第8話 影綱の連絡箱
夜が明ける頃、朔は山中の小さな祠へ到着した。
祠は街道から離れた場所にあり、旅人が訪れることはほとんどない。しかし影綱の忍びにとっては、重要な連絡場所の一つだった。
朔は周囲に人がいないことを確かめ、祠の背後へ回った。
苔むした石の下に、小さな木箱が埋められている。
影綱の連絡箱である。
各地の忍びはここへ情報を残し、別の忍びが回収して本部へ届ける仕組みだった。
朔は箱の蓋を開いた。
中には紙片が三枚あった。
一枚目は、街道の警戒を知らせるもの。
二枚目は、兵糧輸送についての報告。
そして三枚目。
朔はそれを見た瞬間、目を見開いた。
そこには、自分の名前が書かれていた。
『鴉羽朔、任務を放棄して逃亡』
『重要密書の封を破り、組織の機密を盗み見た疑いあり』
『発見次第、捕縛または処分すること』
朔は紙片を握りしめた。
「……何ということじゃ」
自分が密書を開いたことまで、すでに知られている。
しかも任務を放棄した裏切り者として、正式に手配されているではないか。
だが、よく考えればおかしい。
朔が密書を開いたのは昨夜である。
その後、廃寺で黒装束の男と会った。
あの男が本部へ知らせたとしても、こんな山奥まで新しい命令が届くには時間がかかる。
まして連絡箱の紙は、夜露で少し湿っていた。
昨夜のうちに入れられたものではなさそうだった。
朔は紙を裏返した。
端には小さな日付が記されている。
それを見た途端、心臓が大きく跳ねた。
三日前。
自分が霞ヶ城への密書輸送を命じられた、その日だった。
「……あり得ぬ」
朔は何度も日付を確かめた。
間違いない。
この手配書は、朔が任務に出発する前から用意されていた。
つまり、最初から自分を裏切り者に仕立てるつもりだったということになる。
しかし、何のために。
朔は思考を巡らせた。
影綱の誰かが、朔を殺すために密書を偽造した。
そのうえで、逃亡することを予想して手配書まで用意した。
そんなことができる人物は限られる。
少なくとも、一介の下忍には不可能だ。
「……上忍か」
朔は小さくつぶやいた。
影綱には、下忍、中忍、上忍という階級がある。
下忍は命令を実行する者。
中忍は下忍を指揮し、情報をまとめる者。
上忍は任務そのものを決める者だった。
だが、上忍の全員が同じ権限を持っているわけではない。重要な命令は、さらに上位の評定によって決められると聞いていた。
朔はまだ、その評定に出席する人物を一人も知らない。
影綱とはそういう組織だった。
誰が命令しているのか分からない。
誰のために働いているのかも分からない。
だが、今まではそれが当たり前だった。
朔は初めて、その仕組みを恐ろしいと思った。
正午過ぎ、朔は故郷のように慣れ親しんだ山へ戻ってきた。
影綱の屋敷がある山である。
屋敷は表向き、山間の小さな武家屋敷として知られていた。周囲には畑があり、薪を割る者や農具を修理する者が行き交う。一見すると、武術を教える浪人たちが暮らす普通の屋敷だった。
だが、実際には数十人の忍びが出入りする秘密の拠点だった。
朔は屋敷を見下ろせる山の斜面へ登った。
そこからなら、建物全体を見渡すことができる。
庭には若い忍びたちが集まり、いつものように木刀を振っていた。
台所からは白い煙が上がっている。
権六が井戸端で水桶を運んでいた。
何も変わっていない。
昨日まで、自分が当たり前のように暮らしていた場所だった。
朔は思わず安堵した。
戻ってきたのだ。
あそこへ行けば、きっと事情を説明できる。
権六なら話を聞いてくれるかもしれない。
蓮ならば、自分を信じてくれるはずだ。
そして師匠の伊織。
あの人ならば、密書の真偽を確かめられる。
朔は斜面を下りようとした。
しかし、ふと足を止めた。
門の前に立つ見張りが、いつもと違っていた。
普段なら二人である。
今日は四人いる。
しかも、そのうち二人は弓を持っていた。
さらに屋敷の裏手にも、見慣れない男たちがいる。
全員が普段着を着ているものの、その立ち姿は明らかに忍びだった。
「……警戒が厳しい」
朔は木の陰へ戻った。
考えてみれば当然だった。
自分はすでに裏切り者として手配されている。
正面から屋敷へ入れば、ただちに捕らえられるかもしれない。
そこで朔は、裏庭へ通じる古い抜け道を使うことにした。
その道は、修行時代に何度も通った場所だった。
裏山の竹林を抜け、小さな沢を渡る。
沢の向こうには古い物置がある。
その床下を通れば、屋敷の裏庭へ出られる。
もっとも、今は使われていない抜け道だった。
権六からは危険だから通るなと何度も叱られていたが、朔にとっては馴染み深い道だった。
朔は慎重に竹林へ入った。
竹の葉が風に揺れる。
小鳥が鳴いている。
やがて古い物置が見えてきた。
朔は辺りに人がいないことを確かめ、床下へ身体を滑り込ませた。
狭い。
土の匂いが鼻をついた。
八年前はもっと楽に通れたはずだが、身体が大きくなったせいで、今は肩を縮めなければ進めない。
「……よもや、この歳になって再びここを通るとは」
朔は苦笑しながら奥へ進んだ。
ようやく反対側へ抜けると、そこは屋敷の裏庭だった。
薪小屋の陰に身を隠す。
すぐ近くから、権六の声が聞こえてきた。
「まったく、何ということじゃ!」
朔は思わず顔を上げた。
権六が誰かと話している。
「わしは信じられぬ。あの朔が裏切り者などと!」
朔の胸が熱くなった。
やはり権六は信じてくれている。
思わず飛び出そうとした、そのときだった。
別の男の声が聞こえた。
「しかし、正式な命令でございます」
「命令だと?」
「上からの通達にございます」
権六はしばらく黙っていた。
そして低く言った。
「……ならば、仕方あるまい」
朔の足が止まった。
「朔が戻ってきたら、わしへ知らせよ。余計なことをするな」
「承知いたしました」
足音が遠ざかっていく。
朔は薪小屋の陰で動けなくなった。
権六は自分を信じている。
だが、命令には従うつもりなのだ。
それが影綱の掟だから。
個人の感情よりも、組織の命令が優先される。
自分も今まで、そうしてきた。
朔は初めて、命令される側の恐ろしさを思い知った。
つづく




