第4章:戦場の記憶、瀕死の少年 -8
やがて木々の陰から、泥に濡れた下草を踏みしだいて現れたその姿に、ネリネは思わず目を奪われる。
「プリシラなの……?」
「お姉様……」
ばったりと、姉妹の視線が重なり合う。
プリシラはしばらくの間、大きく目を見開いてネリネを見つめていたが、まもなく瞳に怒りをたぎらせ、ネリネのもとへと近づいてくる。
彼女がいつにないほどにひどく怒っていることは、傍目にもはっきりとしていて――
「…………っ」
ネリネは思わず目をつぶり、身を縮めた。
プリシラの怒鳴り声に、とっさに備えようとしたからだ。
けれど。
「――……っ、説明しなさいよ、この役立たずっ!」
憤然とした歩みで、ネリネの横を通り過ぎ。
プリシラが荒々しい剣幕を向けたのは、ネリネではなく。
ネリネははっとして目を開き、声が聞こえた方――ちょうど背後を振り返る。
驚くあまり、声一つ出すことすらできない。
目に飛び込んできたのは、これ以上ないほどに眦を吊り上げ、ダリルに詰め寄るプリシラの姿だったのだから。
プリシラはダリルに答える暇すら与えず、畳みかけるように怒声を浴びせていく。
「ダリル、あなた、あたしと約束してたじゃない! どんな時だって必ずお姉様を守るって! なのに何なの? こんな寒い洞窟でお姉様を休ませるなんて、お姉様が病気にでもなったらって少しでも考えなかったの?!」
「……返す言葉もありません。申し訳ありませんでした。プリシラ王女」
「謝ってすむことじゃないでしょう?! もう最悪……。あなたなんかを信じて約束した、このあたしが馬鹿だったわ!」
(プリシラ……!)
やめて、と言おうとした。
一刻も早く、プリシラに伝えなければならない。
昨日のあの状況では、王宮へ帰るのは不可能だった。
そんな中で、ダリルは最善の判断のもと行動してくれたのだと、そう伝えなければと――
けれど。
怒りに任せ、プリシラが言い放った事実に、衝撃を隠すことができない。
(今……プリシラは、なんて言ったの……?)
震える声で、ネリネは言った。
「プリシラ……ダリルと約束していたって……」
「……っ!」
はっと振り返ったプリシラが、血相を変えて息を呑んだ。
その反応を見れば、たった今プリシラが口走ったのは、ネリネに明かすつもりのなかった事実だったことははっきりと察し取ることができる。
「……聞き違いよ」
やがてぽつりとプリシラが零したのは、そんな言葉だった。
「プリシ――」
「聞き違いって言ったでしょ!? お姉様は不細工で、いっつも暗くて、おしゃべりも下手くそで、あたしは……あたしは、昔からお姉様のことなんか、大っ嫌いだったんだから! だからわかったでしょう!? 大嫌いな相手の心配なんか……心配なんか、するはず……っ」
その瞬間、目にしたものに、ネリネは呆然と立ち尽くす。
(どうして……?)
プリシラは泣いていた。
いつも冷然とネリネを見ていた、二つの黒い瞳から。
大粒の涙をとめどなく溢れさせ、喉の奥から引き絞るような声を漏らして、泣いていた。
「……っ、あたしは、お姉様なんか……」
「プリシラ王女」
プリシラの後ろに近づいていって、ぽんと彼女の肩を叩いたのは、後からやってきてやり取りを聞いていたらしいアドニスだった。
それからアドニスはプリシラの前に回ると、その場に片膝をついて視線を合わせる。プリシラの唇に人差し指を立てて、穏やかな口調で語りかけた。
「それ以上はもう、自分で自分を傷つけるようなことは言っちゃだめだよ。今のきみは、お姉様のことなんか嫌いって言いながら、きみ自身がものすごく傷ついているように見える」
「は――……?」
「それからさ、プリシラ王女。ダリルはちゃんと、ネリネ王女のことを守ったんだ。魔物のいる、しかも雨も降っている森を進むのは想像以上に危険なことだからね。ダリルが正しい判断をしたから、ネリネ王女は無事だし、オレ達もここまで助けに来られたんだ。だから、きみは馬鹿じゃない。ダリルを信じて約束したきみの気持ちは、全然間違ってなんかないんだよ」
「…………」
プリシラはぽかんと目を見開いてアドニスを見ていた。
しばらくして、思い出したようにふいっとそっぽを向き、憮然として答える。
「……わかってるわよ、そんなこと。アドニスなんかに言われなくたって、わかってるんだから」
そして、手の甲でぐいっと涙を振り払ったプリシラは、ダリルに向き直って言った。
「ごめんなさい、ダリル。話も聞かないで、怒鳴ったりして……。あたしが悪かったわ」
「いえ、謝らないでください。俺が昨日のうちに姫様を王宮へ帰せなかったのは事実です。あなたが姉君を心配なさるのは、当たり前のことですから……」
……今だ、とネリネは思った。
プリシラと話をするのなら、今だ。今しかない、と――
意を決して、顔を上げる。
ネリネは傍らに立つダリル、アドニス、それからアドニスに従って迎えに来てくれた王宮騎士を見渡して、口火を切った。
「ダリル、アドニス様……それから、騎士団の皆さん。少しだけでよいのです。今、プリシラと二人で……話す時間を。私に、与えてくれませんか」
「お姉様、何を言って――?」
すぐさまプリシラから胡乱げな眼差しを向けられる。
その眼差しを、ネリネは勇気を出して受け止めた。
今までのネリネだったら、プリシラに視線を向けられるだけでも恐くて、顔を上げることすらできなかった。
今だって、心の脆くて弱い部分が、話なんてしなくていいから、早く王宮へ帰ってしまえばいいと、頭にしきりにささやきかけてくる。
けれどもう、逃げたくはないのだ。
この機を逃してしまえばもう、プリシラとわかり合うことはできないのだから……
「お願い、プリシラ」
「…………」
プリシラは何も言わなかった。
ただ呆気に取られた様子で、言葉もなくネリネを見つめ返してくる。
つかの間、あたりに満ち満ちた静寂。
それを破って声を上げたのはダリルだった。
ダリルはネリネの方を向くと、うなずいて答える。
「わかりました、姫様。俺達はここから少し離れたところで待っています。何かあれば、すぐに駆けつけますので」
皆、朝早くから王宮を出立していて早く帰りたいだろうに、ネリネの頼みを快く聞いてくれた。ネリネの護衛のために一晩中眠らなかったであろうダリルは、特に。
騎士達に感謝しながら、ネリネは木立の向こうへ去っていく彼らの背を見送った。
あたりが静まり返った頃、プリシラがネリネに尋ねてくる。
不機嫌そうな顔だ。けれど、いつものような険を、今のプリシラからは感じられない。
「何よ、話って。あたしは、お姉様に話なんてないわよ」
「私は、あるわ。あなたに訊きたいこと、話したいこと……。でも、まずは……お礼を言わないと。ありがとう、プリシラ。きっと、あなたが……私とダリルが帰ってこないことをアドニス様に伝えて……それで、私達を見つけてくれたのよね」
「…………!?」
もしかしたら、ネリネが王宮に戻ってこないことに最初に気がついたのはプリシラだったのではないか、と。
それは、プリシラが騎士達とともに現れた時に感じた、根拠のない直感だった。
言葉を失ったプリシラの反応からは、やはりその直感は正しかったのだと、すぐに窺い知ることができる。
「……そうよ」
やがて、ぽつりと。
今にも消え入りそうな声で、プリシラは言った。
「雨が降ってきて、夕方になっても全然降り止まなくて。あたし、どうしたらいいかわからなくて、アドニスのところに行ったの。お姉様が、帰ってこないって。……お姉様が森の中で迷って、動けなくなって、もう二度と帰ってこなかったら……死んじゃってたら、どうしようって……!」
「…………」
愕然とするネリネを一瞥して、プリシラは自嘲ぎみに笑い、続ける。
「……あたしがお姉様を心配してたなんて、信じられないんでしょう。当然よね、だってあたし、ずっとお姉様にひどいことばかり言ってきたんだもの。お姉様があたしを恐がってるのも、あたしのことなんか嫌いなのも、知ってる。……全部、あたしが悪いの。あたしが、救いようもないくらい馬鹿で、見栄っ張りで、嫌な子だから……。だから、全部、全部……自業自得だって、自分でだってわかってるわ」
「……っ、違うわ、プリシラ。私は、あなたのこと――」
「いいの、お姉様。それ以上は……言わないで」
ネリネの言葉を遮って、プリシラは首を横に振る。
それから、傍目にも無理をしているのがはっきりとわかる笑みを――あまりに寂しく、切なげな笑みを浮かべて、言うのだった。
「お姉様は、優しいから。だからきっと今だって、あたしを許すようなことを言おうとしたんでしょ。ほんと、お姉様って昔からそうよね。昔から、馬鹿みたいに他人に甘くて、優しくて……手の施しようがないくらいの、お人好し」
「プリシラ……」
「ねえ、お姉様。あたしがこの国の王女になった頃のこと……覚えてる? お姉様と初めて会った頃のこと」
ネリネがプリシラと初めて出会ったのは、十二歳になる年。今からもう六年も前になる。
そうだ、と思い当たった。
今でこそ、プリシラはネリネを嫌い、蔑むような態度を取っていたけれど。
けれど、はじめからそうではなかったのだ。
出会って間もない頃のプリシラは、むしろ――




