第9話 密書の差出人
屋敷の奥には、影綱の密書を管理する書庫があった。
下忍の立ち入りは禁止されているが、朔は以前、書庫の修理を手伝ったことがある。屋根から雨漏りがした際、権六に命じられ、数日かけて板を張り替えたのだ。
そのため、建物の造りをよく覚えていた。
朔は裏庭から廊下へ忍び込み、書庫へ向かった。
目的は一つ。
自分に渡された密書の差出人を調べることだった。
影綱では、重要な密書を出す際、命令の記録を残す。
誰が受け取り、いつ出発し、誰に届けるのか。
内容そのものは記さなくとも、輸送の記録だけは必ず残す決まりだった。
書庫には、その記録をまとめた帳面がある。
それを調べれば、密書の差出人が分かるかもしれない。
朔は書庫の前へたどり着いた。
普段は錠がかかっている。
今日も扉には太い錠前が下がっていた。
朔は腰の道具袋から細い針金を取り出した。
忍びの修行では、こうした錠を開く方法も教わっている。ただし、実際に成功するかどうかは錠の造りによる。
朔は耳を扉へ近づけ、慎重に針金を動かした。
しばらくして、小さな音がした。
カチリ。
錠が外れた。
「……よし」
朔は扉を開け、中へ入った。
書庫には大量の帳面が並んでいた。
木札で分類され、それぞれの棚へ収められている。
・兵糧輸送。
・人員配置。
・任務報告。
・密書記録。
朔は密書記録の棚へ向かった。
最新の帳面を取り出し、日付を確認する。
三日前。
自分が伊織から竹筒を渡された日である。
朔は頁をめくった。
何件もの輸送記録が並んでいた。
南国へ送られた密書。
北の国境へ運ばれた軍令。
そして。
『東国、霞ヶ城』
朔の目が止まった。
あった。
自分が運んだ密書の記録だ。
朔は胸の鼓動が速くなるのを感じながら、文字を追った。
――輸送担当。
鴉羽朔。
――届け先。
天城領霞ヶ城、城代家老三枝信親。
――輸送開始。
三日前。
ここまでは間違いない。
朔は次の欄へ目を移した。
――命令承認。
影綱上位評定。
朔は眉をひそめた。
上位評定。
聞いたことはある。
影綱の重要な任務を決める最高位の評定である。
しかし、その実態は下忍には知らされていない。
朔はさらに下を見た。
――差出人。
そこには一つの印が押されていた。
黒い円の中に、三本の線が交差する印。
朔は懐から密書を取り出した。
同じ印だった。
寸分違わぬ形をしている。
偽物ではない。
少なくとも帳面の記録上は、正式な命令として扱われていた。
「……まことの命令であったのか」
朔は震える声でつぶやいた。
影綱の誰かが、正式な手続きを踏んで自分の処刑を命じた。
では、誰なのか。
上位評定とは何者なのか。
朔は帳面のほかの頁を調べた。
すると、不思議なことに気づいた。
上位評定から出された密書は、この一年でわずか七件しかない。
しかも、どれも重要そうな届け先だった。
大名の居城。
国境の要塞。
大寺院。
有力商人の屋敷。
その中に、一介の下忍を処分するための命令が含まれている。
なぜだ。
下忍一人を殺すだけなら、直属の上忍が命じれば済む話だった。
わざわざ上位評定が命令する必要などない。
朔は寒気を覚えた。
自分は何か、とんでもないことに巻き込まれている。
しかも、本人にはまったく心当たりがない。
そのとき、廊下から足音が聞こえた。
朔は慌てて帳面を閉じた。
誰かが近づいてくる。
一人。
いや、二人。
朔は書棚の陰へ身を隠した。
扉が開く。
「……妙だな」
聞き覚えのある声だった。
宇佐見半兵衛である。
「錠が開いておる」
もう一人の男が答えた。
「誰か入ったのでござろうか」
「調べろ」
朔は息を殺した。
半兵衛が書庫へ入ってくる。
足音がゆっくりと近づいてくる。
朔は書棚の隙間から様子をうかがった。
半兵衛は棚に置かれた帳面を見た。
そして、すぐに何かに気づいたらしい。
「……密書記録が動かされておる」
朔の心臓が大きく跳ねた。
しまった。
帳面を元の位置へ戻したつもりだったが、ほんの少しだけ向きが違っていたのだ。
半兵衛は静かに言った。
「鴉羽朔」
朔は動かなかった。
「そこにおるのであろう」
返事をしない。
「おぬしの癖は知っておる。調べ物をするとき、必ず帳面を元の位置へ戻す。だが、急いでおると背表紙の向きまで気が回らぬ」
半兵衛は小さく笑った。
「昔から変わらぬな」
朔は観念した。
書棚の陰から姿を現す。
「……半兵衛殿」
「やはりおったか」
半兵衛は驚いた様子もなく、朔を見つめた。
「よく戻ってこられたものだ」
「お尋ねしたいことがございます」
「何じゃ」
「それがしに下された処分命令についてでござる」
半兵衛の表情が変わった。
「その話か」
「はい」
朔は密書を取り出した。
「この命令は、何者かが偽造したものと考えておりました。しかし帳面には正式な記録が残っております。これは、どういうことでござるか」
半兵衛は密書に目をやった。
そして静かに答えた。
「偽造ではない」
朔は息をのんだ。
「まことに……?」
「そうだ。影綱から正式に下された命令だ」
「では、なぜそれがしを殺そうとなさる!」
朔の声が震えた。
「それがしは八年間、命令に背いたことなどござらぬ! 影綱のために働き、命じられた任務を果たしてまいった! 何ゆえ、そのような命令が下されたのでござる!」
半兵衛は黙っていた。
しばらくして、低い声で言った。
「朔。おぬしは、まだ忍びというものを理解しておらぬ」
「何?」
「忍びは命令に従う者だ。命令の理由を知る者ではない」
「それは承知しております。されど、命まで奪われるとなれば話は別でござる!」
「別ではない」
半兵衛の声が冷たくなった。
「任務で死ぬこともあれば、命令によって死ぬこともある。それが忍びの定めだ」
朔は言葉を失った。
これが、かつて自分に変装術を教えてくれた男の言葉なのか。
半兵衛は腰の小刀へ手をかけた。
「おぬしの処分は、すでに決まっている」
朔の背筋が凍った。
「……半兵衛殿」
「恨むな。わしも命令に従っておるだけだ」
半兵衛はゆっくりと小刀を抜いた。
朔も腰の小刀へ手を伸ばした。
しかし、抜かなかった。
目の前の男は、かつて自分を助けてくれた人だった。
初めて敵国へ潜入したとき、失敗して泣きそうになった朔を励ましてくれたのも半兵衛だった。
『忍びは一度の失敗では死なぬ。二度目も失敗したら、そのとき考えればよい』
そんな冗談を言って笑わせてくれた。
その男が、今は自分の命を奪おうとしている。
「……半兵衛殿。それがしには、どうしても刃を向けられませぬ」
「ならば、おとなしく処分を受けよ」
「それもできませぬ」
「わがままな男だ」
半兵衛が踏み込んだ。
朔はとっさに書棚を蹴った。
重い帳面が何冊も崩れ落ちる。
半兵衛の足元へ紙と木札が散らばった。
「何っ!」
朔はその隙に窓へ走った。
しかし、背後から半兵衛が迫る。
刀が振り下ろされた。
朔は身を低くした。
刃が肩先をかすめる。
鋭い痛みが走った。
それでも立ち止まらず、窓枠へ飛びついた。
「逃がすか!」
半兵衛が叫ぶ。
朔は窓から庭へ飛び降りた。
着地した瞬間、左足に激痛が走った。
膝が折れる。
それでも立ち上がり、裏庭を走った。
背後から半兵衛の声が響く。
「鴉羽朔が戻っておる! 逃がすな!」
屋敷のあちこちから人が飛び出してきた。
朔は歯を食いしばった。
最悪だった。
自分が育った場所で、自分を育ててくれた人々に追われている。
しかも、相手は影綱の忍びだ。
逃げ道も隠れ場所も、すべて知られている。
朔は裏庭の物置へ向かった。
しかし、その前に一人の男が立ちふさがった。
「……朔」
声を聞いた瞬間、朔は足を止めた。
権六だった。
朝になるといつも怒鳴り、麦飯を食わせてくれた老人である。
権六は朔を見ると、目を細めた。
「戻ってきたのか」
「……権六殿」
「馬鹿者が」
権六は小さくため息をついた。
「戻ってくるなと言いたかったわい」
朔は驚いた。
「何を……」
「ここへ戻れば捕らえられることくらい、分かっておろう」
「しかし、それがしは何も悪いことをしておりませぬ!」
「分かっておる!」
権六が怒鳴った。
朔は息をのんだ。
老人はしばらく黙っていた。
そして、小さな声で言った。
「わしは、おぬしが裏切り者だとは思っておらぬ」
朔の胸が熱くなった。
「権六殿……」
「だがな、朔。わしにも命令が下されておる」
権六は腰の小刀に手を当てた。
朔は動けなかった。
まさか、この人まで。
しかし権六は刀を抜かなかった。
代わりに、庭の奥へ視線を向けた。
「今なら裏の竹林へ抜けられる」
「……何?」
「行け」
朔は目を見開いた。
「しかし、権六殿は……」
「わしは何も見ておらぬ」
権六は背を向けた。
「ただ、物置の戸が風で開いておっただけじゃ」
朔は唇を噛んだ。
礼を言おうとした。
しかし、何を言えばよいのか分からなかった。
権六は背を向けたまま続けた。
「朔。おぬしは昔から頭の回る男じゃ。ならば、考えよ」
「……何をでござるか」
「なぜ、おぬしほどの下忍を、わざわざ上位評定が処分しようとするのかを」
朔は息を止めた。
権六も知っているのか。
上位評定の命令だということを。
「権六殿。上位評定とは、何者でござるか」
権六は振り返らなかった。
「わしにも分からぬ」
「では、誰が……」
「ただ一つ、言えることがある」
老人は低く答えた。
「影綱の中には、わしらが知らぬ影綱がある」
朔は言葉を失った。
権六は最後に一言だけ残した。
「生き延びよ、朔。そして、二度とここへ戻るな」
朔は深く頭を下げた。
「……かたじけのうございます」
そして竹林へ走った。
つづく




