知っていた。
もともと、ネリネは必要以上に着飾ることを好まない。
けれど理由はそれだけではなく、むしろ――
「その、ドレス……この間あなたが着ていたドレスとは、違うものだわ。首飾りや、靴も……。また、新しく買ったの?」
「そうだけど、何? 何か問題でもあるの?」
残念なことに、どうやら今日のネリネは、なけなしの勇気を振り絞ることに決めたらしい。
不愉快な気分を露骨に顔に表して尋ねれば、ネリネは気圧されたのか、俯きながら後ずさる。けれどすぐにまた顔を上げ、責めるような視線をプリシラに向けてくる。
「……っ、状況を、考えて。プリシラ……。去年から続いている冷害のこと……あなただって、知らないわけじゃないでしょう……?」
「冷害? そうね。でも、だから何? 王女が王女らしくして何が悪いの? そもそもあたしのドレスの値段なんて、王宮が持ってるお金に比べたら全然大したことないでしょう? あたしがドレスを我慢したくらいで、今の状況がどれだけよくなるっていうの? ならないでしょ?」
また、同じ話だ。いらいらしながらプリシラは抗弁する。
ネリネはいつも、そうだ。
飽きもせず、冷害に苦しむ民の身になれと、そればかり。
国の予算にさしたる影響も及ぼしていないというのに、プリシラの行動が王女としての振る舞いにそぐわないと、意味もなく難癖をつけてくるのだ。
ネリネは引き下がらなかった。
それどころか、プリシラの発言が許せなかったのか、ますます言葉を連ねてくる。
「お願い、プリシラ……。よく、考えて。自分がとても貧しくてつらい思いをしているのに、王族だからといって、あなたや私が贅沢をして楽しんでいる姿を見たら……民はみんな、誰だって怒るわ。どうして自分達だけが苦しまないといけないのかって……見捨てられたような、とても悲しい気持ちになる。その気持ちを、プリシラ、あなたなら……私よりもあなたの方がずっと、理解できるはずでしょう? 王女になる前、泥にまみれて……ずっと一人で耐え続けてきた、あなたになら――」
「……っ!」
もう、それ以上、姉に喋らせておくわけにはいかなかった。
ネリネが想起するように仕向けてくるのは、プリシラにとってほんの一瞬たりとも思い出したくない日々だ。
プリシラが、人を惹きつける才も容姿も、何一つ持たなかった頃。
誰からも顧みられず、自分の価値のなさに絶望して、毎夜のように声を押し殺して泣き暮れたみじめな日々――
「……うるさいわね」
自分でも驚くほどに、低く恐ろしい声が出た。
黙れ。
黙れ、黙れ、黙れ。
燃え上がる炎のような激しい怒りを、プリシラは抑えることができなかった。
「うるさい……うるさいうるさいうるさい! あたしは王女なのよ! 今のあたしは、あの頃のあたしとは違うの! あの頃の、誰にも見向きもされなかったあたしじゃない! お姉様に……お姉様なんかに、いったいあたしの何がわかるっていうのよ!」
ああ、そうか、とプリシラは唐突に思い至った。
そうだ。なぜ、わからなかったのだろう。
予算に影響がないにもかかわらずこんなにも姉がプリシラに食ってかかる、その理由などたった一つしか考えられない。
堪えきれずに、プリシラは嗤った。
嗤いはしばらくしても収まるどころか、火に油が注がれたように、激しい哄笑に変わっていく。
「はは……あはは、はははは! そっか……、お姉様は羨ましいんだ! どんなに頑張ったって、お姉様はあたしみたいに綺麗にはなれないから。あたしとは違って、毎日毎日勉強漬けで、おしゃれなんてする暇もできないから。だから羨ましくて、妬ましくて、あたしに突っかかってくるんだわ! ふふ、あはははっ……民のためなんて、馬鹿みたい。残念だったわね、あたしみたいになれなくて。でもあたしは優しいから、今すぐ謝ってくれるなら、お姉様に似合うドレスを見繕ってあげるわ。肌が綺麗になるおすすめのお化粧品も、綺麗な髪飾りも靴も、何だってこのあたしが選んであげる。だからほら、お姉様……、今すぐ……今すぐ、あたしに謝りなさいよ!」
ぱんっ――と、乾いた音が響いたのは、その時のことだった。
いったい、何が起こったのか。
すぐには、理解できなかった。
否、理解はしていた。
ただ。
ただ、心が理解を拒んだだけで。
姉に――ネリネに、思いきり頬を打たれたのだと。
震える指先で、自分の頬に手を触れる。
熱を持った肌はきっと、今すぐ鏡の前に立てば、はっきりと赤い跡がついているのが確認できることだろう。
肌に残っていた衝撃は、次第にひりひりとした痛みに変わっていく。
世界のすべての音が消え去ったかのように思えた、一瞬の後。
荒く苦しげな息遣いが聞こえてくる。
呆然とするプリシラの前で、ネリネは、嗚咽をこらえながら泣いていた。
目に大粒の涙をためて、それでもその瞳に鮮烈な怒りを宿して、ネリネはプリシラをまっすぐに睨みつけてくる。
走り去る姉の後ろ姿に、プリシラはようやく我に返った。
頭に真っ赤な火花が散っていた。
「……っ、嫌い……」
赤くひりつく頬の上で、涙が弾ける。
自分が泣いたことすら気づかぬほどの、全身で強烈に燃えつく怒りのままに、プリシラは叫ぶ。
それは、かつて心から慕った姉への、訣別の宣言だった。
「嫌いよ……。お姉様なんて……、お姉様なんて、大っ嫌い!」




