第3章:記憶の欠片、忠誠の理由 -3
……時は、少しだけ遡る。
食事を終えたネリネは、着替えのために自室に戻ってきていた。
けれど、選んだのは王宮で過ごす時にいつも着ているドレスではなく。
「どうかしら、姫様。少し歩いてみてくださいますか?」
「問題ないわ。ありがとう、マリーナ」
綿で織り込まれた白いドレスは、普段のドレスよりも格段に軽くて動きやすい。靴も、長い時間歩き続けるのに適した、丈夫で軽い素材でこしらえられたものだ。
「髪はまとめておきますね。近頃はだんだん暑い日が続いてきましたもの」
長い亜麻色の髪はいつもはゆるく三つ編みにして背に流しているが、それだと今日は邪魔になってしまう。
ところどころに花をあしらって編み込んだ髪を、リボンを使って後ろでまとめてもらう。すると常なら髪に覆われている首筋もすっきりとあらわになり、気分も明るくなるような気がした。
侍女が一人、花束を抱えて部屋に入ってきたのは、ちょうどネリネが支度を終えた時だ。
「お花をお持ちしました。まるで今日のために咲いたみたいだって言って、庭師が喜んで分けてくださいましたのよ」
初夏に咲く花でまとめられたその花束の中心になっているのは、白やピンクのガーベラだ。
――ネリネの亡き母、セラフィーナが生前に愛していた花。
その花束を一目見て、ネリネは微笑む。
「綺麗な花。……きっと、お母様も喜んでくださるわね」
セラフィーナはもともと、身体が強い方ではなかった。
病に倒れて亡くなったのは、ネリネが九歳になった年の初夏のことだ。
その優しく穏やかな人柄が、誰からも愛された王妃だった。
セラフィーナの死を、国民の誰もが悲しんだ。
ネリネももちろん、何日もの間、ひどく落ち込んで暮らしたものだ。
食事をする気力はなくなり、母の温もりを思い出して、毎晩のように枕を涙でびっしょり濡らしていたことを、今もよく覚えている。
今ではセラフィーナの死を受け入れ、新たな妻を迎えている父王アーノルドも、当時の悲しみようは王宮の誰もが心配するほどだった。
そんな、セラフィーナの死から、九年。
毎年、初夏になると、ネリネと父王アーノルドはセラフィーナの眠る墓を訪れることにしていた。セラフィーナの好きだった花で墓を飾り、彼女を懐かしく思い出すのだ。
……そして今日が、セラフィーナの墓を訪れることに決めていた日。
ラウステラ国の王族は皆、死後はフィリスの丘と呼ばれる聖地に埋葬される決まりになっている。
フィリスの丘は王宮の北に広がる草原を駆け抜け、その先の森を抜けた先にある。途中の道の険しさから、馬車や徒歩で訪れるのは難しく、個人で馬に乗って向かうしかない場所だった。
乗馬があまり得意ではないネリネは、いつもなら父王の乗る馬に一緒に乗せてもらい、フィリスの丘へと向かっていたのだが……
「お姉様、いるの?」
突然部屋に響き渡ったプリシラの声に、ネリネは驚いて扉の方へと視線を向けた。
「プリシラ……」
部屋に入ってきたプリシラはいつものように、つんと不機嫌そうな顔をしていた。
そういえば、とネリネは思う。
ここ数日、ネリネは王女としての執務で慌ただしくしていて、こうしてプリシラと顔を合わせることがほとんどなかった。
思い返してみれば、最近プリシラと言葉を交わしたのは、ダリルとともに主役として出席した、あの舞踏会が最後だった。
ネリネを嫌っているはずのプリシラが、あの夜は気恥ずかしそうにしながらも、ネリネの振る舞いを褒めてくれた。その時の記憶が、ありありと思い出されてくる。
プリシラは外出用のドレスをまとったネリネ、それから侍女の持つガーベラの花束を一瞥してから、ネリネに向かって尋ねてきた。
「今日はお父様と一緒に、フィリスの丘に行く予定だったんでしょう? セラフィーナ様を偲ぶために」
ネリネとアーノルドが毎年欠かさないこの墓参に、プリシラがともについてきたことはない。というのも、彼女はセラフィーナの子ではないからだ。
現王妃オリヴィアは、セラフィーナの死から三年後にアーノルドが妻として迎えた女性で、プリシラは彼女の連れ子にあたる。そのため、ネリネとプリシラは姉妹として過ごしているものの、血のつながりはないのだった。
「……ええ。そうよ」
ネリネがうなずくと、プリシラは答えた。
「お父様から伝言があって来たの。王領内で今日すぐに対処しなければいけない問題が出てきてしまって、セラフィーナ様のところへ行けなくなったんですって」
「行けなくなった……?」
「あらあら、まあまあ」
ネリネと一緒にフィリスの丘を訪れるはずだった父王が、行けなくなってしまった。
プリシラがもたらした知らせに、侍女達の間にも戸惑いが広がる。
ラウステラ国王として即位して以後、アーノルドは日々怠ることなく、家臣達の言葉にもよく耳を傾け、熱心に政務に取り組んできた。
毎日を忙しく過ごす父王が、緊急の政務のために予定を変更することは珍しいことではない。
「問題があったのね。何か、私に手伝えることは……」
「お父様だけで対処できるから大丈夫だっておっしゃってたわ。でも、しばらくは忙しくなるみたいで、申し訳ないけれどセラフィーナ様のところへはお姉様だけで行ってきてほしいって」
「私だけで……」
延期も難しいのは、もう数日もしたら天候が崩れることが予想されるからだろう。
ラウステラ国には、本格的に夏を迎える前に雨が長く降り続く時期がある。もう数日もすればその時期に差しかかると、学者から正式に知らせが出たばかりだ。
マリーナが困ったように声を上げる。
「でも、それなら姫様をフィリスの丘まで連れて行ってくださる方を探さなくてはなりませんわ。いつもなら、陛下が姫様をご自身の馬に乗せていってくださいましたから……」
戸惑うネリネや侍女達。
しかしそんなネリネ達の反応に、プリシラは怪訝そうな顔をするばかりだ。眉をひそめ、呆れたような声音で言ってくる。
「何を困る必要があるのか、あたしにはさっぱりわからないんだけど。お姉様には騎士がいるじゃない。お付きの騎士って、こういう時のためにいるんじゃないの?」
至極当然という声音でプリシラが言い放った言葉に、ネリネははっと気づかされる。
プリシラの言うとおりだ。
確かに今、ネリネにはダリルがいてくれる。
彼ならば、頼めばネリネをフィリスの丘まで連れて行ってくれるだろう。
……けれど。
「……ダリルには、今日は休みをとってもらっているの」
「はあ? 休み?」
素っ頓狂な声を上げるプリシラに、ネリネは答える。
「ここ何日もずっと……ダリルは、私の執務を休むことなく手伝ってくれていたわ。だから――」
「それで休みをとらせたってわけ? 休めって言ったところで、あのダリルが素直に言うこと聞くとは思えないんだけど」
「……説得したのよ。今日はお父様と一緒に、お父様の騎士もついてきてくれるから大丈夫だって」
長い長いため息をついてから、プリシラは苛立たしそうに続けた。
「お父様が行けなくなったんだから、騎士だって来ないわ。途中に険しい道だってあるのに、お姉様一人でフィリスの丘まで出かけるなんて、どう考えたって危ないに決まってるでしょ? いいから、さっさとダリルを呼び戻しなさいよ!」
「プリシラ――」
「せっかくだから教えておいてあげるけど、お姉様の気遣いなんか完全に無駄になってるんだからね。あの騎士、全然休んでなんかいないわ。他の騎士と一緒に訓練場へ行こうとしてるところ、さっきこの目で見たんだもの」
「訓練場に?」
目を瞬かせて問えば、プリシラはふんっと鼻を鳴らしながら答えた。
「そうよ。ああもう、お姉様と話してると呆れすぎて、ありえないくらい疲れる! いい? 絶対ダリルを連れて行かなきゃだめなんだからね。一人でも大丈夫だなんて馬鹿な考えするんだったら、あたし、お姉様のこと心の底から軽蔑するから!」
そう言い残し、ばたんと勢いよく扉を閉めながら、プリシラは憤然として出て行った。
……まるで、嵐が去っていった後のよう。
ネリネや侍女達はしばらくの間、プリシラの出て行った扉をぽかんとした表情で見つめていた。




