第5章:飢え渇いた王女の追想 -2
その日の夜は、王宮で舞踏会が開かれることになっていた。
プリシラがまとうのはもう、流行遅れのぼろぼろのドレスなどではない。
姿見に映った自分の姿を、プリシラは飽くことなく見つめる。
細かな花の刺繍が愛らしい、淡い紫色のふんわりとしたドレス。
星灯りのようにきらきらと輝くのは、王女だけに許される、七色の宝石があしらわれたティアラだ。
変わったのは装いだけではない。
王宮に来てから、口にできる食べ物も格段によくなった。
そのためか、以前は青白くぱさついていた頬や唇は今では薔薇のように色づいて、髪も明らかに色艶を増したように見える。
まるで、生まれた時からずっと醜く、それまで人の目に止まることもなかった青虫が、美しい蝶へと生まれ変わるさまを思い起こさせるような。
そんな変化を、プリシラは遂げていたのだった。
(これが、あたしなの? あたし……こんなに、可愛くなれたの?)
泣いてしまいそうになるのを、我慢するのに必死だった。
嬉しくて涙が出そうになるなんて経験は、プリシラにとっては生まれて初めてで。
舞踏会の始まる時間を、今か今かと待ちかねた。
この姿を見たら、かつてプリシラをあざ笑った令嬢達は、いったいどんな反応をするだろう。
やっと今夜、プリシラは彼女達を見返すことができるのだ。
けれど、その考えがあまりに幼くあさはかで、甘い夢にすぎなかったことを、その夜プリシラは痛いほどに思い知らされることになる――
……そうしてついに、舞踏会ははち切れんばかりの期待とともに始まった。
溢れんばかりの喜びに頬を紅潮させながら、プリシラはきらびやかな大広間へと足を踏み入れる。
しかし、そんなプリシラを待ち受けていたのは、
「ねえ見て。あれが……」
異変に気づくのに、さほど時間はいらなかった。
こんなに美しく変わることができたのだ。
きっと令嬢達は顔を引きつらせて悔しがるだろうし、これまでプリシラを無視し続けた少年達も、競ってプリシラをダンスに誘おうとするに違いない。
そう、思っていたのに。
実際にプリシラを待ち受けていたのは、親しみのこもった微笑みでも憧憬の眼差しでもなく――この上もなく冷ややかな、無数の視線の束だった。
聞こえる。
聞きたくもないのに、針のように刺々しいその声が、聞こえてきてしまう――
「まあ、よくもあんなに堂々と顔を出せたものだわ」
「母親も母親なら、子も子っていうのはこのことね。ずうずうしいにも程があると思いませんこと?」
「あの女、セラフィーナ様を亡くされて陛下がご傷心でいらしたところに、まんまと取り入ってみせたのよ。なんて卑劣極まりない……わたくし、なんだか気分が悪くなってきましたわ。きっと、恥知らずのあの女と、あそこにいるあの女の娘と同じ空気を吸ったせいですわね」
(え……?)
ぐらりと、足元がおぼつかなくなる。まるで、プリシラのいるその場所に、今まさに大きな穴でも現れたかのように。
(どうして……?)
状況は、嫌でも理解した。
母オリヴィアが、傷心の国王をたぶらかした悪女だと非難されていること。
その連れ子であるプリシラも、悪女の娘として誹られていること――
「あ……」
喉が、からからに渇いていく。
心臓が、破裂しそうなほどに早鐘を打っている。
(違う……! お母様はそんな人じゃないわ! お母様は、陛下のことを本当に愛して――)
そう言いたかった。
なのに、凍りついた喉からは掠れた吐息混じりの声しか出てこなくて。
救いを求めるように、プリシラは立ち尽くしたまま視線をさまよわせた。同じ年頃の少年が近くにいた。その少年に、思わず手を伸ばして――
ぱんっ、と鋭い音が、耳朶を打った。
「近づくなよ。悪女の娘が、穢らわしい」
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
手の甲が、痛くて熱い。
やや遅れて、手を打ち据えられたのだと気づかされる。
(どう……して?)
今すぐにこの場から逃げ出したかったのに、足が動かなかった。凍えるような厳しい眼差しに、全身がつま先まで竦んでしまっていたのだ。
真冬の風に晒されたかのように、身体が芯まで冷えていく。
誰も、味方なんていない。
やっと、思い知らされたような気がした。
そうだ。まったくもって、皆の言う通りだ。
プリシラは、卑しい娘なのに。
多少美しくなろうとも、生まれや育ちは変わらない。泥だらけになった過去だって、何一つ変わりはしなかったのに――
もう、どうしていいか、わからない。
足から力が抜け、それ以上立ってさえいられず、美しいドレスが汚れるのも構わずその場に崩れ落ちる。
「あ、あああ……、あぁっ……!」
けれど。
頭を抱え、血を吐くように悲鳴を上げた――その直後。
「――やめてください」
突如聞こえたその声に、急にあたりが静まり返る。
さほど大きな声とは言えなかった。それなのに一瞬で皆が黙ったのは、その声があまりに凜として、鋼のような意志を宿しているように聞こえたからだろう。
こわごわと頭を上げる。
目に飛び込んできたのは、ゆるやかな波を抱く亜麻色の髪だった。
プリシラを庇うように立ちはだかり、愚図で、弱虫で、ろくに話すこともできないはずだった少女は――ネリネは、普段の彼女からは想像もできないほど強くはっきりと言い放つ。
「お父様はオリヴィア様を心から愛して、ともに生きていきたいと願ったから、彼女に婚姻を申し込んだのです。オリヴィア様は私のお母様――そしてここにいるのは、私の大切な妹です。お母様と妹を侮辱するような真似は、私が決して許しません」
「お、姉様……」
「約束してください。お母様と妹を、もう二度と貶めないと。もう二度と……私の大切な人達を、傷つけないで」
喘ぐような、ほとんど消えかかった声が出る。
眼前に立つ姉の背を、食い入るように見つめる。
しばらくしてもまだ、誰も言葉を発する者などいなかった。きっと、プリシラが今感じているのとまったく同じ感慨と衝撃に、皆打ちのめされているせいだ。
彼女は本当に、あの弱虫姫なのか。
今、プリシラを守って屹然としているのは、見知らぬ他人とは会話もままならず、涙目になって怯えていた、あの少女と同じ人物だというのか――




