第3章:記憶の欠片、忠誠の理由 -10
耳元に声が聞こえたのはしばらく経った頃のことだった。
けれど、とにかく気をそらすことだけに集中していたネリネは、なかなかその声に気づかない。
それからしばらくして、「姫様」と呼ぶダリルの声が耳に飛び込んできた瞬間、ネリネはようやく、冷や水をかけられたように一気に我に返ったのだった。
「ご、ごめんなさい! 私ったら、ぼうっとしてしまって」
「いえ、構いません。ただ、今の状況についてご報告すべきかと思い、声をおかけしただけですので。お疲れのようでしたら、お休みになってからでも……」
今の状況。
ダリルの言葉を聞いてようやく、少しずつ頭が冷静さを取り戻していく。
そうだ。いつまでもぼんやりしている場合ではないのだ。
魔物による突然の襲撃。
降り止む気配のない雨。
雨風を避けられる場所に腰を落ち着けることができた今、状況を確かめなければならない。
首を横に振って、ネリネは言った。
「いいえ、大丈夫よ。今、あなたの報告を聞かせて。フィリスの丘までの道に魔物が出たなんて、今まで聞いたことがなかったのに……」
かつてフィリスが降臨し、太陽を昇らせたとされる地に、ラウステラ国は築かれた。フィリスの力は今でもラウステラの地に生きていて、魔物を生み出す暗黒が現れることはめったにないとされてきた。あんなにも間近に魔物を見たことすら、ネリネは初めてだったのだ。
無事に逃げることができてほっと安心できたのは、つかの間のこと。
今もあの魔物が森に潜んでいるかと思うと、せっかく平静さを取り戻していた身体が、またしても震えてしまいそうだった。
彼は少し考え込むような間を置いてから、口を開いた。
「わかりました。ではまず、この洞窟についてですが……ここは、万が一隠れ場所が必要になった時にすぐに逃げ込むことができるように、騎士団内で前もって決めてある場所の一つなんです。岩や蔦の陰になっているから、すぐ近くまで来なければ洞窟があるとはわからない。これだけ雨が降っていれば、なおさらです。それに、先ほど外に出た際にも、魔物の気配はまったく感じませんでしたから、この場所が見つかって襲われることはまずないと考えていただいて構いません」
「それなら、雨が止むまではここにいれば……」
「はい。……俺も、魔物に出くわしたのは久しぶりでした。ほとんどないとはいえ、この国でも、フィリスの力を退けて魔物が現れるのは時々あることです。けれど今日は、姫様にとって、とても大切な日だったというのに……」
「…………」
お母様。
そう心の中でつぶやいて、目を伏せる。
視界のすみに見えているのは、ここまで持ってきたガーベラの花束だ。美しく咲いていた花は、今や冷たい雨に濡れそぼり、無惨にしおれてしまっている。
学者の予想を外れて、雨は例年よりも早く降り始めてしまったのだ。
初夏のうちにもう一度日を改めてフィリスの丘を訪れるのは、もう難しいだろう。
「……花」
聞こえた声に、ネリネは目を瞬いて背後を振り返る。ダリルもまた、ネリネと同じように、しおれて項垂れてしまったガーベラの花に目を向けていた。沈んだ声で、彼は言う。
「せっかく綺麗な花だったのに。……その。残念、でしたね」
「ええ。……でも、いいの。いつもより遅い時期にはなってしまうけれど、また別な日にお母様のところへ行くわ。だから……ありがとう、ダリル。ここまで、私を守って、連れてきてくれて」
「いえ……姫様をお守りするのは俺の務めですから。他に、何か気になることはありますか?」
「そうね……今は、ないわ。ここに隠れていればまた襲われることはないと……。それだけで、安心できたもの」
「そうですか。それなら……よかった」
それきり、洞窟の中には静寂が広がっていく。
時おりぱちぱちと弾ける焚き火の灯りを見ていると、少しずつ心が落ち着いてくる。
安堵から小さく息をつき、何気なく視線を落として。
……けれど。
ふいに目についてしまったものに、ネリネは思わずはっと息を呑み、大きく瞬きをせずにいられなかった。
袖口から覗く、ダリルの腕。
(これは……何……?)
その肌の表面にあったのは、無数の傷跡だった。
よくよく見れば、傷跡は手の甲にもはっきりとわかるほどに残っている。
はじめは、訓練で負った傷が残ったものかと思った。
さっき、初めてダリルが戦うところを見ただけでも、わかる。
馬を駆りながら剣を振るい、襲い来る敵と戦う。
ダリルの持つ戦闘技術は、日頃から厳しい訓練を重ねていなければ到底身につけることなどできないものだ。
今の強さを得るまでに、彼は幾度も負傷してきたことだろう。
剣で肌を切られることも、身体を激しく打って怪我をすることも、数え切れないほどたくさんあったはずだ。
けれど。
(この傷は、違う。……全然、違う)
傷の周囲の皮膚は不自然に盛り上がったり引きつれたりしていて、最近の傷ではないことはすぐにわかった。黒ずんだ痛々しい傷跡は、重なり合い、交差し……おそらくは、衣服で隠されている部分にも、刻まれている。
剣で切った傷ではない。
細長いもの。
たとえば鞭か何かで、執拗に打たれた痕のような……
「姫様?」
「……この、傷」
思わず口にしてしまった言葉で、ダリルはネリネが何を見て驚いていたのかをすぐに察したらしかった。
言葉を詰まらせるような一瞬の間の後、彼は傷跡を手で隠すような仕草を見せる。それから、言いにくそうに、歯切れ悪くネリネに謝罪を口にする。
「……すみません。見苦しいものを、見せてしまいましたね」
「いいえ、謝る必要なんてないわ。見苦しいなんて思わない。ただ……」
……尋ねてもいいことなのだろうか。
気にかかって、けれど迷って、なかなか次の言葉を続けることができない。
ひどい傷だ。
この傷にかかわるダリルの過去が忌まわしく陰惨なものであることくらい、傷を見るだけでわかりきったことだったからだ。
話を、変えるべきだ。
凄惨な記憶を、彼に語らせるべきではない。
けれどネリネが違う話題を考えつくよりも、ダリルが再び口を開く方が早かった。
「貧民街にいた頃、ですが」
「ダリル……」
「俺は何度も、盗みをしました。数を覚えていないほどです。自分からやったのもあれば、大人に命じられて盗んだこともあります。しくじればもちろん、罰を与えられました。……これは全部、その時の傷です。悪事を働いたのだから、当然のことです」
それはあまりに淡々として、まるで他人の身に起こったことでも話しているかのような語り口だった。そのことが、余計にダリルの持つ過去の過酷さを物語っているようで、ネリネはただただ、言葉を失っているほかない。
「……あなたは、俺を責めないのですね」
「え……?」
「俺は今でも、盗人と誹られることがあります。どんな事情があったとしても、悪事を働いた人間は決して許されるべきではないと。それなのに姫様は、なぜ……」
なぜ。
本当に、ダリルは不思議でならないのだろう。
……けれど。
責める、なんて。
ネリネは首を横に振った。
「責められるはずないわ。だって、私があなただったら……あなたと同じような境遇だったら、私だって悪いことをしていたかもしれない。いいえ、私は他の人よりずっと弱い人間だから、あなたよりもっとひどいことをしていたかもしれないわ。それなのに、あなたを責めるなんて、できるはずがない」
「姫様……」
「……私は、生まれてからずっと、明日食べるものに困ったことは一度もなかったわ。愛されて、大事にされて、たくさんの物を、当たり前のように与えられて生きてきた。私が何も悪いことをせずに生きてこられたのは、たまたま、運がよかっただけ。だから、あなたを責める資格が、私にはないわ。生まれた場所が違うだけで、私とあなたは、何も変わらない。――私だって、あなたと同じなのだから」
ダリルから言葉は返ってこなかった。
雨脚が強くなる。どこか遠くで、雷が鳴った。
暗く、冷えきった、灰色の雨だ。
ふと、思う。
かつてダリルは、何度、この凍えるように寒い雨に、たった一人で晒されてきたのだろうと。
それは、どれほど寒かっただろう。つらかっただろう。寂しかっただろう。
想像するだけで、心が芯から凍てついてひびわれていくような、そんな思いがした。
……こんな言葉なんかでは到底、彼がその身に受けてきた苦痛には足りないと思う。
それでも。
「……ごめんなさい、ダリル。昔のことを語らせてしまって。あなたに、つらい記憶を思い出させてしまった」
気づけばネリネは、ダリルの手に残る傷跡に触れてしまっていた。そんなことをしても、肌の深いところまで刻まれてしまった彼の傷跡が癒えるわけもないのに。
……後ろからネリネを抱きしめる、ダリルの腕の力が強まったのは、それからまもなくのことだった。
ただ単に、ネリネの身体を温めるためではない。
それはまるで、縋るような。
いつもは気丈で落ち着いた彼らしくもない、強く切実な抱きしめ方だった。
「ダリル……?」
「すみません、姫様。少しだけで、いいんです。もう少しだけ……こうしていることを、許してもらえませんか」
「…………」
そっと身じろいで、ダリルの正面に向き直る。それから、その広い背に両手を回して、抱きしめ返した。その背は、かすかに震えている。
「……姫様。あなたは本当に、変わらないのですね。いつもそうして、容易く……他人を救い上げてしまう」
「え……?」
ダリルが吐露した言葉を、胸の裡で繰り返さずにいられない。
今の彼の言葉は、まるで。
まるで、ずっと昔からネリネを知っていたかのような……
(でも私は、ダリルとはこの春に会ったばかりで……)
――本当に?
心の奥底から、そう尋ねる自分の声が聞こえてきたのは、その時のことだった。
本当に、彼と会ったのは、今年が初めてなの?
何か、忘れていることがあるのではないの……?
それまでずっと、長い間。
暗闇に沈んでいた記憶の一端が、じわりと熱を持つのを感じた。
「ダリル。私……、私は」
「姫様……?」
……その、瞬間。
ついに頭の片隅で何かが強く光った気がして、ネリネは短く息を呑んだ。
霞がかった古い景色の向こうから、声が聞こえてくる。
それは、ネリネがずっと忘れていた、古い、古い、記憶の断片――
『姫様! ああよかった、いったいどこへいらっしゃっていたのです!? 皆、あなたのことを捜して――……、姫様!?』
『助けて……。お願い、助けて……! 早くしないと、この人が……!』
記憶の中で、ネリネは必死に声を張り上げていた。
ただただ、死なせたくない、その一心で。
そうだ。あの時、ネリネはどうしても、助けたかった。
でも、いったい誰を――?
『だ……めだ……っ!』
声が、聞こえた。
少年の声だ。
『俺、は……病気だから……。それ以上……っ、近づくな……!』
震える吐息が、こぼれ落ちる。
「……私、あの時どうしても……、助けたいと思ったのよ」
自分でも意識しないうちに、ネリネはそう声に出していた。
それは幼いネリネが、初めて彼と出会った時に抱いた、感情。
どうしようもなく強く激しいその感情に、あの日のネリネは突き動かされていたのだ。
「私には想像できないくらいに、この人はきっと苦しくてつらい目に遭ってきたんだって……そう思ったの。それなのに、あなたは自分より私のことを心配していて、それがとても、歯がゆかった。……少しでも、安心してほしかった。もう大丈夫よって……、そう言ってあげたかったの」
ダリルは瞠目し、食い入るようにネリネを見つめていた。
ネリネもまた、彼の瞳を見つめ返す。
紅玉よりも深い赤を宿した、その瞳を。
……本当に、なぜ今の今まで忘れてしまっていたのだろうと、不思議でならないほどだった。
ネリネはこの瞳を、もうずっと遠い昔から知っていたはずなのに――
「あなた、なのね」
確信を込めて、ネリネは言った。
儀式の日、ダリルの姿を見た瞬間、どうしてか懐かしいと感じたこと。
今朝、ネリネが見た夢の中の光景。
そして、彼がネリネの騎士になってくれた理由。
今ようやく、そのすべてが一つにつながった。
「十一年前の、ヴェリアで。ダリル……あなたが、あの時の男の子なんでしょう?」
赤い瞳が、揺れた。
「……はい、姫様」
今にも泣き出しそうにも見えるほどに顔を歪ませて。
彼はゆっくりと微笑んだ。
「そうです。俺はずっと……ずっと、あなたにお会いしたかった」
今目の前にいるダリルに、あの日出会った、誰からも見捨てられていた少年の面影が、ぴったりと重なる。
長い間ずっと暗闇の底に沈んでいた記憶が、まるで息を吹き返すかのように、あざやかな色彩を取り戻していく――




