第5章:飢え渇いた王女の追想 -1
初めてこの国の王女に――ネリネに出会った日のことを、プリシラは今でもよく覚えている。
ネリネに対してプリシラが感じたのは、親しみでも、憧れでもなく。
――唖然とするプリシラの前に、困惑する侍女が一人。
そして。
侍女が着ているワンピースドレスの裾を掴み、後ろに隠れて立っている――亜麻色の髪の少女が、一人。
侍女は呆れを隠すこともなく、しがみついて離れようとしない少女をなだめすかした。
「もう、姫様ったら。また今日もそのように恥ずかしがられて……。どうかプリシラ姫様に、ちゃんとお顔を見せてあげてくださいな。姫様は今日から、プリシラ姫様のお姉様になるのですよ」
そこまで言われてもなお、少女は――否、王女ネリネはもじもじと姿を隠したままだ。プリシラとやっと目が合ったかと思うと、びくっと肩を大きく震わせ、怯えた表情になってまた侍女の後ろに隠れる。さっきからずっと、こんなことの繰り返しだ。
(何……、何なの。まさか、これが王女なの? ネリネ王女……今日からあたしの、お姉様になる人?)
王宮で侍女として働いていた母オリヴィアが、国王アーノルドに見初められた。
母が王妃となり、そしてプリシラは、王宮に王女として迎え入れられる――
十一歳のある日、初めてそれを聞かされた時のとてつもない喜びを、プリシラは未だに忘れることができずにいる。
(お母様が、王妃? あたしが、この国の王女になるの……?!)
嬉しくて、本当に嬉しくて、飛び上がってしまいそうだった。
……母オリヴィアは、没落しかかった男爵家の生まれだった。
嫁ぎ先も似たような事情を抱える子爵家で、貴族らしい優雅な暮らしなど到底望めるものではなかった。
そして、嫁いだはいいものの、プリシラの生後まもなく、夫である当主が病死。
次の当主を子爵家の次男が継ぐことになり、居場所を失ったオリヴィアはまだ赤子だったプリシラとともに、貧しい実家に帰ることになったのだという。
プリシラにとって、幼かった頃の日々は、屈辱的な出来事の繰り返しだった。
食事は朝と夜だけ。しかも、ぱさぱさに乾いたパンと、わずかな豆と野菜を煮込んだだけの塩のスープのみという代物だった。
プリシラの祖父母にあたる男爵夫妻自ら、毎日畑仕事に精を出した。
オリヴィアも実家で何もしないで暮らすことなどできず、遠く離れた王宮に出仕して、侍女として休みなく働かなくてはならないありさまだった。
プリシラももちろん、物心がつく頃になると、畑仕事を手伝わなくてはならなくて。
土で真っ黒になった爪や、日焼けして赤剥けた肌、固い鍬やシャベルのせいで胼胝だらけになった手を見るたびに、プリシラは屈辱に震えずにはいられなかった。
(なんで……、どうして、あたしがこんな目に遭わなくちゃいけないの? あたしは、貴族令嬢なのよ?!)
貴族の身分に生まれついたのだから、もっと美しい装いをすることも、おいしいものを食べることもできたはずだった。無論、農民と一緒になって汗を流し、泥にまみれるなど、本来あってはならないことのはず。
事実、他の家の令嬢からあざ笑われることは日常茶飯事だった。
土の上にしゃがみこんで苗の手入れをするプリシラを、わざわざ馬車に乗ってやってきた令嬢がもの珍しそうに見物していく。
ほんのたまにパーティに招かれてみれば、当然のようにのけものにされた。
『見て、あのドレス。いったいいつの時代の意匠かしら。よくもあんな古くさくて野暮ったいドレスで出歩けるものだわ』
『あら、なんだか匂いませんこと? まるで、畑にまく肥料のような……』
『いやだ、それって、牛馬の糞を使っているって聞いたことがありますわ』
『皆さん、あちらのテーブルへ行きましょう。匂いが髪やドレスにうつったらたまりませんもの』
あからさまにプリシラに視線を向け、くすくすと嗤いながら、令嬢達が離れていく。
流行遅れのドレスも、身体にうっすら残ってしまった肥料の匂いも、プリシラにはどうしようもなかったものだ。
そうして、美しく着飾った令嬢達を目にするたびに。
胸の中で、激しい怒りと妬みが燃え上がるのを、プリシラは堪えることができなかった。
――いつか。
いつか、叶うのならば。
(見返してやりたい。嗤い返してやりたい。あたしを馬鹿にした人、みんな……!)
だから、嬉しかったのだ。狂喜乱舞したのだ。
これでプリシラは、プリシラを嗤った令嬢達の上に立つことになる。
彼女達を、はるか高みから見下ろすことができるようになる。
そして、もう二度と……
(もう、あたし、怯えなくていいのね。誰も、あたしを馬鹿にする人はいなくなる。今度はみんな、あたしに笑いかけてくれるようになるわ。だってあたしは、王女になるんだから……)
「あ……あの、その……」
不安そうにぷるぷると震えながら、ネリネがようやくプリシラの前に歩み出てくる。
ネリネの視線は相変わらず下の方をさまようばかりだ。緊張が強すぎるのか、その桃色の瞳には涙までたまっている。
正直に言って――がっかりした。
(こんな、びくびくして喋ることもできないような人が、王女? 王女になんて、全然ふさわしくない……こんな人が、あたしのお姉様になるの?)
内心の失望と苛立ちを、押し隠すのが難しかった。
――こんな人が、ずっと王女として大切にされていたなんて。あたしが大変だった時も、ずっといい思いをし続けていたなんて。
「わ、私は、ネリ――」
「はじめまして、ネリネ王女。プリシラよ。あたし達、これから姉妹になるんだから、あなたのことはお姉様って呼ぶわよ。それでいいわよね?」
もじもじ、おどおどしたネリネの話し方が気に食わなくて、つい彼女の言葉を遮って話し始めてしまう。
ネリネからしてみれば、おそらくはありったけの勇気を振り絞ってプリシラに話しかけただろうに、それを容赦なく拒絶されたのだ。
プリシラの失望は、ネリネにも伝わったのだろう。
ネリネはびくっと震えると、ますます小さく縮こまってしまう。その顔は歪んで、今にも泣き出してしまいそうだ。
「ご、ごめんなさい……」
「なんで謝ってるの? 全然意味がわからないんだけど」
「ごめん、なさ……」
思わず深いため息をつきたくなる気持ちを、どうにかして心の裡にとどめる。
ラウステラ国の王女、ネリネ。
彼女が生来、大人しく内気な性格であることは伝え聞いていた。まさか、会話すらまともに成り立たないほどだったとは思わなかったが。
臆病で、愚図で、弱々しい王女。
それが、ネリネと初めて出会った時、プリシラが抱いた印象だった。
この時のプリシラは、それからさほど経たないある日、ネリネに対するそんな印象がいっぺんに覆されることになるなど、もちろん知るよしもない――




