第7話 密書の差出人
鴉羽朔は、目の前に立つ黒装束の男を睨みつけていた。
月明かりの差し込む廃寺の本堂。崩れた仏像の前で、二人の忍びが向かい合っている。男は顔を頭巾で隠したまま、小刀を抜くこともなく立っていた。しかし、朔には分かっていた。相手がその気になれば、わずかな間合いを詰めて自分の喉を切り裂くことなど容易い。
「五人がそれがしを殺し、残る五人が生け捕りにする。そう申されたな」
「そうだ」
「まことに奇妙な話でござる。同じ影綱の忍びが、異なる命令を受けておるとは」
男は答えなかった。
朔は懐に隠した竹筒へ手を当てた。その中には、自分自身を処刑せよと記された密書が入っている。八年間、一度たりとも破らなかった掟を破り、初めて中身を確認した密書だった。
「それがしは、影綱に背くような真似をした覚えはござらぬ。師匠の命令に従い、幾度となく密書を運んでまいった。なぜ殺されねばならぬのか、理由を聞かせていただきたい」
「わしに聞いても無駄だ」
「では、誰に聞けばよろしい」
「上の者に聞け」
「上とは誰でござる」
男はわずかに顔をそむけた。
「それを知る必要はない」
朔の胸に怒りが込み上げた。
影綱では、何かといえばその言葉だった。密書の中身を知る必要はない。依頼主を知る必要はない。誰が命令したか知る必要もない。下忍は何も考えず、命じられたことだけを実行すればよい。
これまでは、それで構わなかった。
だが、今回は違う。
「それがしの命が懸かっておるのだぞ!」
思わず声を荒らげると、男は初めて朔の目を正面から見た。
「……だからこそ、余計なことを知るなと申しておる」
「何?」
「鴉羽朔。おぬしが今夜、この寺でわしに会ったことも、密書を開いたことも、すべて忘れろ。そして霞ヶ城へは行くな」
「なぜでござる」
「命を惜しむなら、そうしろ」
男はそう言い残すと、音もなく本堂から姿を消した。
朔は追おうとしたが、傷ついた左足が痛んだ。峠で刺客に襲われ、崖から転落した際に痛めた足だった。無理に追えば、かえって命を落としかねない。
朔は小刀を鞘へ戻した。
山道にはまだ松明が見えている。
自分を狙う忍びが十人。
しかも全員が、自分の所属する影綱の者だという。
「……どうなっておるのだ」
朔は崩れた柱に背中を預けた。
敵ならば、敵と戦えばよい。だが相手が仲間となれば話は別だった。幼い頃から忍術を学び、ともに飯を食い、ともに修行をしてきた者たちが、自分の命を狙っているかもしれない。
それだけは、どうしても信じられなかった。
いや、信じたくなかった。
朔はもう一度密書を取り出した。
黒い糸で封じられていた竹筒には、影綱の正式な朱印が押されている。
これが偽物ならば、すべて説明がつく。
敵国の忍びが密書を偽造し、影綱の内部に混乱を起こそうとしているのではないか。自分を襲った忍びも、影綱の者に化けた敵かもしれない。先ほどの男が言ったことさえ、こちらを惑わせるための嘘かもしれなかった。
そう考えれば、まだ希望がある。
影綱に戻り、黒瀬伊織に密書を見せればよい。
師匠ならば、偽物か本物かを見分けられるはずだった。
「……そうじゃ。師匠にお会いすればよい」
朔は立ち上がった。
霞ヶ城へ向かう道を捨て、影綱の屋敷へ引き返すことにした。
ただし、表の街道は使えない。
追っ手が待ち伏せしている可能性が高いからだ。
朔は本堂の裏へ回り、杉林に続く獣道へ足を踏み入れた。
忍びとして八年間、この山々を歩いてきた。
道ならば、誰よりもよく知っている。
幼い頃、伊織に教えられた言葉を思い出した。
『剣に優れる者は敵を斬る。道に優れる者は敵と会わずに済む』
朔はその教えに従い、闇の中へ消えた。
山中の夜は冷える。
朔は杉の根元に身を隠しながら、少しずつ西へ進んだ。足の痛みは続いていたが、歩けないほどではない。幸いにも骨は折れていないようだった。
闇の中で道を見つけるには、昼間とは違う目が必要になる。
木々の間から差し込む月の位置。沢の音。山肌を吹き抜ける風の向き。踏み固められた土の感触。そうしたものを一つずつ確かめる。
朔は忍術の中でも、こうした地味な技を得意としていた。
蓮のように剣で敵を倒すことはできない。だが、蓮が知らない抜け道を朔は知っている。
山一つ越えるだけなら、蓮より早く目的地へ着くこともあった。
もっとも、そのたびに蓮から「逃げ足だけは天下一品だ」と笑われていたが。
「……蓮ならば、何と申すであろうな」
朔は小さくつぶやいた。
幼い頃からともに育った友である。
剣の稽古では何度も打ち負かされたが、任務では互いに助け合ってきた。朔が敵の見張りに見つかった際、蓮が身代わりとなって追っ手を引きつけてくれたこともある。
その蓮ならば、きっと信じてくれる。
師匠も、権六も、ほかの仲間たちも。
影綱のすべてが敵になったわけではないはずだ。
そう思いながら進んでいると、朔は不意に足を止めた。
前方の杉の幹に、細い傷が三本ついていた。
新しい傷だった。
朔は周囲を見渡した。
杉の幹に三本の傷。
それは影綱で使われる目印の一つだった。
意味は「この先に見張りあり」。
ただし、知らぬ者に見られても分からぬよう、傷は木の裏側につけられている。
朔は眉をひそめた。
こんな山奥に見張りがいるのか。
しかも、なぜ影綱の目印がある。
朔はしゃがみ込み、地面を調べた。
土の表面に草鞋の跡がある。
一人ではない。
少なくとも三人が、この道を通っていた。
足跡は東から西へ続いている。
自分と同じ方向だ。
「……先回りされておるのか」
朔は道を外れ、杉林の奥へ入った。
しばらく進むと、遠くに小さな火が見えた。
焚き火だった。
その周囲に三人の男が座っている。
いずれも農民のような粗末な着物を着ていたが、朔にはすぐに正体が分かった。
影綱の忍びだ。
焚き火のそばに置かれた草鞋が、影綱特有の編み方をしていた。足音を抑えるため、底に柔らかな布を縫い込んでいる。
朔は木の陰に身を隠した。
男たちは小声で話していた。
「……まだ見つからぬのか」
「東の道には姿を現しておらぬ」
「ならば、山中を抜けたか」
「鴉羽は地理に明るい。街道を通るような男ではない」
朔は息を止めた。
やはり、自分を探している。
しかも、ただの追っ手ではない。
自分の得意なことまで知っている。
そのとき、一人の男が顔を上げた。
焚き火の明かりが頬を照らす。
朔の胸がどきりとした。
見覚えのある男だった。
宇佐見半兵衛。
三十三歳。
影綱の中忍で、かつて朔に変装術を教えてくれた人物である。普段は陽気で、酒が入ると昔の武勇伝を何度も語る癖があった。
半兵衛は朔が下忍になった祝いに、小さな小刀を贈ってくれた。
その小刀は今も朔の腰にある。
「……半兵衛殿」
朔は思わず声を漏らしかけた。
なぜ、あの人まで。
焚き火のそばでは、半兵衛が懐から一枚の紙を取り出していた。
「命令は変わらぬ。鴉羽朔を発見次第、処分する」
ほかの二人がうなずいた。
「しかし半兵衛殿。鴉羽は仲間ではござらぬか」
「仲間であっても、命令は命令だ」
「理由は?」
「わしらに知らされるものではない」
朔の背筋が冷たくなった。
声も、顔も、間違いない。
あの半兵衛だった。
朔に変装術を教え、酒の席では兄のように接してくれた男が、自分を殺そうとしている。
しかも何の疑問も抱いていないように見えた。
「……まさか」
朔は木の陰で唇を噛んだ。
偽造された密書のために、仲間が動かされているのか。
それとも 本当に影綱から命令が出ているのか 答えはまだ分からなかった。
つづく




