第3章:記憶の欠片、忠誠の理由 -6
カーンカーン、と鐘の音が鳴り響いたのはまもなくのことだった。
どうやらその音は休憩の合図だったらしく、騎士達はそれぞれの馬に乗って訓練場を去っていこうとする。
(いけない。行ってしまうわ)
しかし馬に乗った騎士達を追いかけられるはずもなく、すぐに彼らの姿は見えなくなってしまう。
馬を厩舎に戻しに行ったのかもしれない。
そう考えて厩舎へ向かえば、幸い、すぐに騎士達が厩舎の前にいるのを見つけることができた。
きっと、彼らの中にダリルもいるに違いない。
緊張しながら、少しずつ厩舎へと近づいていく。
――と。
急に誰かが立ち上がったのが視界の隅に映り、ネリネは反射的にそちらを振り向いて、
「ダリル」
安堵のあまり、ネリネは思わずその名を呼ばずにはいられなかった。
少しだけ駆け足になると、ダリルはすぐにネリネのもとに走ってきてくれる。
案の定と言うべきか、彼は突然やってきたネリネに戸惑いと心配の表情を浮かべていた。
「どうしてここにいらっしゃるのですか? まさか、ここまでお一人で……?」
「ごめんなさい。ダリルには、今日は休んでいてほしかったのだけど、お願いしたいことができてしまって……」
「ネリネ王女、そういう時はさあ、遠慮なく呼びつけていいんですよ? そうしたらダリルなんか、休日だろうがなんだろうが、ぶんぶんしっぽ振ってあなたのところに駆けつけますから」
急に声をかけてきた青年に、ネリネは目を丸くする。
陽気な声、人好きのする明るい笑顔、ベージュの髪。
よくよく見れば、その青年は先ほどまでダリルが剣を交わしていた騎士だ。
「あなたは……」
「どうも初めまして。オレはアドニス。ダリルの元同僚だよ。それにしてもびっくりだよ。ネリネ王女がこんなにかわいらしい方だったなんてさ。……ねえネリネ王女、よかったらダリルじゃなくて、オレをお付きの騎士にしない? ダリルほどじゃないかもしれないけど、オレだって充分腕が立つと思うし――」
「……え、と。あの」
砕けた口調でぐいぐいと迫ってくるアドニスにどう反応していいかわからずネリネは戸惑う。
するとすかさず、ダリルがアドニスを横合いから小突いて止めた。
「おい、アドニス。それ以上姫様を困らせるな」
「あはは、冗談だってば。そんな怒った顔しないでよ。ネリネ王女も、ごめんね?」
「あ……、いいえ……」
狼狽えるあまりまともな返事もできなかったことで、アドニスが気分を害さなかったかと、こわごわと彼の表情を窺う。
けれどネリネの心配など裏腹に笑っているアドニスの姿に、ネリネはひとまずほっと胸を撫で下ろす。
そうして改めて気にかかったのは、彼が告げた名だ。
(アドニス……)
その名にどこか聞き覚えがあって、ネリネは記憶をたどる。
――そういえば。
『……儀式が始まるまでの間に、騎士団の方とお話しする機会がありましてね。確か、アドニス様とおっしゃる方だったかしら。ダリル様とは親しい友人だそうで……』
ダリルと主従の誓いを結ぶ儀式の前に、マリーナが話したという騎士団の人物。
ダリルの親友だという彼の名こそが、確かアドニスだったはずだ。
はあ、とため息をついてから、ダリルはネリネに向き直る。
「すみません、どうかこいつのことは気にしないでください。いつもこういう奴なので。……それで、姫様。ここまで姫様自らがいらっしゃったということは、何か急ぎのご命令がおありなのでしょう?」
「ええ。実は……」
うなずいて、ネリネはここまで来た目的をダリルに伝えた。
そして……
それから、一時間も経った頃。
ダリルが手綱を通して与える指示によって、馬は軽やかな足取りで道を進んでいく。
澄んだ青空の下、道の両脇にどこまでも続いているのは、広大な草原だ。初夏の風が吹き寄せてくるたびに、草木の爽やかな香りが胸の中いっぱいに広がる。
ここは、フィリスの丘までつながる道。
……もし今年も、いつものように父王の馬に乗ってここを通っていたなら、とネリネは思う。
草原の風を浴びるのが、ネリネは好きだった。
心地よくて、清々しくて、緑色の香気を感じていると、鬱屈とした心も自然と晴れ晴れとしたものだ。
――けれど、今年は違う。
「姫様」
「……っ! は、はいっ」
あまりにも近い距離から呼びかけられて、ネリネは思わず上ずった声で返事をしてしまう。
続くダリルの声もまた、どこかいつもよりこわばっているように聞こえたのは、気のせいだろうか。
「馬の速度はこのくらいでよろしいですか? もし不安を感じていらっしゃるのなら、もう少し速度を落としますが」
「いいえ、大丈夫よ。その……、このまま行けば、フィリスの丘には、どのくらいで着くのかしら?」
「おそらく、途中で休憩を入れても、正午頃には到着できるかと」
正午頃まで、というその答えに、心臓が高く飛び跳ねるのを感じる。
正午にはまだ、かなりの時間がある。
それまでの間ずっと、ネリネは……
(し、心臓がもつかしら……?)
ネリネは今、ダリルの乗る馬に乗せてもらっていた。
けれど二人で乗れば、もちろん身体を密着させなければならず。
ネリネの身体は落ちないようにと、手綱を握ったダリルに後ろから抱きしめられるような格好になっているのだった。
当然、草原の風景など楽しんでいる余裕はなく、先ほどから意識せずにいられないのは、後ろに乗るダリルの存在ばかりだ。
ネリネの身体を抱きながら手綱を取る腕は、たくましく力強い。
背を支える胸は硬くしっかりとしていて、こうして身体を預けていると、これまでに経験のないほどの安心感が全身を満たしていくのをネリネは確かに感じていたのだった。
何か話せば、少しは気が紛れるかもしれない。
そう思って、ネリネは会話の糸口を探り出し、なんとか急いで声を上げる。
「あの」
「姫様」
と、自分の声にダリルの声が重なって、ネリネははっと口を噤む。
……確か、こんなことが前にもあった。
どうやらダリルも同じことを思ったらしい。
お互いに、自然とこぼれたのは笑みだった。
こそばゆい気持ちで、ネリネは口にする。
「なんだか……いつも、一緒に話し始めてしまうわね」
「そうですね。……前は、先に話すのを譲っていただきましたから、今度は姫様から話してくださいませんか」
ネリネから。
そう言われて、頬がほんのりと染まっていくのを感じる。
少し緊張しながら、ネリネはそっと切り出した。
「今日は、ありがとう。急なお願いだったのに、ついてきてくれて。それだけ、ちゃんと伝えたかったの」
「いえ、礼にはおよびません。姫様のご命令ですから。ただ、姫様が厩舎までいらっしゃったのは驚きましたが……」
「私が出向いていった方が、すぐに出発できると思ったの。……それに、その……、あなたが剣を扱うところを、見ることもできたから」
「剣? もしかして、訓練しているところを……」
背後から伝わってきたのは、明らかな動揺だ。
とっさにネリネは謝罪を口にする。
「……ごめんなさい。こっそり見られていたら、気分がよくないわよね」
「あ、いえ。気分が悪くなったとか、そういうことではありません。そうではなくて……、ただ、あなたがご覧になっていたかと思うと、今さらながら緊張してきた、というか。いつからご覧になっていたのですか?」
「馬に乗って、アドニス様と訓練をしていたところを、少し。……つい、見とれてしまったの。ダリルは……とても強いのね」
「そう思っていただけたのなら、光栄です。アドニスは……あいつはふざけたところもあるんですが、騎士としての実力は本物で、とても強いんです。あのリューディア家の出でもある。昔はあいつに手合わせを頼んでは、何度も叩き伏せられていました。今だって少しでも油断をすれば負かされる。姫様が見ている前で勝つことができて、安心しました」
ダリルの穏やかな語り口からは、彼の親友、アドニスとの長い付き合いが窺えた。
同じ騎士として、彼らはともに鍛錬を積み、切磋琢磨してきたのだろう。
と、ネリネはそこで気づく。
リューディア家。
古の時代から続いてきた騎士の名門だ。
リューディア家の名が民にも広く知られているのは、ラウステラ国の建国神話にもリューディアの名が現れるからだ。乙女リューディアは、女神フィリスに忠誠を誓ったとされる伝説の騎士、オルブライトの妻になったと伝えられている。
やがてオルブライトとリューディアの子孫から伝わる血筋は二つに分かれ、それぞれ現在のオルブライト家、リューディア家となった。
どちらも、民からとりわけ親しまれる一族だ。
そして、オルブライトというのは……
「そういえば、ダリル。あなたは確か、オルブライト家の者だと……」




