第3章:記憶の欠片、忠誠の理由 -8
それから、どれほど馬で走り続けただろうか。
ふいに頬に冷たいものが触れて、ネリネは顔を上げた。
視線の先に見えた空模様に、思わず瞠目する。
(嘘。さっきまで、あんなによく晴れていたのに……)
ふと気がつけば、森は先ほどまでとは打って変わって、薄暗くなりつつあった。木々の間には灰色の霧が立ち込め、湿った匂いが地から濃密に立ち上り始める。
通り雨なんかではない。
重たく雲の垂れ込める空も、霧がかってきた森の風景も、これから長い雨が降ることを告げ知らせていた。
ダリルが再び馬の速度を上げた。尋ねずとも、少しでも早く雨を避けられる場所を探すためだとわかる。
けれど本格的に雨が降り出すのは早かった。
雲はますます分厚くなり、あたりは昼とは思えないほどに薄暗がりに包まれる。
ぽつ、ぽつ、と木の葉や地面の上でかすかな音を立てるだけだった雨は、まもなく勢いを増し、地がぬかるむほどの大雨になっていく。
「雨が……」
「すみません、姫様。あと少しで雨風を凌げる場所に着きます。それまでもうしばらくの間、辛抱を」
そう言ってダリルが馬に向かわせたのは、立ち並ぶ木々の向こうに見えた岩壁だった。遠目には切り立った崖のように見える岩壁は雨にさらされていて、とても雨宿りができそうな場所には思えない。
ようやくネリネがダリルの意図を察し取ったのは、岩壁がほんの目と鼻の先に迫った頃のことだった。
深い緑色の苔や蔦に覆われた、一瞥しただけでは、岩壁の凹凸の陰としか見て取れない部分。
近づいていくと、その暗がりはただの陰ではなく、奥に空間が続いていることに気づく。
入り口は狭かったが、馬を下り、身を屈めてくぐり抜ければ、その先はひと時雨をやり過ごすには充分な広さのある洞窟になっていた。
ダリルはネリネを洞窟の奥に座らせると、それまで懸命に走ってくれていた馬をねぎらいながら、鞍や括り付けていた荷物をほどいてやっていた。それがすむと、自分はすぐに洞窟の入り口の方へと向かいながら言う。
「近くで薪を集めてきます。すぐに戻ってきますから、姫様はここで休んでいてください」
「ダリル――」
呼び止める暇もなかった。
ダリルはそのまま、雨の降りしきる洞窟の外へといなくなってしまう。
(行ってしまった……)
残されたネリネは、呆然とダリルが去った洞窟の入り口を見つめるほかない。
一人でいると、音がいやに大きく聞こえてくる。
ひたひたと、洞窟の入り口で滴る水滴の音。
唸るような音を立てながら木々を軋ませる、風の音も。
……ネリネはここで、たった一人。
そう思った途端、それまでは感じていなかった寒さや心細さが、一気に心身を脅かしてくる。
(ダリル……。……早く。早く、帰ってきて)
彼に届くわけがないとわかっているのに、心の中でそう懇願せずにいられない。
たまらず俯いて身を縮め、自分で自分の身を抱きしめる。
……頬にふわりと、温かな空気が吹きかかったのは、その直後のことだった。
驚いて視線を上げればすぐ目の前には、鼻先を近づけてくる馬の顔。
馬はブルブルと鳴きながら顔をすり寄せてくると、大きな舌でぺろりとネリネの頬をなめてくる。それから脚を折り曲げると、ネリネに寄り添うようにして、どっしりとその場に座った。まるでここにいないダリルの代わりに、寒さに震えるネリネを温めようとするかのように。
ネリネと同じように馬も濡れていたけれど、身体をぴったり寄せていると、次第に震えは収まり、温かく感じられるようになってくる。
「……ヘリアンサス」
ここに来るまで、ダリルは時々この馬にそう呼びかけていた。それがこの馬の名なのだろう。ネリネが呼ぶと、ぴんと真っ直ぐに耳を立て、地面の上で長い尾を跳ねさせる。
その様子に、思わず笑みがこぼれた。
深い安堵が心をじわりと温めていく。
「そうね。あなたがいたわね。……私は、一人じゃなかったわね」
騎士には常に一頭、相棒となる自分の馬が与えられているという。
その筋肉質でしっかりした身体つきや、額から鼻先まで大きな白い模様のある顔を見ているうちに、そういえばダリルがアドニスと訓練をしている時に乗っていた馬もヘリアンサスだったと気づく。
先ほど魔物と戦っていた時のダリルとの連携ぶりから考えても、この馬は彼にとって、長く行動をともにしてきたよき相棒なのだろう。
手を伸ばしてそっと首を撫でると、ヘリアンサスは心地よさそうに目を細め、顔をさらに寄せてくる。
(ダリルと同じなのね。……優しくて、温かい)
濡れた薪を両腕に抱え、ダリルが洞窟に帰ってきたのはそれからしばらく経った頃のことだった。
何事もなく戻ってきた彼の姿に、ほっと胸を撫で下ろす。
「ヘリアンサス」
ダリルの声には、意外そうな響きがあった。
薪を下ろしながら、彼は首を傾げる。
「こいつは結構、難しい馬なんです。気位が高いというか。もう何年も世話してやってるのに、俺にも攻撃的で、常に威張ってきますし。最近はだいぶ大人しくはなりましたが、初対面の人間が相手だとまず自分から寄っていくようなことはない」
「……そうなの?」
ダリルの言葉に、ネリネは目を丸くする。
ヘリアンサスはダリルが帰ってきてもなお、大きな身体をネリネにぴったりとくっつき合わせたままだ。てっきりこの馬は、人の感情を敏感に察する、賢くて懐っこい性格なのだと思っていたのに。
「お前、姫様を守ってくれていたのか?」
ダリルの問いかけに、ヘリアンサスはブルルル、と長く鼻を鳴らす。先ほどネリネに鼻先を近づけてきた時と違って、明らかに不機嫌そうな鳴き声だ。
ため息をつきながら、ダリルは腰に提げていた袋に手を突っ込む。
「ほら。俺にはこういうわけですよ」
ダリルが何本かの人参を差し出すと、ヘリアンサスは間髪入れずに口を突き出した。ダリルの手に噛みつかんばかりの勢いだ。否、実際に噛みつかれていたらしく、ダリルは手をこわばらせて「痛っ」と短く口走る。
「ヘリアンサス。お前な……」
顔をしかめるダリルに、ヘリアンサスは素知らぬ顔だ。餌をもらって用はすんだとばかりにそっぽを向き、ごろんと横になってぐうぐういびきを立て始める。
「……ダリルがいなくなったら、すぐにそばに来てくれたの。思いやりのある、優しい子なのね」
「思いやり、か。俺にもそうだったらよかったんですがね。噛みつくどころか、機嫌を損ねると全力で蹴飛ばしてくることもあるから手に負えない。……困った奴だ」
そう言いながらも、寝転がったヘリアンサスを撫でるダリルの手つきは優しかった。ダリルがそうして撫でていると、ヘリアンサスの寝顔も、ずっとくつろいだ、穏やかな表情になったように見える。
「姫様を守ってくれてありがとうな。……ゆっくり休め」
そう優しく声をかけるダリルと安らかないびきをかくヘリアンサスを、ネリネは温かな気持ちになって見つめずにはいられなかった。




