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第5章:飢え渇いた王女の追想 -4


 それは、ある晴れた日の空の下。


「お姉様、見ーつけた!」

「きゃ……! プ、プリシラ……」


 木陰で本に夢中になっていた姉を驚かそうという企(たくら)みは、面白いくらいに成功した。

 突然横合いから顔を出したプリシラに、ネリネは文字通り飛び上がって驚き、その弾(はず)みに読んでいた本を取り落とす。


 悪戯(いたずら)が想像以上にうまくいって、なんだかとても気分がいい。

 プリシラは気をよくしたまま、ネリネの横に座って背伸びをした。


 何せ今日は、ここに来る少し前まで、長いこと机に座って勉強ばかりしていたのだ。

 やっと休憩の時間になって、それならネリネのいるところへ行こうと思った。

 王宮広しと言えど、姉がよく姿を見せる場所など限られたものだったから、ネリネを捜すのに時間がかかったことはほとんどない。


 ネリネは落とした本を拾って膝の上に置きながら、少しだけ口を尖らせて言ってくる。


「びっくりしたわ。そうやって、いつも驚かせようとしてくるんだから……」

「だって、お姉様ってすぐ驚くんだもん。いちいち、反応が面白いの」

「プリシラったら……もう」


 呆れたように言いながら、けれどネリネに気を悪くしたような様子はない。

 むしろ、ネリネは声を立てて、楽しそうに笑っている。


(あ、また笑った)


 この頃、ネリネはこうして、プリシラの前では笑顔を見せることが多くなった。


 別にネリネの人見知りや引っ込み思案なところが変わったというわけではない。相変わらず慣れない人が相手だと、極度にこわばった顔で、話すのもやっとというような様子を見せる。


 けれど、充分に打ち解けて心を許した相手だけは、別で。

 そういう相手と過ごしている時だけ、ネリネは言葉を詰まらせずに話し、よく微笑むようになるのだと気がついたのは、いったいいつのことだっただろう。


(笑えばこんなに可愛いのに。……ほんと、もったいないんだから)


 姉のこの表情を見られる人間は、おそらく片手の指で数えられるほどの数しかいない。


 その中に自分が入っていることを思うと、プリシラは何とも言えずこそばゆく、浮き立つような気持ちになってしまうのだった。


 すると、プリシラがじっと見つめていたことに気づいたのか、ネリネは不思議そうに首を傾げてくる。


「……? プリシラ?」

「ふふっ、何でもない。ねえそれよりも、さっきまで読んでいたその本は何? ずいぶん没頭して読んでたでしょ? そんなに面白いなら、あたしにも読ませてよ」

「あっ……、待ってプリシラ、その本は――」

「え? これって、もしかして」


 ネリネの膝の上の本を横合いから奪い取ってまもなく、本を開いたプリシラは思わず目をぱちくりとさせる。


 プリシラの接近に最後まで気がつかないほどに、ネリネが夢中になって読んでいた本。

 それは……


「――恋愛小説?」

「プリシラっ……!」


 焦ったような声とともにネリネの手が本を取り返そうとしてきたので、プリシラはすかさず、取られないように本を高々と頭上に掲げる。


 この一瞬の攻防の間に、ネリネの顔はすでに真っ赤になっていた。よほど居たたまれないのか、そらした顔を手で隠すような仕草まで見せる。

 そんな様子を見せられてしまっては、そのつもりはなかったのに、つい、笑わずにはいられなかった。


 息も絶え絶えといったような声で、ネリネがプリシラに手を伸ばしてくる。


「か、返して……」

「もちろん返すけど。でも、そんなに恥ずかしがることなくない? この本、あたしも見たことあるもの。こういう本、いつか読みたいなって思ってた。お姉様っていつも真面目な本ばっかり読んでると思ってたから、確かに意外だったけど」


 ネリネが読んでいたのは、男女の甘い恋愛を主題にした小説だった。

 改めて、ネリネが持っていた本をまじまじと眺めてみる。

 外見からして、淡い桃色に染められた革の表紙にレースや花の飾りがあしらわれた、可愛らしい本だ。ぱらぱらとめくってみると、中の頁(ページ)には時々、物語の場面を表した、思わず感嘆のため息が出るほどに美しい挿絵が描かれている。


 目に入る単語や挿絵をさらっと見てみるだけでも、内容を理解するにはこと足りる。

 これは、恋をするような年齢になると、少女達が時を忘れて読むようになる種類の物語だ。


 ふと、プリシラの目に飛び込んできたのは挿絵に描かれている青年の姿だった。


 黒髪と赤い瞳が印象的な、凜々(りり)しく端正な青年だ。

 青年は、物語の主人公と思われる少女とともに、色とりどりの花が咲く庭園を歩いている。挿絵は思わず見入ってしまうほど丹念(たんねん)に描かれていて、主人公の少女も、青年も、一緒にいられることを幸せに感じているのがその表情からありありと伝わってくる。


 青年を指さしながら、プリシラは尋ねた。


「ねえねえ、この人、なんかすごくかっこよく描かれてない? 主人公の王子様役なの? この種類の小説って、いろいろ試練はあるけど、最後は結ばれて幸せになるってやつでしょ?」

「それは……、そうね。そういう……小説だもの」


 ますます真っ赤に頬を染めるネリネの姿に、つい悪戯心がもたげてしまう。

 その反応を見れば、一目瞭然(いちもくりょうぜん)だ。

 ネリネがこの物語に我を忘れて夢中になっていたのは、きっと……

 にやにやしながら、プリシラはネリネに詰め寄った。


「この男の人って、どういう性格なの? 物静かなの? それともお調子者? 最初は主人公に優しい? 冷たい?」

「ど、どうしてそんなこと、訊くの」

「いいじゃない。純粋な興味。ねえほら、早く」

「……っ、誠実な人よ。口数は少ないけれど……優しい人なの」

「ふーん。どういうところが優しいって思ったの?」

「どういうところって、言われても」

「じゃあ質問変える。読み終えたところまでで、一番好きな場面は?」


 そう問うと、ネリネは目を一、二度瞬かせた。

 それから開いた本に視線を落とし、頁をめくる。

 ある頁に来たところで、紙面をめくるネリネの指先が止まった。

 その時、ネリネの横顔にふいに浮かんだ、深い安堵をともなった優しい表情に、プリシラはつい目を奪われてしまう。


「……泣いてもいいんだって、この人は主人公に言ってくれるの。無理して強くなろうとしたり、平気なふりしたり、しなくていい。……弱いままでもいいんだって。泣くのも、弱いのも、全然悪いことなんかじゃない。だから、隠さなくてもいいんだって……そう言って、主人公を慰(なぐさ)めてくれるの。……そういう、場面があって」

「なるほど。そうやって、許されざる恋が芽生えちゃうってお話なのね。ふふん、そりゃ、お姉様が実際に会ったら本当に好きになっちゃいそうな男の人が王子様役だったら、夢中になって読みふけっちゃうわけよね」

「プリシラ……。お願いだから、もうやめて……」

「ごめんってば。わかった、もうやめるわ」


 ……本当はもうちょっと聞きたかったけど、これ以上は限界みたいだし、仕方がないわね。

 そんなことを思いながら、ようやくプリシラは問い詰めるのをやめることにした。


 ネリネはもはや、耳の先まで真っ赤になって、今にも失神しそうなくらいだ。少しばかり悪戯がすぎたかもしれないと、さすがのプリシラも少しだけ反省する。


 でも、とプリシラは思う。

 思いがけず、とてもためになる情報を得ることができた。


(お姉様が好きなのは……誠実で優しくて、弱さも引っくるめて受け入れてくれる人……っと)


 頭の中に、得られた情報を忘れないように記しておく。


 ……いずれ、ネリネがこの国の女王になる定めを負っていることを、プリシラは王宮に来てからよくよく言い聞かされてきた。


 女王を支える役割をおもに担うことになるのは、二人。

 一人は、王族付きの騎士。

 そしてもう一人が、女王の夫となり、公私双方の面から女王を隣で支える者――王配だ。


 どちらの役目も、ネリネを心から敬愛し、真に信頼できる者にしか任せられない。


 その上で、ネリネが親しみを感じる性格の人物であればなお好ましいだろうと、プリシラは考えたのだ。


 ネリネはただでさえ、女王になるための教育を受けるのに忙しい。

 ならば、ネリネの騎士や王配となるにふさわしい人物を見定める、その手伝いくらい、プリシラができたならと思った。


(あたしがお姉様のためにできるのって、毎日の勉強と……それくらいしか思いつかないもの。ふふっ、あたしの目は厳しいんだから。……いつか、見つけないと。お姉様のこと、安心して任せられる人)


 少しでも、ネリネの力になりたい。役に立ちたい。


 そんな本心は恥ずかしくてとても本人に伝えられたものではなかったけれど、プリシラはこのところ、毎日そんな思いで過ごしてきたのだ。


 ネリネが読んでいた本を、そこに並んでいる文字列を、もう一度見つめる。

 ところどころ、ぽつぽつと、意味の読み取れる単語はある。

 けれど――どんな文章が書かれているのかは、やはりまだわからなかった。


「……ねえ、お姉様。あたしもその本、読みたいな」

「プリシラ……?」

「あたし、あんまり頭がよくないから。王宮に来てもう結構経つのに、情けないでしょ。……お姉様みたいに賢(かしこ)かったら、今頃はこのくらい読めてたのかなあ」


 王女となって、まずはじめにプリシラが教わったのが文字の読み書きだった。


 貴族の家に生まれた令嬢ともなれば、小さいうちから家庭教師を呼んで、文字の読み書きはもちろん、この国の歴史や芸術など、さまざまな教育を施されるのが普通だろう。


 しかし、プリシラの生まれた男爵家に、家庭教師を呼ぶ余裕など皆無だった。そもそも毎日畑に出ていたプリシラには、貴族令嬢としての最低限の教養すら身につける余裕はなく。


 ……読み書きすらまともにこなせない王女。

 自分が今も陰でそう嘲笑されていることは、知っていた。

 けれどもう、あの舞踏会の夜のように、絶望することはない。


「私は……知ってるわ」


 そう言って、ネリネはそっと微笑む。


「毎日、プリシラが一生懸命なこと。全然、情けなくなんかない。いつか必ず、いろいろな本を読めるようになるわ。それまでは……一緒に読んでいきましょう」

「……うん。ありがとう、お姉様」


 文章を声に出して読む姉のそばに寝そべって、物語に聞き入る。


 ネリネの声は穏やかで、ゆったりとしていて、聞いていて心地がよかった。

 その反面、主人公が恋する相手に睦言(むつごと)を囁(ささや)かれる場面になると、途端にひどく恥ずかしそうな小さな声になるのも、おかしくて、楽しくてならなくて。


「お姉様、そこは主人公が告白されて口づけをする、一番どきどきする場面でしょ? もっと感情豊かに、大きい声で読んでくれなきゃだめじゃない」

「……そ、そんなの無理よ……! そんな、堂々と声に出して読めるわけないでしょう……? じ、自分で読んでちょうだい」

「もう、だからあたしはまだ読めないの! ほらお姉様、もっと頑張って!」


 暖かで優しい木漏れ日に包まれた、木の下で。


 ……こんな。

 こんな時間が、ずっと続いたらいいのに。

 そう思えるほどに、それは心から満たされた、幸せな時間だった。


 けれど。

 この時のプリシラは、まだ知る由もなかった。

 この、何物にも代えがたい、かけがえのない時間を。

 まさか、他ならぬプリシラ自身が壊してしまうことになるなど――



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