第4章:戦場の記憶、瀕死の少年 -3
ヴェリアまではどんなに速く馬を走らせても、丸一日以上かかる。
到着したのは、王都を発った日の翌日、昼を過ぎた頃だった。
両軍が激突して戦地となったのは、ヴェリアと隣の地方の境に広がる大平原。
大勢の負傷兵は、平原の一番近くにあるヴェリアの町、アルティナに運ばれていた。
町に足を踏み入れた途端、ネリネは絶句する。
町の外にまで漂う、おびただしい、血と汚物の腐敗した臭気。
ほうぼうからひっきりなしに聞こえてくる、呻き声や叫び声。
目の前に広がっていたのは、ここに来る前に想像していたよりももっとむごく、恐ろしい光景だった。
(何……。何なの、これは……)
アルティナは小さな町だ。
それに対して、運ばれてきた兵士の数はあまりにも多すぎた。
町に一つだけあった大聖堂は病院代わりとして使われていたが、それだけで足りるわけもない。聖堂前の広場や町の大通りまで、怪我人を寝かせるための天幕が隙間なく並び立っている。
そして、天幕にも入りきらなかった怪我人達は、地面に敷かれた粗末な板の上に横たえられ、ひっきりなしに吹き寄せる冷たい野風に直接晒されているのだった。
母セラフィーナがラウステラ国の生まれではなく、国どうしの同盟の強化のため、隣国から嫁いできた経緯を持つことは、幼いながらにネリネも理解していた。隣国ではたびたび戦が起きており、そのたび、セラフィーナは今日のように、援助のために自ら戦地に足を向けていたのだということも。
だからか、いたるところに負傷兵に溢れる町を前にしても、セラフィーナは全く動じなかった。
軍医に到着の報告をすませると、引き連れた衛生兵や騎士達にてきぱきと指示を出していく。
セラフィーナがネリネの方を向いたのは、最後だった。
緊張した面持ちで待っていたネリネに、セラフィーナは言った。
「ネリネは、私についてきて。怪我をした人の治療を手伝ってほしいの」
それからセラフィーナが向かったのは、外に寝かされている怪我人のところだった。
医者も、その麾下で働く衛生兵も、まったく足りていない。大聖堂と天幕の中に運ばれた怪我人の対処で精いっぱいで、外にいる人々はほとんど放っておかれていたに等しい状況だったのだ。
戦が終わってすぐの頃からアルティナにいた衛生兵によれば、より重度の怪我を負った者から屋内へ運び込まれたと聞く。
けれどだからといって、外に寝かされた人達が軽い怪我ですんでいるわけではないことは、一目見れば明らかだった。
「うあああああ……っ、ああああ……!」
「痛い、痛い、痛い……。誰か……誰か、助けてくれ……」
傷ついて血の流れる肩や腹を押さえて激痛に呻く者。
傷口から病を得てしまったのか、のたうち回って嘔吐や下痢を繰り返す者。
あまりの衝撃に、頭が真っ白になりかける。
慄然として、手足の動かし方すら忘れてしまう。
「……ネリネ!」
呆然と立ち竦んでいたネリネを我に返らせたのは、セラフィーナの声だった。
「早くこっちに来て! 今すぐにこの人の治療をしないといけないわ」
「…………!」
弾かれたように、ネリネはセラフィーナのもとへと駆け寄った。
セラフィーナが跪いたのは、腹に包帯を巻き、額に脂汗を滲ませて苦しむ怪我人のそばだった。外側まで血の滲んだ包帯はもう何日も交換されていないのか、汚れて腐ったような匂いを放っていて、何匹もの蝿がたかっている。
指示されるまま、ネリネは清潔な布を何枚も広げ、薬液で湿らせていく。
その間に、セラフィーナは怪我人に薬を飲ませ、血で固まった包帯を外し始めているところだった。
「ごめんなさい。とても痛むだろうけれど、必要なことなの。少しだけ我慢して」
そう言って、セラフィーナは傷口にべったりとはりついていた包帯を取り去った。
かろうじて塞がっていた傷口が開き、瞬く間に血が溢れる。
よほどの痛みだったのだろう。ぐったりとしていた怪我人は耳をつんざくような叫び声を上げ、傷だらけの身体を跳ねさせた。
(あ……。ああ……)
がたがたと、身体の震えが止まらない。
叶うならば今すぐここから逃げ出して、王宮へ帰りたい。
温かなベッドの中に潜り込んで、何もかもがもとに戻るまで、そこでじっと息をひそめていたい。
……それでも。
(私は……)
目の縁をじわりと濡らし始めていた涙を、誰にも気づかれないうちに拭う。
嫌だ、と思った。
逃げるわけにはいかない。目をそらすことなんてできない。
そんなことをしたって、誰も助からない。
それに何より、ここで逃げ帰れば、きっとネリネは自分に失望する。
所詮私はこんな人間だ。どうせ私には何もできないのだ、と。
卑屈でみじめな思いに心を支配されて、もう二度と、何もできなくなってしまう気がしたのだ。
セラフィーナの呼びかけにすぐさま衛生兵がやってくる。
セラフィーナは自分のいた場所を衛生兵にゆずると、ネリネの手を引っ張ってその場を離れた。
「ネリネ、こっちへいらっしゃい」
「お母様、でも……!」
「この方にはもう、私やネリネには何もしてあげることができない。他の方のところへも行かなければ」
セラフィーナの言葉は、ネリネも理解できた。
包帯の下からあらわになったのはひどい傷だった。すぐに傷口を縫わなければならず、あとは医術の心得のある衛生兵に任せるしかない。
「…………っ!」
どうしてそんな行動をとったのか、自分でもわからなかった。
頭で思うよりも先に、気づけばもう、身体が動いてしまっていて。
「姫様……!?」
衛生兵が驚く声が聞こえた。次の怪我人のところへ去ったと思っていたネリネが戻ってきたのだから、当然だろう。
衛生兵の邪魔になってはいけないことは、わかっていた。
それでも、戻らずにはいられなかったのだ。
痛みのためか宙をかいていた怪我人の手を握って、声をかける。
虚ろだった怪我人の両目がネリネを映して、ゆっくりと見開かれる。
「大丈夫よ。……もう、大丈夫。あなたはきっと、よくなるからね」
名残惜しい気持ちを堪えて、ネリネは手を放す。
セラフィーナのもとへ急いで駆け戻るネリネの背に、怪我人が発したその声は聞こえていなかった。
「あれは、王女殿下なのか……? ネリネ、様……。ああ、俺達は……、陛下を殺めようとした。王妃様のことも、姫様のことも、王家の者はみなすべて、殺そうとした。それなのに……!」
いつしか日が暮れて、あたりに松明の炎が灯された後も、治療は休むことなく続けられた。
衛生兵達は怪我の手術や薬の調合に勤しみ、治療する技術のない者も、水を汲んできたり、地面に飛び散った血や嘔吐物を掃除したりと、誰も彼もが忙しく働いた。
ネリネもずっと、老若男女、大人か子どもかも関係なく、総出で働く町の人々に混じり、怪我人達の間を駆け回り続け……
「姫様! あっちで王妃様がお呼びになっているよ! ここはもうあたし達に任せて、さあお早く」
「お母様が……?」
しばらく一緒になって包帯や布を運んでいた町娘に促され、ネリネは町娘が指さした方角へと急いだ。はじめのうちは母と一緒に行動していたネリネだったが、慣れてくるにつれて、だんだんと一人で行動するようになっていたのだ。
へとへとになった足で必死に走っていくと、その先に見て取った人物の姿に、ネリネは思わず立ち止まる。
一瞬で喉元まで熱いものがせり上がり、震える吐息がこぼれるのを我慢することはできなかった。
「お、父様」
かがり火に照らされた天幕のそば。
血や泥で衣を汚したセラフィーナの隣に、立っていたのは。
「――ネリネ」
それは夢でも、幻でもなかった。
父がそこに、立っている。
ネリネに気づいて、優しく目を細めて微笑んでいる――
「お父様! お父様ぁ……っ!」
泣き叫びながら、つんのめりそうになりながら飛び込んできたネリネを、父王アーノルドは両腕で抱き留めた。ネリネの頭を撫で、額と頬に口づけの雨を降らせる。
それから、大声で泣き崩れるネリネをしっかりと抱きしめて、何度も背を撫でながら言ったのだった。
「よしよし。ネリネ、こんなに小さな身体で、本当によく頑張った。お前は私の自慢の娘だよ。今日はもう、ゆっくりお休み」
「……っ、う、ぁ、ああ、ああああああぁ……っ!」
……それからのことを、ネリネはよく、覚えていない。
父の腕の温もりに心から安心し、そのせいで、ぴんと張った弦がぷつりと途切れるように、へとへとだった身体の力が抜けてしまって。
おそらくはそのうちに、父に抱かれたまま、深い眠りに落ちてしまったためだった。




