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忍務 —SHINMU—  作者: 虫松
第一部 密書の差出人

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第6話 殺せと書かれた密書

日が沈む頃、朔は山中の廃寺へたどり着いた。


 屋根は崩れ、仏像には埃が積もっている。


 長い間、誰も使っていない寺だった。


 朔は本堂の隅へ腰を下ろした。


 身体中が痛む。


 着物は破れ、草鞋も片方が駄目になっていた。


 何より、なぜ襲われたのか分からない。


 山賊ではない。


 あの男たちは自分の名を知っていた。


 密書の存在も知っていた。


 つまり、影綱の内情を知る者が関わっている。


 朔は懐から竹筒を取り出した。


 封は無事だった。


「……師匠」


 小さくつぶやいた。


 今朝、伊織は何と言った。


『道中で誰かに止められても、任務を中断するな』


 まるで、襲撃があることを知っていたかのようではないか。


 いや。


 そんなはずはない。


 師匠が自分を危険にさらすわけがない。


 八年間、朔を育ててくれた人だ。


 剣術を教え、変装を教え、忍びとして生きる道を与えてくれた。


 その師匠を疑うなど、あってはならない。


 だが。


 なぜ、あの男たちは朔の名を知っていた。


 なぜ、密書を狙っていた。


 そしてなぜ、朔自身を殺そうとした。


 朔は竹筒を見つめた。


 影綱の掟では、密書の中身を見てはならない。


 それは何度も教えられた。


 密書を開いた忍びは、重大な処罰を受ける。


 しかし、今は状況が違う。


 何も知らぬまま殺されるのは、あまりに理不尽だった。


 朔は長い間、竹筒を握りしめていた。


 そして、ゆっくりと腰の小刀を抜いた。


「……お許しくだされ、師匠」


 刃先を封の隙間へ差し込んだ。


 黒い糸が切れる。


 蝋が剥がれる。


 竹筒の中から、細く巻かれた和紙が現れた。


 朔はそれを取り出し、慎重に広げた。


 紙の上部には朱印が押されていた。


 影綱の正式な印である。


 その下には、整った文字が並んでいた。


 ――極秘命令。


 東国天城領。


 霞ヶ城城代家老、三枝信親殿。


 本書を持参せし者について、以下の命令を執行すべし。


 朔は眉をひそめた。


 本書を持参せし者。


 それがしのことか。


 嫌な予感がした。


 朔は続きを読んだ。


 ――対象者。


 影綱所属。


 下忍。


 鴉羽朔。


 その瞬間。


 朔の手が止まった。


「…………何?」


 もう一度、文字を見た。


 鴉羽朔。


 間違いない。


 自分の名前だった。


 さらに下には、こう記されていた。


 ――右の者、任務達成をもって不要と認める。


 ――密書受領後、速やかに処分せよ。


 ――処分の理由を本人に告げてはならぬ。


 ――所持品を回収し、遺体は人目につかぬ場所へ埋葬すること。


 朔は声を失った。


 意味が分からなかった。


 いや。


 文字の意味は分かる。


 しかし、どうしても理解できなかった。


「……処分?」


 ぽつりと声が漏れた。


「……それがしを?」


 何度も読み返した。


 鴉羽朔。


 速やかに処分せよ。


 鴉羽朔。


 不要と認める。


 朔はゆっくりと顔を上げた。


 暗い本堂には誰もいなかった。


 崩れた屋根から月明かりが差し込んでいる。


 その光が、手元の密書を白く照らしていた。


「……待たれよ」


 朔はつぶやいた。


「これは……」


 喉が乾いた。


「それがしを……殺せという命令ではござらぬか」


 しばらく、何も考えられなかった。


 自分は影綱の下忍である。


 八年間、忠実に働いてきた。


 毎朝早く起き、忍びの修行を続けた。


 密書を運び、情報を集め、命じられた仕事をこなしてきた。


 つましい暮らしではあった。


 だが、それなりに満足していた。


 いつか中忍になり、師匠に認められることを夢見ていた。


 蓮と肩を並べ、もう少しましな飯を食べられるようになりたいと思っていた。


 それなのに。


 自分の命を奪うための命令書を、自分自身に運ばせたというのか。


 朔の胸の奥から、怒りとも悲しみともつかないものが込み上げてきた。


「……ふざけた話でござる」


 声が震えていた。


「それがしは……何をしたというのだ」


 返事はない。


 朔は紙を握りしめた。


「八年……八年も仕えてきたというのに……」


 思い浮かぶのは、朝の修行場だった。


 権六の小言。


 蓮との稽古。


 麦飯と味噌汁。


 そして、師匠の言葉。


『生きて戻れ』


 朔は目を見開いた。


 まさか。


 師匠は知っていたのか。


 この密書の中身を。


 自分が殺されることを。


 いや、決めつけてはならない。


 伊織は中身を知らないと言っていた。


 だが、あの言葉は。


 あの表情は。


 朔の頭の中で、疑念が次々と膨らんでいった。


 何を信じればよいのか分からない。


 誰を疑えばよいのかも分からない。


 ただ一つ、確かなことがある。


 この密書を霞ヶ城へ届ければ、朔は殺される。


 間違いなく。


 しかも、本人に理由を告げることさえ許されていない。


 朔はゆっくりと密書を畳んだ。


 指先が震えていた。


 しばらくして、小さく笑った。


「……なんと見事な忍務でござろうな」


 乾いた笑いだった。


「それがしに、それがしの処刑命令を運ばせるとは……」


 朔は天井を見上げた。


「これでは、敵に殺されるよりも情けないではござらぬか」


 笑いはすぐに消えた。


 代わりに、冷たい怒りが胸の底に残った。


 誰が命じた。


 なぜ、自分を殺そうとしている。


 その理由を知らないまま、死ぬわけにはいかない。


 朔は密書を懐へしまった。


 今までは、命令を守ることが忍務だと思っていた。


 だが、これからは違う。


 生き残る。


 自分を殺せと命じた者を探す。


 そして、なぜそのような命令を下したのか、直接問いただす。


 そう決意した瞬間だった。


 ギシッ。


 本堂の外で、床板が鳴った。


 朔は息を止めた。


 誰かいる。


 小刀を握り直す。


 ギシッ。


 また一歩。


 足音が近づいてくる。


 やがて、障子の向こうから声がした。


「鴉羽朔」


 男の声だった。


「そこにおるのであろう」


 朔は答えなかった。


 男は続けた。


「密書を開いたな」


 朔の背筋が凍った。


 なぜ、分かる。


 自分が密書を開いたことを、なぜ知っている。


 男がゆっくりと障子を開いた。


 月明かりの中に、黒装束の忍びが立っていた。


 顔は頭巾で隠されている。


 男は朔を見つめ、静かに言った。


「おぬしに、新たな命令が下された」


 朔は小刀を構えた。


「……何の命令でござる」


 男は答えた。


「鴉羽朔を生きたまま捕らえよ」


 朔は眉をひそめた。


「それがしを……生きたまま?」


「そうだ」


「しかし、先ほどの密書には……」


「知っておる」


 男は言葉を遮った。


「おぬしを殺せという命令も、確かに存在する」


 朔の心臓が激しく打った。


「では、どちらが本当の命令なのでござるか!」


 男はしばらく黙っていた。


 そして、低い声で答えた。


「……どちらも本当だ」


 朔は言葉を失った。


「影綱の中で、二つの命令が同時に下されておる」


「なぜ、そのようなことが……」


「それを知りたければ、まずは生き残ることだ」


 男はゆっくりと後退した。


「今夜、この山に十人の忍びが入っている」


 朔は息をのんだ。


「五人はおぬしを殺すために」


 男は続けた。


「そして残る五人は、おぬしを生かして捕らえるために」


 朔は震える声で尋ねた。


「……どちらも、影綱の忍びでござるか」


 男はうなずいた。


「そうだ」


 そして最後に、こう告げた。


「鴉羽朔。おぬしは、影綱の中で起きた争いに巻き込まれたのだ」


 朔は小刀を握りしめた。


 今朝まで、自分はただの下忍だった。


 密書を運び、麦飯を食い、仲間と稽古をする。


 そんな平凡な忍びだった。


 だが、今は違う。


 自分を育てた組織が、自分の命を奪おうとしている。


 しかも、その組織の中で、誰かが自分を殺そうとし、別の誰かが生かそうとしている。


 誰が敵で、誰が味方なのか。


 何が本当で、何が嘘なのか。


 朔には何一つ分からなかった。


 ただ一つ、心に決めたことがある。


 それは、死なぬことだった。


「……承知いたした」


 朔は低くつぶやいた。


「それがしが生きていては困る者がおるというなら……」


 懐の密書へ手を当てた。


「その者の顔を、必ず拝んでやろうぞ」


 外では、山鳥がけたたましく鳴いていた。


 遠くの山道に、松明の明かりが見える。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 やがて、その数は十を超えた。


 忍びたちが動き始めていた。


 朔は暗闇の奥を見据えた。


 影綱の下忍、鴉羽朔。


 二十四歳。


 剣術は並。


 特別な武功もない。


 ただ密書を運ぶことだけが取り柄の男。


 そんな男が、戦国の裏側を支配する巨大な秘密に触れようとしていた。


 そして、すべての始まりは、一通の密書だった。


 自分を殺せと書かれた、一通の密書。



つづく

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