第4章:戦場の記憶、瀕死の少年 -4
その翌朝早く、ネリネは屋敷の一室にあるベッドの中で目を覚ました。
屋敷は普段は町長一家が居宅兼役所として使っている建物のようだったが、王家とその関係者達が滞在できるようにと、急ぎ貸し与えてくれたものらしい。
父王アーノルドはすでに屋敷にはいなかった。
昨夜遅くに仮眠をとったかと思うと、すぐにアルティナを発ち、ヴェリア軍がここまで南進してきた経路にある町へ向かったらしい。
「ヴェリア軍の中には、進軍の途中にある町から無理やり徴発された者が少なくなかったそうですわ。かわいそうに、兵糧のために町の作物も家畜も、みんな奪われていたそうで……。陛下はこれから戦後処理を進めながら、ヴェリアの各地をじかに視察して回るそうです。当面の間は陛下自らヴェリアを統治なさるのでしょうが、近いうちに、信頼のできる他の方を領主として定めなくてはなりませんものね……」
侍女の話の内容は、幼いネリネにはすべて理解できたわけではなかった。
それでも、アーノルドが国王としてやることはまだまだ山積みなのだということは、侍女の口ぶりからも充分にわかることだった。
母セラフィーナもまた、日の出前から傷病兵の看護のために出かけていったらしい。
「ずいぶんお疲れでしょうから、姫様は今日はここでお休みになっていても構わないと、陛下もセラフィーナ様もおっしゃっていましたわ。わたくしも、そうなさった方がよろしいと思います」
「いいえ。私も、行くわ。私にできることは、とても少ないけれど。それでも、私にだって、できることはあるから……」
もっともっと、大人達や、ネリネよりも年上の子ども達のように動けたらいいのにと思う。
けれどどんなに思いが強くても、ネリネはまだ七つの小さな子どもにすぎなかった。
腕の力は弱く、汚れた衣服やシーツを洗濯することはおろか、井戸から汲み上げた水を運ぶことも、排泄物や吐瀉物の入った木桶を持ち上げて町の外まで捨てにいくことも、一人では満足にこなせなかった。
だが、だからといって何もできないわけではない。
食事や替えの衣類を持っていったり、包帯や衣服を繕ったりと、ネリネにだってできることはあるのだ。
……だから、一人だけ特別扱いされて、ここで休んでいるわけにはいかない。
(行かなくちゃ)
窓の外に目を向ける。
昨日までは曇りがちだった空は、今日はよく晴れていた。
抜けるように青く、美しい秋の空だ。
その空の下では、今も大勢の傷病兵達が苦しんでいる。
「姫様……」
侍女はしばらくの間、何を言おうかと……おそらくは、ネリネをどうやって止めたらいいのかと、考えていたに違いない。
けれどまもなく、首を横に振って苦笑する。
「そのような目をなさる姫様を止められるはずがございませんわね。本当に、日を追うごとに王妃様に似ておいでになって……」
そうして、そっとネリネの肩にケープを着せかけながら、侍女はついに根負けしたのだった。
「朝のうちは風が冷えていますわ。少しでも温かくしてお出かけなさいませ、姫様」
「ありがとう。……それじゃあ、行ってくるわね」
「ええ。気をつけて行ってらっしゃいませ」
ネリネを元気づけるように微笑みかける侍女に見送られながら、ネリネは屋敷を後にする。
……そうして、その日。
自分の生涯において、最も大切な意味を持つ出会いが、じきに訪れることも知らず。
ネリネは太陽のまばゆい光に照らされる町へと歩き出していったのだった。
異変を感じ取ったのは、衛生兵に追加の包帯がほしいと頼まれ、物資を納めた倉庫へと向かっている最中のことだった。
何度も往復したために、たった一日で見慣れてしまった街中の道を、息を切らしながら駆け足で進む。
侍女が言っていた通り、早朝の風は強く、そして冷たかった。
まして、季節はもう、秋の終わりに差しかかっているのだ。
走っていれば寒さはあまり感じないが、汗が引いていくと身体が冷えて火に当たりたくなってくる。
どうしても気にかかるのは、大聖堂にも天幕にも入れず、空風の吹く路上に寝かされている傷病兵達だ。
(……きっと、温かい毛布がもっとたくさん必要になる。倉庫にいる人に、聞いてみないと)
そう考えながら、またしても吹き寄せる冷たい風に身震いをした――
それは、そんな時のことだった。
(今の、匂いは……)
ふいに鼻先をかすめた匂いに、ネリネは思わず歩を緩め、立ち止まる。
つんと鼻腔を刺すような、錆びた金属にも似た、独特の匂い。
それは、この町に来てからというもの、もうずっと間近に嗅ぎ続けてきた――血の匂いに違いなかった。
怪我人の集まる天幕や大通りならば常に血臭は漂っているから、特におかしいとも思わなかっただろう。
けれど今、ネリネがいるのは大通りからは外れた場所、倉庫へ向かうための近道で、近くに怪我人の姿はない。
それなのに、おびただしい血の匂いがどこからかはっきりと流れてくる。
気のせいだと片づけることはできなかった。
ネリネがいるこの場所からそう離れていないところで、誰かが血を流しているのは間違いないのだ。
(どこ……? どこなの……?)
あたりをもう一度くまなく見回して、やがて、ネリネは気づく。
ネリネのいるところから、数歩先。
建物の陰になっているところに、点々と血の染みが散っている。
慌ててネリネは染みのところへ走っていって、身を屈めた。
鮮烈な、赤。
血は乾いておらず、ネリネがここに来るほんの少し前に流されたものであることは明らかだった。
(やっぱり、この近くなんだわ。おそらくはこの奥に。……早く。早く、探さないと)
ネリネは立ち上がって、目を凝らした。
染みを見つけた建物と建物の、間。
あまりに細いその路地の奥。暗がりの中に、さらに路地が続いているのが見える。
「…………」
その場に縫い止められたように、動けなくなる。
今朝、外出する前に侍女から言われた言葉が、ありありと思い出されたからだ。
――いいですか、姫様。この町はとても入り組んでいて、大きな街路を外れたところにはいたるところに裏通りがあります。絶対に、そこに近づいてはいけませんよ。悪いことをする人達が、たくさん棲みついている場所ですからね。
ネリネがこのまま血の正体を追うというのなら、侍女の注意を無視することになるのだろう。
薄暗い通路からは、ひゅう、と冷えた鋭い風が、ネリネに向かって吹いてくる。
まるでネリネに、この先には近づくなと、何者かが警告を発してでもいるように。
……けれど。
「……っ! あれは……」
やがて視界に飛び込んできたものに、ネリネは思わず目を見開く。
通路を進んですぐの場所。
建物の外壁に、手の形をした血の染みが、べったりとこびりついている。
ネリネが探している怪我人は、きっとこの壁に寄りかかりながら、奥へ奥へと進んでいった。
今、大通りの方へ向かえば、治療を受けることができる。
それなのにどうして、その人物が裏路地に向かったのかはわからない。
あるいは、そもそも戦で怪我をした兵士なのではなく、今、町には医者や衛生兵達がいることを知らなかったのか――
何にせよ、ネリネは決めた。
言いつけを破ることになったとしても、このまま放っておくことなんてできない。
(……行きましょう。この奥へ)
はじめのうちはおそるおそる慎重に進んでいた足取りは、すぐに駆け足になる。
奥へ奥へと行くほどに、誰かがけたたましく咳をする音が聞こえてきたからだ。
「はあ、はあっ……、ぐ、ぅ……、げほっ、がはっ……!」
それは、ただ聞いているだけで耳を塞ぎたくなってくるような。
咳をするたび、どんどん命が削られていっているのではと不安に駆られてしまうほどに、ひどく苦しげな咳き込み方だった。
……やがて。
視界に飛び込んできたその姿に、ネリネはつかの間、足を止めてしまう。
(あ……)
薄暗く淀んだ空気。
得体の知れないごみがあちこちに散乱し、すえた匂いが充満する、裏通り。
ネリネが探し求めていた怪我人は、そこにいた。
腐臭を放つ汚泥にまみれ、逆立てた爪で胸や首をかきむしり、咳き込むたびに多量の血を吐き出して。
怪我人は――その少年は、誰にも気にかけられることなくたった一人、身をよじらせながら激しい苦痛に耐えていた。
「――……っ!」
立ち止まっていたのは、一瞬のことだった。
まるで誰かに助けを請うかのように、痙攣する少年の手が宙をかく。
ネリネは再び、駆け出していた。
……けれど、ネリネがたどり着く前に、少年はあたりをうろついていた大人達によって囲まれてしまう。
彼らが少年を助けようとしているわけではないことは、遠目にもわかった。
それどころか、複数人で囲んだ大人達は、げらげらと野卑な笑い声を上げながら、少年の身体を何度も蹴り飛ばし始める。
(どうしたらいいの……!?)
ネリネが一人で大人達を止めようとしたところで不可能なのは、火を見るよりもはっきりしていることだ。ネリネも少年と一緒に暴行を受けることになってしまうのが関の山だろう。
だが、だからと言って、助けを呼びに行く余裕などなかった。
このままでは、ネリネが助けを呼んで戻ってくる頃には、あの少年は……
どくんどくんと、これまでに経験がないほどに心臓が速く重く鼓動する。
息すら、できない。
視界が、明滅する――
「おらっ……、死ねよ屑が!」
頭で考えた、わけではなかった。
「だめ……」
考えるよりも早く、ネリネの足は、少年のもとへと、
「――――やめて!」
張り裂けんばかりのネリネの声が、あたりにこだまするほどに響き渡った――
アルティナの町に、王妃と王女が滞在している。
小さな町だ。その話が町全体に広まるのは早かった。
もちろん、裏通りの貧民街にも、セラフィーナとネリネの存在は知れ渡っていたのだろう。
……だから、少年をいたぶっていた大人達は、ネリネが王女だと悟ってそそくさと立ち去った。
「しっかりして!」
大人達が去るやいなや、ネリネは急いで少年のもとに駆け寄った。
とっさに少年の手に触れ、彼を抱き起こそうとする。
けれどすぐさま、ネリネの手は振り払われた。
驚いたネリネは思わず手を引っ込める。
少年の赤い瞳が、とても強烈な、絶望に満ちた光を帯びて、ネリネに向けられていた。
「俺、は……病気だから……。それ以上……っ、近づくな……!」
「…………!」
少年が伝えたかったことは、ネリネにもすぐにわかった。
彼のそばにいれば、ネリネまで病気にかかってしまうかもしれない。
だから、自分に近づくな、と――彼はそう言ったのだ。
死の瀬戸際に立たされて苦しんでいるはずなのに、それでも、自分よりネリネの身を案じて……
(……嫌)
嫌だ、と思った。
(この人に、死んでほしくない。そんなのは……絶対に、嫌)
また少年に突き放されるかもしれない。
けれどそんなことは少しも問題ではなかった。
迷うことなく、ネリネは少年の身体を抱き寄せる。
文字通り骨と皮ばかりの、ぞっとするほど軽くて、傷だらけの身体だ。膿んだ傷には蛆が這い、そのまわりを蝿が飛び回って離れない。
彼はこれまで、どれほどの苦痛と理不尽をこの身に受け続けてきたのだろう。生まれてこの方、皆から愛され幸せに生きてきたネリネには、想像すらできない。きっと、ネリネの想像をはるかに超えるほどの苦しみに、この少年はたった一人で耐え忍んで、必死の思いで生きてきたのだ。
(大丈夫よって……言ってあげたい。今だけは、少しでも……どうか安心してほしい)
だから、ネリネは、
「大丈夫」
もう一度、少年の手を握る。
今度は振り払われないように、さっきより少しだけ力を込めて。
少年の瞳から透明な雫が流れ落ちたのは、それからまもなくのことだった。
涙はすぐに、顔についた泥や血と混じり合って、濁っていく。とめどなく溢れるそれを、ネリネはそっと拭った。拭い続けた。
「もう、大丈夫よ」




