第3章:記憶の欠片、忠誠の理由 -1
それはネリネ自身にさえ、いつなのか、どこでだったのか、わからないくらい――否、本当にあったことなのかすら定かではないほど、古すぎる記憶の断片。
「……はあ、はあっ……はあ……!」
息を切らして、ネリネはその道を歩いていた。
まだ昼なのに暗くて、不気味で。
生まれてこの方、嗅いだこともないほどにひどい匂いが充満した路地だった。
手を貸してくれる者など、誰一人として現れない。
無数の胡乱げな眼差しに晒されているのを自覚しながらも、ネリネはただひたすらに、前に進むことだけを考えていた。
……早く。
一歩でも二歩でも、早く。早く。
それなのに、思うように動いてくれない自分の足が、痩せこけた瀕死の病人一人運ぶのにすら難儀する非力な身体が、もどかしくてならなかった。
「……っ、大丈夫よ……」
せわしない呼吸の合間に、ネリネは後ろを振り返り、背負った少年に呼びかけた。
何度も、何度も。
それが、今のネリネが彼にできる、唯一のことだったから。
「大丈夫。……助けるから、必ず。苦しいの、治してあげるから。だから……、お願い。死なないで」
「…………」
少年はぐったりとしたままだ。返事はなかった。
ついさっきまでは時おりネリネの肩口に触れていた咳も、呼吸も、今やどんどんか細くなっているようだった。
背負った身体が少しずつ、けれど確実に重く感じるようになってきているのも、きっとネリネの疲れのせいばかりではない。
早くしなければ、彼はもうじきに、二度と目覚めることができなくなってしまう……
(そんなの、絶対にだめ)
少年が意識を失う寸前まで泣いていたのを、ネリネは確かに目にしていた。
拭っても拭っても止まらなかったその涙にはきっと、人々の温かな祝福のうちに生まれついたネリネには想像もできないほどの、おびただしい悲しみや苦しみが込められていて。
……だから、このまま彼を死なせるわけにはいかない。死んでしまえば、彼はもうずっと、消えることのない寂しさを抱えたままなのだ。
だから。
だから、ネリネは、どんなに足が痺れようと、胸が苦しくなろうと、歩き続ける。
「大丈夫。必ず……必ず、助けるから」
その声が、暗闇の淵にいる彼に届くことを祈り続ける――
ふいに燦然とした光がまぶたに触れるのを感じて、ネリネは身じろいだ。
聞こえてきたのは、小鳥の声。
それから、しゃっとカーテンを引く音だ。
ゆっくりと、目を開ける。
ネリネが起きたことに気づいて、窓際でカーテンを束ねていたマリーナが微笑んだ。
「おはようございます、姫様。今日はとてもよく晴れていて、風も爽やかで、気持ちのいい一日になりそうですよ」
(朝……)
ネリネは起き上がりながら、瞬きをした。
ネリネのいつもとは違う様子にいち早く気がついたのか、マリーナが呼びかけてくる。
「姫様……?」
「夢を……、見ていたの」
「夢ですか?」
首を傾げるマリーナに、ネリネはうなずく。
不思議な夢だった。
夢はいつもなら、儚いものだ。ひとたび目を覚ましてしまったなら、夢の中で見た情景も、そこで何をしていたのかも、すぐに忘れてしまう。
それなのに今、ネリネは夢の中であったことをまざまざと思い出すことができた。
もう自分では動けなくなってしまった少年を背負い、必死に歩いたこと。
歩きながら、何度も何度も、呼びかけ続けたこと……
窓から注ぐ朝日を浴びながら、ネリネはまだ、夢のもたらした余韻から抜け出すことができそうにない。
「あれは……本当にあったことなの? だとしたら、あの子は……」
その問いに答えてくれる者は、もちろん誰もいなかった――




