第3話 尾行する男
城下を出る手前に、小さな橋がある。
橋の下には細い川が流れ、両岸には柳が並んでいた。
朔は橋の手前で足を止めた。
背後から足音が聞こえる。
一定の間隔を保ち、ついてくる。
近江屋の前にいた男だろう。
朔は橋を渡らず、川沿いの道へ入った。
少し進むと、古い水車小屋がある。
朔は水車小屋の陰へ入り、荷物を下ろした。
すぐに男の足音が近づいてきた。
男は朔の姿を見失い、立ち止まった。
「……おかしいな」
独り言が聞こえた。
朔は小屋の反対側から出て、男の背後へ回った。
「それがしをお探しでござるか?」
「うわっ!」
男は驚いて振り返った。
「そういうわけでは……」
男は言葉に詰まった。
朔は相手の顔をじっと見つめた。
三十前後。
右の眉尻に小さな傷。
左手の親指には墨の痕があった。
刀を握る男の手ではない。
帳面を扱う商人か、書き物をする者だろう。
「おぬし、近江屋の帳面を追っておられるのでござろう?」
男の顔色が変わった。
朔はため息をついた。
「仕事熱心なのは結構なこと。しかし尾行というものは、相手の行く先で何度も顔を見せぬほうがよろしい」
男は観念したように肩を落とした。
「……まさか気づかれていたとは」
「昨日、湯屋の前でもお見かけした」
「そこからか……」
男は懐から小さな木札を取り出した。
影綱の符牒が刻まれている。
「同じ組織の者だ。今回の荷が無事に運ばれるか、見届けるよう命じられた」
「それがしを試しておられたのでござるな」
「そういうことだ」
「師匠も人が悪い」
「黒瀬殿は、おぬしの働きを確かめたいのだろう」
「それなら最初から言ってくださればよいものを」
男は苦笑した。
「忍びの試しに、前もって知らせる者があるか」
それもそうだった。
朔は軽く頭を下げ、再び歩き始めた。
追跡者に気づくことができた。
まずは合格というところだろう。
しかし、これで仕事が終わったわけではない。
密書を届けるまでが忍務である。
北の宿場へ到着したのは、その日の夕刻だった。
宿場には旅籠が七軒、茶屋が三軒、馬を替える施設が一つあった。
朔は指定された旅籠へ入った。
帳場に座る老人が顔を上げる。
「泊まりかね?」
「人を訪ねて参りました」
「誰を?」
「紀州からお越しの商人殿にござる」
老人は奥を指さした。
「それなら二階におるよ」
朔は階段を上がった。
二階には三つの部屋があり、奥の部屋から話し声が聞こえた。
「紀州の商人殿は、こちらにおられますか」
「入れ」
朔は障子を開けた。
部屋には二人の男がいた。
一人は五十ほどの太った商人。
もう一人は若い奉公人だった。
朔は商人の左手に視線を落とした。
小指がなかった。
間違いない。
だが、まだ確認は終わっていない。
「今年の蚕はよく育つ」
朔が告げると、商人は笑った。
「桑の葉が足りませぬ」
合言葉が一致した。
朔は懐から帳面を取り出した。
朔はそれを押しいただいた。
仕事は無事に終わった。
ただそれだけのことである。
何者かと刀を交えることもない。
命を懸けて城壁を登ることもない。
誰にも気づかれず、帳面を一冊届けただけ。
しかし、これも立派な忍務だった。
朔が届けた帳面には、各地の米の値段と兵糧の買い付け量が記されていた。
それを知っているのは、命令した者と受け取った者だけである。
朔自身は、何を運んだのか知らない。
知る必要もない。
それが影綱の決まりだった。
朔は旅籠を出ると、空を見上げた。
夕焼けが山々を赤く染めていた。
「……今日も無事に終わったでござるな」
誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいた。
明日には屋敷へ帰れる。
帰れば麦飯が待っている。
権六にまた小言を言われるだろう。
蓮には剣の稽古で負けるだろう。
それでも、平穏な一日だった。
朔はそう思っていた。
このときまでは。
つづく




