第4章:戦場の記憶、瀕死の少年 -2
やがて、ネリネは伏せていた顔を上げて、口を開いた。
迷いはもう、なくなっていた。
「お母様。私……」
意を決して、次の言葉を続ける。
「……私も、一緒に行くわ」
セラフィーナの瞳が驚きに見開かれる。
周囲にいた騎士達や侍女も、ネリネの発言に慌てた様子だった。
「姫様、何を仰います!」
「そうですわ、姫様。あなたはまだこんなにもお小さいのに……。ヴェリアに向かうなど、とんでもありません」
彼らの反応は、至極当然のものだろう。
それはただ単に、戦はまだ終わったばかりで、治安が乱れていることが予想されるから、というだけではない。
セラフィーナはネリネの言葉に、反対を示さなかった。
ただ、母は静謐に満ち満ちた瞳でネリネを見つめてくる。
それは、ネリネに覚悟を問う眼差しだった。
母は騎士を隣に呼び寄せると、彼が持っていた剣を受け取って、その鞘を取り払う。
あらわになったのは、窓から注ぐ日の光を浴びて光る、抜き身の鋭利な刃だった。
「ネリネ。これに触れたらどうなるか、わかるわね」
ごくりと唾を飲み込んで、ネリネは刃に目を凝らす。
よく手入れされ、磨き抜かれた硝子のように光を放つ刃は、少し触れただけでも肌が切れて血が出るだろうことは明らかだった。
もし戦に出て、この刃に身体を切られたり、貫かれたりしたら……
想像しただけでぞっとして、どこも怪我などしていないのに、激しい痛みを感じるような気がした。
ネリネが青ざめたのを見て取ったのだろう。
セラフィーナは続けて尋ねてくる。
「本当にひどい怪我を負った人が大勢いるわ。血だってたくさん出るし、痛くて叫んでいる人もきっといるでしょう。苦しみながら命を落とす人だっている。……あなたは、そんな人達を前にしても、逃げたりしないって約束できる?」
「…………」
あまりにも強く厳しい母の視線に、思わずたじろぎそうになる。
生半可な返答は許されない。
ネリネはしばらくの間、声一つ出すことも、動くこともできずにいた。
……けれどやがて、ネリネは心を決めて、うなずく。
「前に、お父様に言われたの。目を背けたくなることは、たくさんあるけど。でも、だからって、そこから目をそらして逃げても、なかったことにはならないんだって」
――強く優しい王になっておくれ。
そう願った父王に、ネリネは約束したのだ。
『うん。私……、お父様みたいになれるように、頑張るね。お父様みたいに、みんなを守る王様になるの』
少し恥ずかしげに、けれどはっきりそう言ったネリネに、父は微笑んで、そうかそうか、と言って、頭を何度も撫でてくれた。
あの日、父に答えた言葉を、嘘にしてはならないのだ。
勇気を出して、ネリネはもう一度口にする。
「だから、私も。お母様。……私を、ヴェリアに連れて行って」
「ネリネ……」
ネリネがここまで強い意志を漲らせて願ってくるとは、思ってもみなかったのだろう。
セラフィーナはしばらくの間、息を呑み言葉を失っていたが、ややあって再びネリネに問いかけてくる。
「行くからには、ネリネ、あなたにはしっかり母様の手伝いをしてもらう。みんな、怪我をした人達を助けようと必死になって動いているわ。もしあなたが恐くて泣き出したとしても、母様も、誰も、あなたを慰めたり、気遣ったりする余裕なんてないの。……迷惑をかけないって。泣き言を絶対言わないって、約束できる?」
「はい、お母様」
「もう一度訊くわ。何があっても逃げないって、約束できる?」
「約束するわ。……王宮でじっとしてなんて、いられない。私は、今、苦しい思いをしている人を助けたい」
眼差しに力を込め、セラフィーナの視線を受け止め続ける。
今口にした言葉が嘘ではない、と。
中途半端な覚悟からなされた宣言ではないと、言葉だけではなく、態度でも母に示すために。
やがてセラフィーナは、うなずいた。
剣を騎士に返し、ネリネの手を握って、微笑む。嬉しそうに。けれど同時に、なぜだか少しだけ、寂しそうに。
「ネリネ。あなたはいつの間にか、こんなに大きくなっていたのね。……いつの間にか、こんなにまっすぐで、力強い目をするようになっていた」
「お母様……?」
わけもわからず首を傾げるネリネに、セラフィーナは少しだけ顔を伏せて、ゆるりと首を横に振った。
やがて再び顔を上げたセラフィーナの表情からはもう、寂しさの影は消え去っている。
「わかったわ。ネリネ、母様は……いいえ、私はあなたを信じる。あなたを、頼りにさせてもらうわね」
はっとして、ネリネは瞠目した。
ネリネを信じる、と。セラフィーナは言ってくれたのだ。
ネリネはもう、母を頼り、守られるばかりの無力な子どもではない。
母に縋らずとも、自分の意志で言葉を話し、動くことのできる、一人の人間なのだと――
「……お母、様」
立ち尽くしていたのは、一瞬のこと。
ヴェリアでこれから、何を目にすることになるのか。そこでネリネは、本当に怖じ気づかずにいられるのか。
恐怖や心細さがないわけではなかった。
けれどそれよりも何よりも、母がネリネを信じて尊重してくれたこと、ネリネを対等な者として見てくれたこと、その事実が、心の底から嬉しくてならなかった。
「……はい」
ぎゅっと、母の手を握り返す。
それから、もう一度うなずいて、ネリネは言った。
「はい、お母様。私は必ず、お母様の……みんなの、力になるわ。だから、どうか、私をヴェリアに連れて行ってください」
……そうして、ネリネは母とともに、ヴェリアへ発つことになったのだった。
生まれ育った王宮を出て、未知の土地へ。
それまでずっと、両親や侍女達のもとで守られて過ごしてきたネリネにとって、それが初めての、外に広がる世界への旅だった。
セラフィーナが率いる衛生兵団の一員として、ネリネは旅立つ。
その先で。
後にネリネの騎士となる少年に出会うことを、この時のネリネはまだ知らずに――




