第4話 新たな忍務
翌日の夕刻。
影綱の屋敷へ戻った朔を、権六が迎えた。
「戻ったか」
「ただいま戻りました」
「仕事は?」
「滞りなく」
「追っ手には気づいたか」
「水車小屋までご案内いたしました」
権六は大きく笑った。
「そうかそうか! あの男、さぞ驚いたであろうな!」
「師匠の差し金でござるか」
「忍びの仕事は、油断した者から死ぬ。それを忘れさせぬためじゃ」
「ずいぶん手の込んだことでござる」
「それがおぬしらの修行よ」
朔は苦笑した。
何事もなく任務を終えた日の夜は、いつも少しだけ気分が軽かった。
部屋で草鞋を脱ぎ、紐の傷みを確かめる。小刀を布で拭い、道中の出来事を覚書に記す。
道のぬかるみ。
兵の往来。
米の値段。
宿場で見かけた不審な人物。
それらを忘れぬうちに書き残すことも、下忍の務めだった。
書き終えると、朔は紙を細かく裂いて囲炉裏の火にくべた。
覚書は伊織に報告済みである。
余計な記録を残してはならない。
燃え尽きるのを見届けてから、朔は寝床に入った。
明日もまた、いつもと同じ一日が始まる。
そう信じていた。
三日後の朝。
朔は師匠の黒瀬伊織に呼び出された。
場所は屋敷の奥にある小さな書院だった。
普段、下忍が立ち入ることはほとんどない。
障子の向こうから伊織の声がした。
「入れ」
「失礼いたします」
朔は正座して頭を下げた。
伊織は机の前に座っていた。
その前には、細長い竹筒が一本置かれている。
「先日の任務、ご苦労であった」
「ありがたきお言葉」
「おぬしの観察力は確かなものだ」
朔は少し驚いた。
伊織が弟子を褒めることは珍しい。
「もったいなきお言葉にござる」
「そこで、次の仕事を任せたい」
「承知いたしました」
伊織は竹筒を手に取った。
「東国、天城領の霞ヶ城へ向かえ」
朔は顔を上げた。
霞ヶ城。
東国を治める天城家の重要な城である。
そこへ密書を運ぶということは、かなり重要な任務に違いない。
「届け先は?」
「城代家老、三枝信親殿」
「城代家老でございますか」
「そうだ」
朔は思わず竹筒を見た。
「それがしのような下忍でよろしいのでござろうか」
「おぬしだからこそ、任せる」
伊織は静かに答えた。
「剣の達者な者は、武士として目立つ。腕の立つ忍びは、敵に名を知られている。だ
が、おぬしは違う」
朔は苦笑した。
「どこにでもいる顔ということでござるな」
「そのとおりだ」
伊織は真顔だった。
褒められているのかどうか、やはりよく分からない。
「ただし、今回の任務には決まりがある」
「何でござろう」
「竹筒の封を切ってはならぬ」
「心得ております」
「中身を誰にも見せるな」
「無論にござる」
「そして、必ず城代家老本人に手渡せ」
「承知いたしました」
伊織は竹筒を朔の前へ置いた。
黒い糸で厳重に封じられている。
朔はそれを受け取った。
手にした瞬間、わずかな違和感があった。
いつもの密書より重い。
中に紙だけではないものが入っているようだった。
だが、朔は尋ねなかった。
密書の中身を詮索しない。
それが影綱の掟である。
「明朝、出立せよ」
「はっ」
朔が頭を下げたとき、伊織が再び口を開いた。
「朔」
「はい」
「今回の任務は、今までの仕事とは違う」
朔は顔を上げた。
伊織はいつになく厳しい表情をしていた。
「決して油断するな」
「承知しております」
「そして、もし道中で誰かに止められても、任務を中断するな」
「誰かに、でございますか?」
「そうだ」
「敵国の忍びでしょうか」
伊織は答えなかった。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、伊織は小さく言った。
「……生きて戻れ」
朔は驚いた。
今まで何度も任務を受けてきたが、師匠がそのような言葉をかけたことはなかった。
「師匠?」
「何だ」
「何か、心配事でもございますか」
「ない」
「ならば、なぜそのようなことを」
伊織は目を伏せた。
「忍びが無事に帰る。それ以上に望むことがあるか」
朔は言葉に詰まった。
確かに、そのとおりだった。
しかし、何かがおかしい。
長年仕えてきた師匠の態度が、いつもとは違っていた。
「……必ず戻ってまいります」
朔は深く頭を下げた。
伊織は何も答えなかった。
つづく




