第4章:戦場の記憶、瀕死の少年 -1
……それは、今から十一年前の秋のこと。
ラウステラ国北東の地、ヴェリアを治める領主が王座を狙って戦を企てた。
国王アーノルドはヴェリアからの進軍の知らせを聞き、直ちに騎士達を率いて王都を出立した。
ヴェリアと、隣接する地方の境にある平原で、両軍は激突。
ヴェリア戦役。
後にそう呼ばれる戦は、ヴェリア軍に負傷者を大勢出しながら、国王軍の勝利によって終結することになる。
(フィリス様……どうか。どうか、お父様を……みんなをお守りください)
当時まだ七つになったばかりだったネリネがその勝利を聞かされたのは、王城の敷地内にある聖堂で祈っていた時だった――
*
静寂に包まれていた聖堂に響いたのは、勢いよく扉が開かれる音。
思わず目を開いて背後を振り返れば、そこには息せき切って走ってくる侍女の姿があった。
「姫様! たった今、知らせがあって……! 陛下が――」
「お父様が……!? 戦いは、どうなって――」
父王アーノルドが騎士達を率いて王都を発ったのは、もう五日前のことだった。
父が出て行ってからというもの、ネリネは毎日のように聖堂へ通い、女神フィリスへ祈りを捧げ続けていた。幼いネリネが父のためにできるのは祈ることくらいで、それにネリネ自身も、祈っていなければ今にも不安に押しつぶされてしまいそうだったのだ。
もしも。
もしも、お父様が戦場で……
最悪の想像をしかけたネリネの手をぎゅっと握ると、侍女は溢れんばかりの笑みを浮かべて告げ知らせた。
「陛下はご無事ですよ! 戦いは陛下の勝利に終わりました。姫様はもう、安心してよいのです」
「ああ……!」
泣き崩れたネリネを、侍女が優しく抱き留める。
(よかった……! お父様が無事で、本当によかった……!)
もうずっと、まともに眠ることすらできないほど心配で仕方なかったのだ。
聞けば、国王軍側の被害もほとんどなかったらしい。戦を起こしたヴェリアの領主は討たれ、ヴェリア軍の将兵達も皆、投降。再び戦が起こる可能性もなくなった。
誰も、死ななかった。
みんな、無事に帰ってくる。
ほっと胸を撫で下ろし、女神フィリスに感謝の祈りを捧げてから、ネリネは聖堂をあとにしようとした――
騎士を従えた母、セラフィーナが現れたのは、そんな時のことだった。
ネリネは一目散に母のもとへ駆け寄っていく。
セラフィーナはしゃがみ込んで手を広げると、ネリネを抱きしめて頭を撫でてくれた。
「お母様! お父様が……、お父様が無事だって……!」
「ええ、母様も聞いたわ。本当に、本当によかった……」
そうしてしばらくの間、ネリネとセラフィーナは抱きしめ合ったまま、喜びを噛みしめる。
……けれど、ふと、ネリネはセラフィーナの周囲にいた騎士達の存在が気にかかった。
いつも母のそばで仕事をしている、専属の騎士だけではない。他にも複数人の騎士達が集まっていた。
それに、よくよく見れば、セラフィーナが身にまとっているのは、見慣れた華やかなドレスではなかった。外出用の簡素なドレスで、母がこれからどこかへ出かけようとしていることは一目見るだけで明らかだった。
「お母様……これから、どこかへ行くの?」
尋ねると、セラフィーナはうなずいた。
「ええ。母様はこれからヴェリアに行ってくるのよ。怪我をして困っている人達が、たくさんいるから……」
ネリネは目をぱちくりと瞬いた。
「お父様は、怪我しなかったって。みんなも、無事だって聞いたわ。なのに、どうして……?」
「いいえ」
セラフィーナは首を横に振って、言った。
母はもう笑ってはおらず、その瞳は真剣だった。
これから続く母の話は、喜び浮き立った心で聞いていいものではない。
そう瞬時に悟ったネリネは、涙を拭い、居住まいを正して母を見つめる。
ネリネに聞く準備が整ったのを見て取ったセラフィーナは、まっすぐにネリネを見据え、口を開いた。
「確かに、お父様達はみんな無事だわ。でも、ヴェリアの人達はそうじゃない。たくさんの兵士達が怪我をして、今も苦しんでいる」
「…………」
母がこれから向かおうとしているのは、戦のあった地だ。
目を背けたくなるようなひどい傷を負った人達が、大勢溢れているのだろう。
けれど同時に思い出したのは、かつて父がネリネにかけた言葉だ。
あれは、いつのことだっただろう。
父はネリネを抱き上げると、王宮の窓の外――広大な都の風景を見せながら、ネリネに語り聞かせたのだ。
ネリネの眼下で、都はその日も活気づいていた。
通りを歩く人々のいきいきとした声。
喜怒哀楽、色とりどりの感情。
それらが、離れた王宮にまで伝わってくるようで。
『よく見ておきなさい、ネリネ。あれが、お前が守っていくべきものだ。お前はいつか、次の王として立つことになる。このラウステラ国を統べる王に』
『おう……?』
わけもわからず、ネリネは父の言葉を繰り返した。
父は、うなずいた。
『そうだ。ネリネ……お前は、人の痛みや苦しみに鈍くなってはいけない。そこにあるはずのものをないものと見なして、目をそらすようなことは決してあってはならないよ。お前の心は、とても素直で温かだ。どうかそのまま、強く優しい王になっておくれ』




