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忍務 —SHINMU—  作者: 虫松
第一部 密書の差出人

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第10話 密書の真意を知る人物

山を下りる頃には、夕暮れが迫っていた。


 朔は沢のほとりで足を止め、傷を洗った。


 肩の傷は浅い。


 左足はまだ痛むが、どうにか歩ける。


 朔は水面に映る自分の顔を見つめた。


 泥だらけだった。


 着物は破れ、髪も乱れている。


 昨日まで、自分は影綱の下忍だった。


 朝起きて麦飯を食い、修行をし、密書を運ぶ。


 そんな暮らしが当たり前だった。


 だが今は違う。


 屋敷へ戻ることさえ許されない。


 仲間から命を狙われている。


 自分の居場所が、たった一通の密書によって奪われてしまった。


 朔は空を見上げた。


 山の向こうへ日が沈んでいく。


「……師匠」


 思わず名前をつぶやいた。


 黒瀬伊織。


 自分を育ててくれた男。


 あの人は、今回の命令について何を知っていたのか。


 なぜ、出発前に「生きて戻れ」と言ったのか。


 そして今、どこにいるのか。


 朔は書庫で見た帳面を思い出した。


 命令承認、影綱上位評定。


 差出人、あの黒い印。


 上位評定から出された七件の命令。


 そのうち一件が、自分の処刑命令だった。


 どうしても理由が分からない。


 いや、理由がないはずはない。


 何かがある。


 自分でも知らない何かが。


 朔は懐から密書を取り出した。


 破れた封。


 黒い糸。


 朱印。


 そして、自分の名前。


 何度見ても、処刑命令の内容は変わらない。


 しかし、書庫で記録を調べたとき、朔には気になったことが一つあった。


 ほかの密書は、すべて届け先の名前が先に記されていた。


 ところが、自分の密書だけは違った。


 最初から、輸送担当者の名前が大きく書かれていたのだ。


 鴉羽朔。


 まるで、密書を運ぶことそのものが任務の目的であるかのように。


 朔は目を細めた。


「……待たれよ」


 ふと、ある考えが浮かんだ。


 自分を殺すだけなら、なぜ霞ヶ城まで行かせる必要があったのか。


 影綱の屋敷で殺せば済む話である。


 それなのに、わざわざ密書を運ばせた。


 しかも、城代家老本人へ手渡すよう命じられていた。


 つまり、何か別の目的があるのではないか。


 ただ殺すためではない。


 自分を霞ヶ城へ到着させることに、何か意味があるのではないか。


 朔は密書をじっと見つめた。


 そして、竹筒の内側に目を向けた。


 今まで気づかなかったが、筒の底に何かが貼りついている。


 薄い紙だった。


 朔は小刀の先で慎重に剥がした。


 小さな和紙が現れた。


 そこには短い文字が記されていた。


 普通の文章ではない。


 影綱の暗号だった。


 朔は息をのんだ。


 暗号解読は得意ではない。


 しかし、影綱の下忍ならば、最低限の読み方は教わっている。


 朔は記憶をたどりながら、一文字ずつ読み解いた。


 やがて、意味の通じる文章になった。


 ――第一の命。


 鴉羽朔を霞ヶ城へ到着させよ。


 ――第二の命。


 霞ヶ城城代家老三枝信親に、密書を確認させよ。


 ――第三の命。


 鴉羽朔を処分せよ。


 朔は息を止めた。


 三つの命令。


 最初の二つは、密書を届けるまでの手順。


 最後の一つが処刑だった。


 つまり、自分の処刑は単なる目的ではない。


 何か別の計画の最後に行われる処分なのだ。


「……これは、いったい」


 朔はさらに紙を確かめた。


 裏側にも文字があった。


 今度は暗号ではない。


 小さく、ただ一行。


 ――本件の真意を知る者、三名。


 朔は目を見開いた。


 三名。


 誰だ。


 上位評定の者か。


 城代家老か。


 それとも師匠か。


 朔は震える指で紙を裏返した。


 その下には、さらに小さな文字が記されていた。


 ――命令を受けた者も、真意を知る者とは限らず。


 朔は深く息を吐いた。


 つまり、自分を殺そうとしている忍びたちも、理由を知らないということなのか。


 半兵衛も。


 権六も。


 もしかすると、伊織でさえ。


 いや、分からない。


 今は誰が何を知っているのか、判断できなかった。


 しかし、ようやく一つだけ分かったことがある。


 自分を殺そうとしている者と、命令を下した者は、必ずしも同じではない。


 そして、この密書の裏には、まだ何かが隠されている。


 朔は和紙を丁寧に折り畳んだ。


「……どうやら、それがしの命は、思っていたよりも高く売れるようでござるな」


 乾いた笑いが漏れた。


 そのときだった。


 背後の木々が揺れた。


 朔は振り返った。


 誰かいる。


 いや、複数人だ。


 山道の向こうから、静かな足音が近づいてくる。


 朔は身を低くした。


 やがて、三人の忍びが姿を現した。


 先頭の男が言った。


「鴉羽朔。そこにおるな」


 朔は答えなかった。


 男は続けた。


「おぬしの逃げ道は、すでに塞いだ」


 その声に聞き覚えはなかった。


 しかし、腰に差した小刀の柄には、影綱の印が刻まれている。


 また仲間か。


 朔は歯を食いしばった。


「何ゆえ、それがしを追う!」


 男は答えた。


「命令だからだ」


「誰の命令でござる!」


「知る必要はない」


 また、その言葉だった。


 朔は思わず笑った。


「……影綱の者は、それしか申せぬのか」


 男の目が細くなった。


「何がおかしい」


「それがしは今まで、その言葉に従って生きてきた。命令だから従う。理由は知らぬ。疑問も持たぬ」


 朔は小刀を抜いた。


「だが、もうやめじゃ」


 男たちが身構える。


 朔は続けた。


「それがしは、理由も知らずに死ぬつもりはござらぬ」


「ならば、力ずくで処分するまでよ」


 三人が一斉に動いた。


 朔は正面から戦わなかった。


 すぐに右手の沢へ飛び込み、水を跳ね上げながら下流へ走った。


 敵が追ってくる。


 足音が近い。


 しかし朔は、この沢を知っていた。


 下流には大きな岩があり、その陰に細い横穴がある。


 子供の頃、蓮と二人で隠れ家にしていた場所だった。


 朔は岩の陰へ滑り込み、横穴に身体を押し込んだ。


 追っ手たちはそのまま沢を下っていく。


「どこへ行った!」


「下流だ!」


「逃がすな!」


 声が遠ざかった。


 朔は暗い横穴の中で、静かに息を整えた。


 何とか逃げ切った。


 だが、いつまで逃げ続けられるだろう。


 影綱の忍びは、どこにでもいる。


 商人。


 農民。


 僧侶。


 旅人。


 街道で出会う誰が敵なのか、もはや分からない。


 しかも、相手は自分の育った組織だった。


 自分が学んだ忍術も、逃げ道も、考え方も、すべて知られている。


 朔は小刀を握りしめた。


 このままでは、いずれ捕まる。


 ならば 今度はこちらから動くしかない。


 逃げるだけでは、何も分からない。


 上位評定。

 霞ヶ城。

 三枝信親。


 そして、密書の真意を知る三人。


 その誰かを探し出す必要がある。


 朔は暗闇の中で目を閉じた。


 思い浮かぶのは、師匠の顔だった。


 伊織は今、どうしているのだろう。


 自分が追われていることを知っているのか。


 もし知っているなら、なぜ助けに来ないのか。


 朔はようやく、一つの決断を下した。


 影綱の屋敷へ戻ることはできない。


 ならば、次に向かうべき場所は一つしかない。


 霞ヶ城。


 自分を殺せという命令書を、届けるはずだった場所である。


 そこには、この密書の真意を知る人物がいるかもしれない。


 しかし、正面から入れば殺される。


 城代家老に会う方法もない。


 敵国の城へ忍び込むことさえ難しい。


 朔は小さく息を吐いた。


「……まったく、難儀な仕事でござるな」


 そして、自分でも不思議なことに気づいた。


 恐怖はまだ消えていない。


 だが、それ以上に知りたいと思っていた。


 なぜ、自分を殺そうとするのか。


 誰が命令したのか。


 何のために、霞ヶ城へ行かせようとしたのか。


 そして、影綱の上位評定とは何者なのか。


 朔は横穴から外へ這い出した。


 空には星が輝いていた。


 山の向こうには、東国へ続く街道がある。


 そこへ向かえば、再び命を狙われるだろう。


 だが、逃げ続けても、いずれ同じことである。


 朔は歩き出した。


 今度は誰かの命令で動くのではない。


 自分自身の意思で動くのだ。


 そのとき、朔はまだ知らなかった。


 今夜、自分を逃がした権六が、影綱の屋敷で厳しい尋問を受けていることを。


 そして、黒瀬伊織のもとにも、一通の密書が届けられていたことを。


影綱の屋敷。


 夜更けの書院で、黒瀬伊織は一人、灯火の前に座っていた。


 机の上には、細長い竹筒が一本置かれている。


 数刻前に届いたものだった。


 伊織はしばらくそれを見つめていたが、やがて静かに封を切った。


 中から和紙を取り出す。


 そこには、わずか二行の命令が記されていた。


 ――鴉羽朔、影綱へ帰還せり。


 ――処分を完了せよ。


 伊織は紙を握りしめた。


 しばらく動かなかった。


 やがて、低い声でつぶやいた。


「……朔」


 その声には、怒りとも悲しみともつかぬ響きがあった。


 伊織は立ち上がり、壁に掛けてある刀を手に取った。


 鞘から刃を少しだけ抜く。


 灯火が鋭く反射した。


「なぜ、戻ってきた」


 伊織は静かにつぶやいた。


 そして、誰にも聞こえぬ声で続けた。


「……あれほど、戻るなと申したものを」


 外では夜風が吹いていた。


 竹林がざわめき、障子が小さく揺れる。


 伊織は刀を鞘へ戻した。


 その顔には、何の感情も浮かんでいなかった。


 ただ、机の上には一通の密書が残されていた。


 影綱の正式な朱印。


 黒い円に、三本の線。


 朔を殺せと命じたものと、まったく同じ印だった。


 その命令書に、差出人の名前はなかった。


 そして影綱の中で、その印を押すことを許された者が何人いるのか。


 それを知る下忍は、一人もいなかった。



つづく

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