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忍務 —SHINMU—  作者: 虫松
第一部 密書の差出人

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第5話 傘職人の姿で霞ヶ城へ

翌朝。


 朔は旅の傘職人に姿を変え、霞ヶ城へ向かった。


 背中には番傘を三本。


 腰には修理道具。


 頭には古びた笠をかぶっている。


 黒い髪には白い粉を混ぜ、少し年上に見えるようにした。


 竹筒は袖の裏側へ縫い込んである。


 普通に身体を調べられた程度では見つからない。


 朔は山道を歩きながら、頭の中で旅程を確かめた。


 今日中に峠を越える。


 明日は川沿いの宿場へ。


 三日後には霞ヶ城へ到着する予定だった。


 道中には関所が二つある。


 通行手形は用意してある。


 変装も問題ない。


 いつもと同じ密書運びだ。


 そう考えていた。


 昼過ぎ、山道の途中で薬売りの女と出会った。


 二十代半ばほどの女だった。


 色白で、黒い髪を後ろにまとめている。


 薬箱を背負い、道端に腰を下ろしていた。


「旅のお方」


 女が声をかけてきた。


「傷薬はいかが?」


「今は間に合っております」


「そうですか。では、虫よけの薬などは?」


「それも結構にござる」


 女は笑った。


「ずいぶん用心深いお方ですね」


「商いの旅は、何かと物入りでござるゆえ」


「そうでしょうね」


 女は朔の足元へ目を向けた。


「その草鞋、右の鼻緒が弱っていますよ」


 朔は足元を見た。


 確かに、右の鼻緒が少しほつれていた。


「よくお気づきになられましたな」


「薬売りは、旅人の足元も見るものです」


「なるほど」


 朔は軽く頭を下げた。


「では、これにて」


「お気をつけて」


 女は穏やかに微笑んだ。


 朔は歩き出した。


 しばらく進んでから、ふと振り返った。


 女はまだ道端に座っていた。


 だが、その視線は朔の背中ではなく、山の奥を向いていた。


 何を見ているのだろう。


 朔は少しだけ気になった。


 しかし、任務の途中である。


 余計なことへ首を突っ込むべきではない。


 そう判断し、再び歩き始めた。


最初の異変が起きたのは、峠の中腹だった。


 朔は道端に落ちていた細い枝を見つけた。


 不自然に折れている。


 しかも、折れ口が新しかった。


 人が踏んだのだろう。


 朔は足を止めた。


 道の脇には杉林が広がっている。


 鳥の声がしない。


 先ほどまで鳴いていた山鳥が、急に静かになっていた。


 朔はゆっくりと周囲を見渡した。


 右の杉林。


 左の崖。


 前方の曲がり道。


 人の姿はない。


 だが、誰かがいる。


 忍びの勘だった。


 朔は知らぬふりをして歩き始めた。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 その瞬間。


 ヒュッ!


 鋭い音が耳元を通り過ぎた。


 朔は反射的に身体を伏せた。


 背後の木に矢が突き刺さった。


「なっ……!」


 二本目が飛んできた。


 朔は道端へ転がった。


 矢が土をえぐる。


 三本目。


 朔は慌てて岩陰へ飛び込んだ。


 心臓が激しく打っていた。


 何者だ。


 山賊か。


 敵国の忍びか。


 しかし、山賊が弓を使って正確に急所を狙うだろうか。


 しかも、こちらが密書を運んでいることを知っているかのような襲撃だった。


「……何者でござるか!」


 朔は叫んだ。


 返事はない。


 代わりに、杉林から男が一人現れた。


 黒い頭巾で顔を隠している。


 手には抜き身の小刀を持っていた。


「鴉羽朔」


 男が名を呼んだ。


 朔は息をのんだ。


 なぜ、本名を知っている。


 今の自分は傘職人に化けている。


 道中で本名を名乗ったことなど一度もない。


「おぬし、何者でござる」


 男は答えなかった。


「密書を渡せ」


 朔の背筋が冷たくなった。


 密書の存在まで知られている。


 これは偶然の襲撃ではない。


 最初から自分を狙っていたのだ。


「どなたの命でござるか」


「答える必要はない」


「ならば、それがしも渡すわけにはまいらぬ」


 男は小刀を構えた。


「命が惜しくないのか」


「惜しいに決まっておろう!」


 朔は思わず叫んだ。


「それゆえ、おとなしく斬られるわけにはまいらぬ!」


 男が踏み込んできた。


 速い。


 朔は小刀を抜いて受けた。


 激しい衝撃が腕に走った。


 次の一撃を防ぎきれず、身体が後ろへ流れる。


 やはり、剣では敵わない。


 朔はすぐに判断した。


 正面から戦えば、間違いなく殺される。


 ならば。


 朔は背中の番傘を一本取り出した。


 男が一瞬、動きを止めた。


「……傘?」


 朔はその場で番傘を大きく広げた。


 バサッ!


 突然視界を遮られ、男の動きが鈍る。


 その隙に朔は傘を投げつけ、岩陰へ走った。


「逃がすか!」


 男が追ってくる。


 朔は腰の道具袋から細い縄を取り出した。


 傘の修理に使う丈夫な紐だった。


 それを木の根に引っかけ、道の低い位置へ張る。


 男が勢いよく飛び込んできた。


 足が縄に絡んだ。


「ぐわっ!」


 男は前のめりに倒れた。


 朔は振り返らず、山道を走った。


 だが、前方の杉林から別の男が現れた。


 二人目。


 さらに背後から足音。


 三人目。


 囲まれている。


「……これは、まことに困ったことでござるな」


 朔の額に冷や汗が流れた。


 逃げ道は左の崖しかない。


 朔は一瞬だけ崖下を見た。


 途中に松の木が生えている。


 その下には深い藪が広がっていた。


 生き残れる保証はない。


 しかし、ここに残れば殺される。


 朔は覚悟を決めた。


「南無三!」


 崖へ飛び込んだ。


 身体が宙に浮く。


 風が耳元で唸る。


 朔は必死に枝をつかんだ。


 バキッ!


 枝が折れた。


 落ちる。


 今度こそ終わりかと思った瞬間、身体が下の藪へ突っ込んだ。


 枝が顔を打つ。


 背中を岩にぶつける。


 足が何度も地面を跳ねた。


 ようやく止まったとき、朔は泥の中に倒れていた。


「……生きて、おるか」


 自分で自分に問いかけた。


 右腕が痛い。


 左足もひどく痛む。


 だが、動く。


 指も曲がる。


 朔はゆっくり起き上がった。


 頭上から男たちの声が聞こえた。


「落ちたぞ!」


「死んだか!」


「確かめろ!」


 朔は息を殺した。


 追っ手が降りてくる前に、ここを離れなければならない。


 足を引きずりながら、沢へ向かった。


 冷たい水に足を踏み入れる。


 痛みが走った。


 それでも歩いた。


 山の中で生き残ること


 それもまた、忍びの修行で教わったことだった。



つづく

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