第1話 友が自分を待ち伏せ
忍びが最も恐れる相手は、敵国の忍びではない。自分と同じ師匠から技を学び、同じ飯を食い、同じ修行場で汗を流した仲間である。なぜなら、その者は自分の得意な技だけでなく、苦手な技も、逃げる際の癖も、恐怖を感じたときの行動までも知っているからだ。
鴉羽朔は、山中の細い獣道を歩きながら、そのことを嫌というほど思い知らされていた。
影綱の屋敷を脱出してから、一昼夜が過ぎようとしている。
行き先は東国、天城領の霞ヶ城。自分を殺せと書かれた密書の届け先であり、その命令を下した者につながる手掛かりが残されているかもしれない城だった。
もっとも、今の朔が城へ近づくのは容易ではない。影綱は各地に情報網を張り巡らせている。街道の茶屋、宿場の旅籠、渡し場、寺社、商家。どこに忍びが潜んでいるか分からなかった。
朔は山道の途中で、背負っていた番傘を捨てた。
傘職人の姿では目立ちすぎる。襲撃から逃れる際に着物も破れていたため、今さら商人を装うことも難しかった。
そこで朔は、道端で拾った古い蓑を羽織り、近くの炭焼き小屋で譲り受けた木炭を背負った。顔と手には炭の粉を塗り、腰の小刀を薪の束の中へ隠した。
どこから見ても、山から下りてきた炭売りだった。
ただし、一つだけ問題がある。
「……腹が減った」
朔は道端の石に腰を下ろした。
懐には、わずかな銭しか残っていない。影綱の屋敷へ戻るつもりだったため、長旅に必要な食料を十分に用意していなかったのである。
忍びは草の根を食い、木の実をかじってでも生き延びると教わってきた。しかし、それは非常時の話であって、好んで腹を空かせたいわけではない。
「それがしは、何のために忍びになったのでござろうな」
誰に聞かせるでもなく、朔はつぶやいた。
立派な武士になるためでも、天下に名を残すためでもなかった。
子供の頃、食うものに困っていた朔を拾ったのが黒瀬伊織だった。行くあてのなかった少年に寝床を与え、飯を食わせ、忍びとして育ててくれた。
朔にとって影綱は、ただの組織ではない。
家だった。
権六は口うるさい祖父のような存在であり、蓮は兄弟のような存在だった。ほかにも、共に修行を受けた仲間が大勢いる。
その者たちが今、自分を追っている。
朔は蓑の下から竹筒を取り出した。
中には自分の処刑命令が入っている。
命令を下したのは影綱の上位評定。だが、評定を構成する者の名前も、なぜ自分が処分されるのかも分からない。
分かっているのは、処刑命令が正式な記録に残されていたこと。そして、命令を知らずに遂行している忍びたちが何人もいることだけだった。
「……師匠は、何を知っておられるのか」
朔は竹筒を懐へ戻した。
信じたい。
しかし、信じるだけでは生き残れない。
それを、この二日間で嫌というほど学んでいた。
山を下りたところに、北川という大きな川が流れていた。
霞ヶ城へ向かうには、この川を渡らなければならない。街道沿いには渡し場が設けられており、旅人や商人は舟で対岸へ渡る。
朔は林の陰から渡し場の様子を観察した。
舟が二艘。船頭が三人。旅人が六人。そして、街道の関所から派遣されたらしい足軽が二人。
一見、何の変哲もない渡し場である。
しかし、朔はある男の動きに目を留めた。
茶屋の前に座る旅人だった。
男は編笠を深くかぶり、腰には一本の杖を置いている。傍らには風呂敷包みがあった。
おかしい。
渡し舟が出るたびに、男は顔を上げる。だが、舟へ乗ろうとはしない。
しかも、船頭の声には反応せず、旅人の顔ばかり見ている。
誰かを待っているのだ。
朔は男が腰を上げる瞬間を待った。
やがて男は茶代を払い、川岸へ移動した。
その際、右足をわずかに引きずった。
朔の心臓が跳ねた。
「……まさか」
男が編笠を持ち上げる。
横顔が見えた。
右の眉の上に、小さな傷がある。
見間違えるはずがなかった。
日向与七。
二十五歳。
朔と同じ影綱の下忍であり、十代の頃から共に修行してきた仲間だった。
与七は朔と違い、罠を仕掛けることに長けている。縄や竹、石ころ一つでも相手の足を止める道具に変えてしまう男だった。
もっとも、性格は明るく、よく笑う。蓮のように剣の腕を競うこともなく、朔とは気の合う友だった。
その与七が、渡し場で誰かを待っている。
誰を。
考えるまでもなかった。
朔は蓑の下で拳を握りしめた。
「……与七、おぬしまでか」
声は風に消えた。
朔が与七と最後に顔を合わせたのは、四日前の夕方だった。
影綱の修行場で、与七は新しい縄の結び方を試していた。細い麻縄を二本組み合わせ、強く引けば簡単にほどける仕組みにしたものである。
『見ておれ、朔。これがあれば、敵に縛られても逃げられる』
『そもそも捕まらぬようにすればよかろう』
『それを申すな。捕まらねば、この技の出番がなくなるではないか』
二人は笑い合った。
与七はその後、自慢の縄を使って自分を柱に縛りつけ、見事に抜け出してみせた。ただし、調子に乗ってもう一度試したところ、今度は結び目が固くなり、どうしてもほどけなくなった。
結局、朔が小刀で縄を切る羽目になった。
『朔、誰にも申すなよ』
『それがしの口を封じるには、団子三本が必要でござる』
『二本に負けてくれ』
『ならぬ』
くだらない思い出だった。
だが、朔にとっては何より大切な日々だった。
その友が今、自分を待ち伏せしている。
朔は川岸の草むらに身を伏せたまま、与七の様子を見守った。
やがて渡し舟が対岸へ向かって出発した。与七は舟を見送ったあと、茶屋の裏へ回り、待機していた別の男と短く言葉を交わした。
その男が懐から取り出したものを見て、朔は息をのんだ。
似顔絵だった。
描かれているのは、朔自身の顔である。
与七はそれを受け取り、広げて確かめた。
朔は目を細めた。
絵の下には文字もあるらしいが、この距離では読めない。
しかし、顔を探すために使うものだということは分かった。
自分の姿を変えても、影綱は追跡をやめないつもりなのだ。
朔は渡し場を諦め、上流へ向かった。
北川には、昔使われていた古い水車小屋がある。
そこからさらに上流へ進むと、岩場の間に細い丸木橋が架かっていたはずだった。
橋が残っていれば、舟を使わずに渡れる。
ただし、与七もその道を知っている。
朔は苦い顔をした。
「……厄介な男が追っ手になったものでござる」
剣の達人ならば、まだよかった。
斬り合わずに逃げれば済むからだ。
しかし与七は、逃げる者を捕らえる技に長けている。
しかも朔の考えることをよく知っている。
それが一番の問題だった。
つづく




