第4章:戦場の記憶、瀕死の少年 -6
外の雨は、少しも止む気配がなかった。
雨の森の中、ネリネを連れて移動することはできない。
この分では、当初の目的だったフィリスの丘に向かうのはおろか、今日のうちに王宮へ帰ることすら難しいだろう。
森に降り注ぐ雨音に混じって聞こえてくるのは、二つの寝息だけだ。
一つは隣で悠々と横になったヘリアンサスのもので、よほどくつろいでいるのか、時おり鼻をひくつかせながら、地響きにも似た盛大ないびきをかいている。
そしてもう一つが、ダリルの腕の中に収まったままで眠っている、ネリネの静かな寝息だった。
冷えていた身体が温まって、ほっと人心地つけたためだろうか。
ある時、会話が途切れ、少しの間沈黙が続いた。その後にふとネリネを見遣ると、彼女は目を閉じて寝入ってしまっていたのだった。
ネリネが眠りに落ちていることに気がついた時は、ひどく狼狽えた。
ダリルがネリネに触れるのは、必要な時だけだ。
ヘリアンサスに二人で乗っていた間も、寒さに震える彼女を抱き寄せたのも、必要だったからやむをえずにそうしただけ。
そうでなければ、敬愛する主である彼女に触れることなど、恐れ多くてできるはずもない。
それに――
くったりとダリルにもたれかかって眠るネリネに、もう何度目になるだろうか――視線を向ける。
体温が戻ったためか、先ほどよりずっと血色のよくなった顔に浮かんでいるのは、この上もなく安らかな表情だった。
頬はほのかに色づいて、桃色の唇はうっすらと開かれていて。
一目見るだけで、彼女が安心しきっているのがわかってしまう。
抱かれた姿勢ではきっと起きた時に身体が痛んでしまうだろう。そう思って、乾きかけていた上着を敷いて、その上にネリネを寝かせようとも考えた。
けれど、できる限り負担をかけないように、慎重に地面に彼女を横たえようとした、その瞬間。
ネリネの呼吸が少しだけ、乱れる。
慌てて見遣れば、視界に飛び込んできたのは、彼女の手が、ダリルの着ている服の布地をぎゅっと掴むところだった。
まるで、このままでいたい、と。
ダリルと離れたくないと、彼女がそう思ってくれているかのように……
(姫様……)
胸がざわめいた。
とっさに目を閉じて、平静であらねばと努めなければならなかったほどに。
……だから、何度も、ダリルは自分に言い聞かせる。
勘違いするな。うぬぼれるな。ごみ屑だった頃の自分を思い出せ。
ネリネにとってのダリルは、ただの騎士にすぎない。
――ネリネの存在が、どうしようもなく愛しいのだと。
十一年前のあの時から、ダリルが抱いてしまったこの感情は、決して彼女に打ち明けてはならない。生涯、隠し通していかなければならないものなのだから。
ネリネに触れていると、それを、どうしても忘れてしまいそうになる――
ネリネの手は、まだダリルの服を掴んだままだった。彼女は時々身じろぎはしても、手だけは離そうとする気配はない。
ふいに、空気の流れが変わったか、雨粒を含んだ冷たい風が洞窟の中に入り込んでくる。
冷えた風が掠めていったせいか、ネリネがかすかに眉をしかめた。
風が当たらないように、少しだけ抱く力を強めると、彼女の表情は先ほどよりもずっと穏やかなものになった。
その表情に、胸が内側から引き絞られているかのように苦しくなる。
(なぜ……)
どうして、彼女はそんなにも、心を許しきったような顔をするのだろう。
ダリルの存在を、心から求めるかのような仕草を見せるのだろう――
「ん……。ダリ、ル……」
眠ったまま、ネリネの声が甘えるように、ダリルの名を呼んだのを聞いた瞬間。
もう、堪えることはできなかった。
心の奥深いところに固く戒めていた感情が、封を解かれてあふれ出す。
許されないことだと知っていた。わかっていた。
……それでも。
繊細な硝子細工に触れる時のように、ネリネの頬に手を添える。柔らかくしっとりとした肌の感触に、自分でも驚くほどに心臓が大きく跳ねる。
そのまま、ダリルは、
(姫様。……どうか。どうか、お許しください)
目を閉じ、そっと。
ネリネの額に口づける。
彼女が髪に飾っていた花がふわりと甘く香り立ち、誘われるように、その亜麻色の髪の一房にも、立て続けに唇を触れてしまう。
禁を破った罪悪感と、それでいてなお、彼女に触れたいと思ってしまう自分に対する嫌悪とが、心の中で激しく暴れ回って収まらない。
……頭をよぎったのは、今日、訓練の後にアドニスが口にした言葉だった。
『オレがダリルの立場で、きみが前に話してくれたみたいに姫様に救われたんだったら。このまま騎士として仕えていたら、たぶんいつか、限界が来る』
あの言葉の意味を、その日のうちに、これ以上ないくらいに思い知らされることになるとは考えにも及ばなかった。
これからも、ずっと。
未来永劫、ネリネのそばで……騎士として。
それはもしかしなくとも、かつて貧民街で理不尽な暴力に晒され続けてきた時よりも、もっと険しく、苦しい道のりなのかもしれない、と――
(俺は……耐えられるのか)
雨はまだ、降り止まない。
灰色の雨の森の向こうに、答えをくれる誰かを求めるように。
ダリルはしばらくの間、降りしきる雨を見つめ、無数の雫が弾けるその音に、耳を傾け続けていた。




